『歴史の評価に耐えうる信仰』 2 テモテ 1:8-14
1:8
ですから、あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であること
を恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともに
してください。
1:9
神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは
私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、
キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、
1:10
それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされた
のです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されまし
た。
1:11
私は、この福音のために、宣教者、使徒、また教師として任命されたのです。
1:12
そのために、私はこのような苦しみにも会っています。しかし、私はそれを恥
とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方をよく知っており、ま
た、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってくださることができると
確信しているからです。
1:13
あなたは、キリスト・イエスにある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なこ
とばを手本にしなさい。
1:14
そして、あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によっ
て、守りなさい。
新年明けましておめでとうございます。私たち牧師夫婦にとりましては、今年の
「明けましておめでとう」という挨拶には、挨拶と共に、本当に明けてよかったとい
う感謝をひしひしと感じます。
さて新年を前にして、クリスマスの頃から今年の御言葉を祈って考えておりました。
そして今朝のテキスト13節の御言葉に導かれました。「あなたは、キリスト・イエス
にある信仰と愛をもって、私から聞いた健全なことばを手本にしなさい」でありま
す。そこで今年は、新年からしばらく、この2テモテからのシリーズ説教をいたしま
す。
この二つあるテモテへの手紙は、テトスの手紙と共に、牧会書簡と呼ばれています。
何故、今カリフォルニアの星教会はこの書簡を学ばねばならないかは、まず今日は教
会管理の問題があまりにも大きいからであります。牧会書簡は、教会の管理に対して
示唆を与えます。今日では教会がまるで世の中のサークルと化し、教会の聖さが退化
しています。問題の人に対して教会の誡規が執行されることはまずありません。指導
者側でも、スクリーンもされず誰でも彼でも、殆どセルフオーデインと言ってもいい
ような形で牧師になっております。それはこの書簡を学ばねばならない第二の理由に
つながります。つまりそういう指導者のいる教会では、健全な教理を教えない傾向が
あるからであります。牧会書簡は、健全な教理については、非常に強調しています。
第三には、牧会書簡が、主が願われるような聖い生活をすることを非常に強調してい
るからです。第四は、不幸なことに今日では、何を信じているかを、きちんと答えら
れるクリスチャンは非常に少なく、『使徒信条』すらも暗誦できないクリスチャンが
大半ですが、信条の価値に対して答えているからであります。第五には、パウロが最
後にどのように生きたかを知ることが出来るからです。「使徒の働き」は、ローマで
パウロが彼の最後の日々に何を考えていたかをそう詳しくは伝えていません。しかし
牧会書簡はリッチです。それは私たちが生涯をいかに生きるかに大きな影響を与えて
くれます。人間はいかに死ぬかが非常に大切ですが、それに対してヒントを与えてく
れます。第六に、キリスト教の成立に大きな影響がある、第一世紀の、第三・四半期
に対して、様々な情報を与えてくれるからです。そして最後、第七は、当然ですがこ
れらの書簡もまた、これらを学ぶことで、今日においても神が私たちに語られるから
