2006年1月29日
『とどまるということ』 1 ヨハネ 2:18-28
2:18
小さい者たちよ。今は終わりの時です。あなたがたが反キリストの来ることを
聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現われています。それによって、今が終
わりの時であることがわかります。
2:19
彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲間ではなかった
のです。もし私たちの仲間であったのなら、私たちといっしょにとどまっていたこと
でしょう。しかし、そうなったのは、彼らがみな私たちの仲間でなかったことが明ら
かにされるためなのです。
2:20
あなたがたには聖なる方からの注ぎの油があるので、だれでも知識を持ってい
ます。
2:21
このように書いて来たのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理
を知っているからであり、また、偽りはすべて真理から出てはいないからです。
2:22
偽り者とは、イエスがキリストであることを否定する者でなくてだれでしょ
う。御父と御子を否認する者、それが反キリストです。
2:23
だれでも御子を否認する者は、御父を持たず、御子を告白する者は、御父をも
持っているのです。
2:24
あなたがたは、初めから聞いたことを、自分たちのうちにとどまらせなさい。
もし初めから聞いたことがとどまっているなら、あなたがたも御子および御父のうち
にとどまるのです。
2:25
それがキリストご自身の私たちにお与えになった約束であって、永遠のいのち
です。
2:26
私は、あなたがたを惑わそうとする人たちについて以上のことを書いて来まし
た。
2:27
あなたがたのばあいは、キリストから受けた注ぎの油があなたがたのうちにと
どまっています。それで、だれからも教えを受ける必要がありません。彼の油がすべ
てのことについてあなたがたを教えるように、・・その教えは真理であって偽りでは
ありません。・・また、その油があなたがたに教えたとおりに、あなたがたはキリス
トのうちにとどまるのです。
2:28
そこで、子どもたちよ。キリストのうちにとどまっていなさい。それは、キリ
ストが現われるとき、私たちが信頼を持ち、その来臨のときに、御前で恥じ入るとい
うことのないためです。
今朝は『とどまるということ』と題して1ヨハネから御言葉をお取次ぎいたします。
教会が成長を遂げなければならない時なのに、「とどまる」だなんて信仰的でないよ
うに聞こえますが、必ずしもこの「とどまる」という言葉は、消極的な意味ばかりに
用いられているのではありません。ギリシャ語ではメネインと言いますが、このテキ
ストの個所に7回も出てきます。テキストにはパウロも2テモテ3:14 では「けれども
あ
なたは、学んで確信したところにとどまっていなさい」と言いますし、何よりイエス様が
、「わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります(ヨハネ15:4)」と
言っておられます。良いことはとどまるにこしたことはありません。今朝のテーマは、
そういう良い意味で、真理にとどまるということであります。
長く信仰を続けていると世の惑わしの霊に惑わされ、信仰から離れてしまう危険が
あります。しかしクリスチャンは御霊によって真理にとどまるべきであります。
ヨハネの手紙を書いたヨハネは、福音的教会の学者の間では、使徒ヨハネが書い
たとされています。これはヨハネの福音書、さらにヨハネの黙示録についてもそう言
われております。
このヨハネは、愛されたイエス様のお弟子さんの一人で、日曜学校で「ペテロとアン
デレ、ヤコブとヨハネ」と歌いますように、父はゼベダイでヤコブの弟で、ガリラヤ湖の
漁師の一人でありました。復活の証人であることは言うまでもありませんが、このお
弟子さんの特徴は、かなりの信憑性で、第一世紀の後半まで生きていた、つまり長寿
であったろうということであります。他のお弟子さんたちの多くが殉教の死を遂げてる
のに、長く生きるだなんておかしいと思うのは間違いです。長く生きることはしばしば苦
痛であります。また長く生きたがゆえに大切なことが分かるということもあるのです。
昨年私は会津若松で白虎隊の最後の場所を訪問しました。若い、当時はまだ少年
達が割腹して果てましたが、一人飯沼貞吉という少年だけは、死に切れず助けられた
のです。そして彼の証言で白虎隊の最期の全容が明らかになりました。
実際を知っている者の証言は非常に説得力があります。そういう意味でもイエス様の
死と復活を知っているヨハネが長く生き、その人生の晩年にこういう手紙を認めている
ことには意義があるのです。
覚えておいていただきたいのは、ヨハネの手紙だけでなく、イエス・キリストが神である
ことを非常に強く打ち出しているヨハネの福音書も、第一世紀の後半、つまり90年代に書
かれているということです。
そこでまず時代の流れを考えてください。イエス様の十字架は恐らく、AD30年頃と思わ
れます。パウロの回心は恐らくAD33年か34年、パウロの殉教がAD68年頃でしょう。学
者によっては、もうちょっと前であったと言う説もありますが、パウロは約三十数年伝道し
た勘定になります。ところがヨハネが大往生を遂げたのは、第一世紀の後半と言われて
おり、このヨハネの手紙が書かれたのは90年頃と言うのが大方の見解です。つまりキリ
スト教の発祥から大体60年が経っているのです。
戦後60年経ちました。最近の若い人達の中には日本とアメリカが戦争をしたということ
を知らない人がいるようです。ましてや戦争の悲惨さ、戦後の困難さということを話しても、
「ピンとこないなあ」と言う人がかなりいるようです。「あの戦争を風化させてはいけない!
