良い習慣
思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます。1
コ
リント15:33
カリフォルニアの星教会のメンバーには、繰り返し申しておりますが、実際日本に戻
ると教会生活を維持するということは非常に困難です。勿論その国、その地域の霊的
な状況も考えられましょう。沖縄などは小さな県ですが、長くアメリカの統治下に
あったことが原因か、また基地が多くアメリカ人が多く、つまりキリスト者が多いこ
とが原因してか、(私はそういう事実を、沖縄のために是認しているのではありませ
ん。)現実としては全人口の
3%
くらいがクリスチャンだと聞いたことがあります。
一方私の出身の岐阜県などは、小京都といわれる飛騨高山などもある、実にお寺の多
い、従って教会が少ない、クリスチャン人口の全国平均は人口比の0.84%
位だそうで
すが、それよりずっと下がって、.0.56%
位だと言われています。
アメリカのキリスト教も今日非常に問題がありますが、それでも異端、邪宗、邪教は
マイノリティーで、かなり小さなコミュニティーでもキリスト教会があります。そう
いう環境から日本に戻れば、一挙にキリスト教の良い習慣は損なわれます。それは決
して、よい習慣を損なう機械があるのではなく、人間を通しての影響で損なわれるの
です。
冒頭の御言葉は真理です。誰が信仰者にとってよいお友達か、誰が悪いお友達かを、
クリスチャンであるあなたが聖書から判断して峻別することが大切です。『ミセス・
ウィンターボーン』という映画がありました。ニューヨークで全く荒んだ生活をして
いた女性が、列車事故がもとで銀行家の青年の奥さまに間違えられたのです。その青
年は事故で亡くなったのですが、未亡人ミセス・ウィンターボーンは、遺族から「あ
なた方は、どこで出会ったのですか?」と尋ねられて、思わず「モール」と答えてし
まいます。日本ではどうか分かりませんが、アメリカではモールというのは、一番不
良が集まるところといわれています。そういうところで出会う人と、例えば教会で出
会う人と、比較として考える場合、どちらがまともな友人に出会える可能性が高いと
思いますか? 日本なら、渋谷のハチ公前あたりとか、新宿歌舞伎町あたりで出会う
人と、キリスト教会で知り合う人と、どちらが悪い友達になる可能性が高いか、信仰
という基準から考えるなら、これは常識的に考えても明らかです。悪い遊びをするた
めの友達を求めるつもりなら、そういうところに行けば、見つかる可能性が高いで
しょう。「類は類を呼ぶ」のです。ハチ公前は、知っている者同士が待ち合わせをす
るところで、新しい友達に出会う場所ではないでしょう。新宿・歌舞伎町は、クリス
チャンなら殆ど用事のない場所です。
しかしクリスチャンがノン・クリスチャンとお交わりをすることは避けられません。
ただどれ位までお付き合いしてもいいのかという聖書的な線引きを、信仰者はすべき
です。例えば日本では普通、クリスチャンが日曜に礼拝をするということに、配慮を
してくれることはまずありません。仕方がありません、彼らはその意味が分からない
のですから。しかしいつも彼らの言いなりになっていると、「クリスチャンと言って
も、日曜に休んでも関係ないんだな」ということが当たり前になってしまいます。こ
の場合、ノン・クリスチャンのリクエストを聞いたとしても、「xxさん、私はクリ
スチャンで日曜には教会で礼拝したいのですが、なんとか別の日にしていただくこと
は出来ないでしょうか?」とお願いするなら、「いや、ダメダメ、キリスト教の礼拝
なんか一回くらい休め」と言われるかもしれませんし、実際礼拝に行かれないかもし
れません。しかしそう頼んだノン・クリスチャンの心には、なんらかの思いが残るは
ずです。その次に頼まれた時も、「出来るなら、別の日に、あるいは別の人に代わっ
てもらえないでしょうか?」とお願いするのです。「日曜はダメです」と拒絶するの
ではなく、丁寧にお願いするのです。やがて、彼らは「ああまた日曜だなあ、あなた
は礼拝に行くんだなあ。それじゃ別の日(別の人)にしようか」と、彼らが変わるの
です。
案外問題なのが、『いわゆるクリスチャン』です。クリスチャンと言っても千差万別
です。全然教会にも通っていない、什一献金もしていない、従って教会員としての務
めを果たしていない、生活はまるで世の中の人、クリスチャンとしての証詞もしてい
ない、それでも「一応私もクリスチャンです」という人がいます。こういう人が友人
になりますと、「良い習慣がそこなわれ」ることが多いのです。「教会などいかなく
ても、私はイエス様を信じているから」と言う人がおりますが、そういう言葉に惑わ
されてはいけません。「信じる」ということはどういうことでしょう? クリスチャ
ンは、イエス様が神であると信じている人たちです。聖書が神の言葉であると信じて
いる者たちです。どこをどう読むと、「教会などいかなくとも・・・というクリス
チャン」が可能になるのでしょう? 宗教改革者のカルビンは、聖書を解釈した上で
「教会の外に救いはない」という趣旨のことを申しました。イエス様を信じる人は、
神の言葉に従う人です。マタイの福音書7章に、次のような記事があります。「わた
しに向かって、『主よ、主よ。』と言う者がみな天の御国にはいるのではなく、天に
おられるわたしの父のみこころを行なう者がはいるのです。その日には、大ぜいの者
がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あ
なたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったでは
ありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあな
たがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』」(7:
:21-23)
ここでは、この御言葉に従わない人でも、「主よ、主よ。私たちはあなた
の名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇
蹟をたくさん行なったではありませんか」とあるように、ミニストリーをしておりま
す。今日、礼拝にも行かない、教会生活もしない、したがってクリスチャンとして義
務も果たさないという人たちで、なおクリスチャンだと称する人たちは、ミニスト
リーだってすることはないでしょう。こういう人たちは、ヒメナオとアレキサンデル
のように、信仰の破船にあった人かもしれません。クリスチャンのよい友達とは言い
難いでしょう。彼らとは信仰的に、スタンスを持っておつきあいすべきでしょう。
「ノン・クリスチャンの人のほうが魅力がある」というクリスチャンがおります。そ
れはあなたの信仰がおかしい、本物のクリスチャンの魅力を知らないからです。そう
いう人が案外、「不信者と、つり合わぬくびきをいっしょにつけてはいけません。正
義と不法とに、どんなつながりがあるでしょう。光と暗やみとに、どんな交わりがあ
るでしょう。キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者と
に、何のかかわりがあるでしょう。」(2コリント6:14-15)と書かれているにも拘
らず、ノン・クリスチャンと結婚してあとで苦労をするのです。
ある青年がアメリカに留学に参りました。教会に来て救われ留学生活も非常に順調で
した。しかしやがて学校でノン・クリスチャンの悪い友達と付き合うようになり、そ
れからだんだん悪くなり遂に犯罪に手を染めました。裁判の判決公判で裁判官は、
「あなたは最初に出会った人たち(裁判では教会で出合ったクリスチャン達という言
葉は使えないので、裁判官はそう言いました。しかし明らかに、それは教会で出会っ
たクリスチャンを指していました)とお交わりをしているべきだった」と申しまし
た。日本語にも「朱に混じわれば赤くなる」と申しますが、信仰者としてよい習慣を
維持するには、少なくとも教会生活をしている、クリスチャンとお交わりすることが
賢明です。