です。この牧会書簡を学ぶ意義は、牧会書簡全体について言えることですから、2テ
モテを学ぶ時に、どれ位カヴァーできるかは、今後学んでいくうちに明らかになるで
しょう。
正直なところ、今朝の『歴史の評価にたえうる信仰』 などというタイトルはお
かしいのですね。何故なら信仰は一つ(エペソ4:5)であり、その信仰は歴史の評価
に耐えうるに決まっています(1コリント13:13)。けれども今「歴史の評価にたえう
る」などと言わねばならないのは、信仰だと思っていても、実はそうではない信仰が
あるからです。
シリーズ説教なら、最初からやればいいのですが、今年の御言葉を13節に選んだ
ことから、8節から始めることにします。
純粋な信仰は健全なことばによります。ですから私達は、純粋な信仰を持ち、それを
維持するために、健全な御言葉の教えを手本にして、聖霊の助けを求めることが大切
です。
第一に覚えていただきたいことは、『いわゆる信仰』でも聖書の御言葉を使うという
ことです。このテキストには「御言葉」と出てきますが、それには説明が必要です。
つまり聖書の御言葉を使うからといって皆純粋な信仰ではないのです。これは皆さん
わかりますね?『エホバの証人』、『統一原理』、『モルモン』などの異端は、みな
聖書を使います。正統だと信じられているキリスト教会は当然聖書を使います。とこ
ろが、テキストは、「私から聞いた健全なことば」と言っています。ここでは、「私
から聞いた健全なことば」というのは、健全な教えと理解すべきでしょう。英語の聖
書では「sound
teaching」,つまり健全な教えになっています。今日ではつまり神の
御言葉の説教と言ってもいいでしょういくら聖書を使ってもこの教えが不健全だと、
その信仰は歴史の評価に耐えられなくなります。
これは本当にあった話ですが、「聖書には互いに愛し合え(ヨハネ15:12)とあるか
ら、愛し合ったのです」と言って不倫をしていた不心得者がいたそうです。良識ある
キリスト者でなくとも、常識人なら分かりそうなものと思うのですが、マインド・コ
ントロールされてしまうと、もう正常な考え方が出来なくなってしまうことがありま
す。
アメリカではしばしばですが、近年は日本の教会も訴えられるようになりました。昨
年は聖神中央教会の牧師が訴えられましたが、それだけではなく暮れに、これは私も
よく知っている教会の牧師が訴えられました。考えてみればその教会は、聖書を持っ
てはいますが、教え方がデタラメでした。聖書は牧師の都合のいい時には、権威にな
りますが、牧師の都合の悪い時には、「これがうちの教会のやり方ですから・・・
・」ということで、聖書に権威がなくなってしまうのです。そして訓練と称して暴力
やセクハラがあったようです。裁判での勝ち負けはともかく、こういうことで訴えら
れたというだけでも、主の前には牧師としては致命的です。
私がアメリカの教会の弱さを言うと、あるアメリカ人たちは不機嫌になりますが、タ
イムズ・スクエアー教会のデビッド・ウィルカースン牧師も、現代のアメリカの教会
から語られる福音に対して警告しています、罪の指摘、悔い改めに対する勧めが弱す
ぎる、ということです。私には信者と未信者の離婚率が同じというのが、どうしても
解せません。健全な教えがなされているにも関わらず、人々が聞かないというのなら
理解できますが、どうもそうではなく教えられていないことが問題のように思えま
す。厳しい話をすると、「来なくなってしまうから」という理由で、健全な教えを回
避するのですね。聖書の御言葉が正しく解き明かされることが肝要であります。
第二に覚えていただきたいのは、健全な教えで、純粋な信仰を維持していけば、普通
はゴージャスな暮らし、安全な暮らしにはならないことが多い、つまり困難が伴うと
いうことです。経済的な困難も、物理的な困難も、いのちの危険という困難も予想さ
れるでしょう。
テキストは、「あなたは、私たちの主をあかしすることや、私が主の囚人であること
を恥じてはいけません。むしろ、神の力によって、福音のために私と苦しみをともに
してください」と言います。パウロはこの時、獄につながれていたのでしょう。何故
でしょう?それは彼の純粋な信仰のためではありませんか。獄につながれないで信仰
を維持することは出来なかったでしょうか?いい加減な信仰なら可能でした。何もパ
ウロのように生きなくても、適当にやっていればよかったのですから。
これは今日にも適用できそうです。すなわち不健全な教えでなら、生ぬるい信仰を保
つことが出来、ゴージャスな暮らし、この世的に安全な生活は出来るでしょう。牧師
とて生身の人間で、気をつけなければいけないのですが、誘惑におちいることがあり
ます。
私のおばあちゃんは信仰者ではありませんでしたが、こんなことを私に教えてくれま
した、「マサハル、男には、消すに消されぬ欲がある、食欲、色欲、名誉欲、だから
気をつけなさい」と。食欲というのは、食べ物だけでなく、美食というか贅沢、つま
りお金であります。色欲は言うまでもなく女性関係であります。牧師の名誉欲という
のは、教団・教派によっては多少考え方が違うでしょうが、私たちのサークルではだ
いたい、自分の牧会する教会がどれくらい集まる教会か、年間予算がどれくらいかと
いうことを比較し、多いところの牧師は誉れを受けやすい傾向があります。
先に挙げた、暴力とセクハラで訴えられた牧師は、大体この三つの誘惑に引っか
かったようです。日本で聞いた話ですが、「百人以上会衆を集めている教会の牧師で
ないと付き合わない」という牧師がいたそうです。気の毒な方達です、私の方でもそ
ういう方々とは付き合いたくありません。ある牧師達には、健全な教えより「何人集
まっている」という数が名誉になりがちなのですね。一方百人以上集まっている教会
で、しかも健全な教えをしている教会がありますが、そういう教会は、私のような小
さな教会の牧師でも招いてくださいます。おそらく私が健全な教えを語るからだと思
います。
パウロは、ここでテモテに「そのために、私はこのような苦しみにも会っています。
しかし、私はそれを恥とは思っていません。というのは、私は、自分の信じて来た方
をよく知っており、また、その方は私のお任せしたものを、かの日のために守ってく
ださることができると確信しているからです」と書き送ります。パウロは当時とし
て、いわゆるいい暮らしをしていたでしょうか?パウロは死の危険などまったくない
生活だったでしょうか?聖書からみて、これはイエス様にも言えますが、とてもゴー
ジャスで安全な暮らしなど想像できません。パウロは事実この時、安全ではなく殺さ
れそうなのです。 彼は「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う
者はみな、迫害を受けます(2テモテ3:12)」と言うのです。健全な教えで、純粋な
信仰を保って生きようとすれば、普通、人間的に考えたら楽ではないことが多いので
す。
それでは誰が、そんなにまでして健全なことばを手本にして生きることが出来るで
しょう。最後に知って頂きたいのは、「聖霊に頼れ」ということです。テキストは、
「あなたにゆだねられた良いものを、私たちのうちに宿る聖霊によって、守りなさ
い」と言います。肉の人間は、先にも話した私のおばあちゃんの教訓ではありません
が、ゴージャスな暮らし、快楽を求めること、名誉を求めることに向かいがちなので
す。これに勝利するには、神なる聖霊さまにおすがりすること以外にありません。注
目していただきたいのは、「私たちのうちに宿る」とあることです。本来、聖霊さま
が宿っているなら、私たちの霊は完全にコントロールされて、主が願っておられるよ
うに、あるいはパウロが願うように、「神の力によって、福音のために私(パウロ)と
苦しみをともに」出来るはずですが、パウロがそう書かねばならないのは、人々がな
かなかそうはならないからです。聖霊様が働いて、信仰は告白できたのですが、その
後はどうも肉によって聖霊様を外に押しやってしまっているのでしょうか?パウロは
エペソの教会へは、「酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊
に満たされなさい(エペソ5:18)」と書き送っています。聖霊様によって信仰を持っ
たことと、その聖霊さまを保ち続けることは違います。一旦聖霊様が入ればそれで完
全というなら、皆立派なクリスチャンばかりです。しかしそうではないのが実情で
す。
聖霊様は健全な教えのもとに働きます。聖書を開き、その教えを吟味し、健全な教え
を通して働く聖霊さまの助けで、どうぞこの様々な霊の渦巻く世の中を、純粋な信仰
をいただいて、信仰深く、聖く、敬虔に、しかし主の業のためには熱心に生きる者と
なりましょう。
祈ります。
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