」と叫んでも、60年という年月は、風化させるには十分な年月なのであります。
あれだけパウロが口を酸っぱく、「あなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい」
と言っても、彼の死から約30年で、違った教えで惑わされる者たちがいたようであります。
ところが日本のクリスチャンの信仰者としての平均寿命は3年だと読んだことがあります。信
仰にとどまるということがいかに大きな壁かということが分かります。
理由の一つは、テキストが「反キリストが現われています」と言うように、正統的キリスト教
ではない教えが入って来たのです。この時代の問題は、グノーシス主義です。これはギリシ
ャ哲学の影響を受けた霊肉二元論です。この教えが相当、正統キリスト教に影響を与えまし
た。詳しくはまた皆さんの先生にお尋ねになるか、聖書辞典にも出ていますので調べてみ
てください。
反キリストはニセ教師で、「彼らは私たちの中から出て行きましたが、もともと私たちの仲
間ではなかったのです」とあるように、真理が語られると出て行きますが、この反キリストに
よって、表面的な名前だけのキリスト者も落ちたのでしょう。彼らは最初に信じた時は、新
鮮だったかも知れませんが、どうも聖霊様に触れられ続けるという経験から離れていたの
でしょう。4章でヨハネは「愛する者たち。霊だからといって、みな信じてはいけません」と言
っています。へんな教えがへんな霊を呼び起こすのでしょう。聖き御霊に触れられ続けてい
ないと、へんな教えのヘンな霊に簡単にだまされやすいのです。へんな教えの一番ベイシッ
クは「イエスがキリストであることを否定する」ものでしょう。こういう教えなら、日本の場合は、
もういたる所にあります。そこにはへんな霊が渦巻いております。こういう霊に惑われると、表
面的な名前だけのクリスチャンはおちますね。お金儲けの話、お酒やタバコ、ギャンブルの話
、不道徳な話、イエスがキリストであることを否定する人たちが、そういう話をするでしょう。
そこには間違いなく邪悪な霊があります。聖きみ霊がその魂の中にお住まいの人は、こうい
う仲間には入らないでしょう。それは、キリストの内にとどまれないからです。クリスチャンと呼ば
れる人たちにも、案外、こういうこの世的な話が好きな人がいますね。これは危ないです。
「ハイ、イエス様はキリストです」と言いながら、なおこの世的な人もいないわけではないので
すが、今日の時代、私達には聖書があります。聖霊様は、聖書を離れてお働きになることは
ありません。「聖霊さまは、泥棒してもよいと言われた」「聖霊さまは、不道徳なことをしても
大目に見るといわれた」というのは、ウソですね。それは聖書が、そう教えていないからです。
ですから、聖霊さまの働きは、聖書で吟味することが大切です。
キリスト教が伝えられて60年、パウロが殉教して30年、キリスト教は教理的に危機に
瀕しておりました。そこで復活の証人であるヨハネが、もう一度真理を教えているわ
けです。
勿論彼は60年間、変わらぬ信仰にとどまり続けておりました。
私は日本のアッセンブリー教団の先生方と比べると、彼らよりかなり沢山の他の教会
を訪問すると思います。年に2-3回参りまして、こうやって日本全国を回るからで
す。私自身昔はこの教団におりましたから、特に神学生の時代に回ったその教会にい
たクリスチャンの方達も知っているのです。
昨年四国の教会に行きました。神学生の2年生の時、新居浜と中村の教会に派遣され
ました。その時会ったクリスチャンが、今も元気に礼拝に集っていたので本当に懐か
しかったです。あの当時は小さな開拓の教会でした。あれから30年以上経つのです
が、ずっと信仰に留まってクリスチャン生活をしている兄弟姉妹に出会うと、まった
く主を崇めるのであります。一方、以前は熱心そうに見えた人でも、その後に行くと
顔が見えない場合、本当に残念に思います。
皆さん、信仰には留まることが大切なのであります。時間を経ていくと、信仰の新鮮
さがなくなってきます。それは反キリストの邪悪な霊はうようよしていまして、それ
にやられるのです。ですからそういう時は、22節にあるように、「キリストから受け
た注ぎの油」を思い起こすことです。これは聖霊であります。あなたがイエス・キリ
ストの尊い血によって救われたのは、聖霊さまの働きです。それなら、あなたの内に
聖霊様がおいでになるはずです。ヨハネは「このように書いて来たのは、あなたがた
が真理を知らないからではなく、真理を知っているからであり」と言います。邪悪な
霊は、真理を忘れさせ、真理に目をむけさせないように画策するでしょう。
25節に「永遠のいのち」という恵が記されております。「信仰者には永遠の命が与え
られる」というのは真理です。しかし誤解しないで欲しいのは、これはとどまり続け
た人に与えられる恵みであるということです。恥気もなく、「学生の頃はよく教会に
もいったんざあますのよ。あのう、一応洗礼もうけましたんざあますわよ。オホホ
ホ」などとやる方がいますが、これはとどまっているのではありませんね。
このヨハネの手紙は、『公同書簡』の一つです。公同の教会に宛てて書かれたもので
す。イエス・キリストが神であり、救い主であると信じて救われたすべての人々は、
公同の教会のメンバーです。しかし同時に、地方教会のメンンバーです。ですから、
イエス様を愛する人は、教会を愛します。それはイエス様が教会を愛されたからです
(エペソ5:25)。公同の教会を愛するということは、地方教会を愛するということで
す。
ですから、キリストのうちにとどまるということは、皆さん方がイエス様を主と信じ
ている、この地方教会の中にとどまり、この地方教会を愛し続けるということです。
「よくあきもせず教会に通いますねえ」と、キリストの霊の無い人は思うでしょう。
しかし教会を愛し続けるということは、奥さまを愛し続ける、またご主人を愛し続け
るということも言えるのです。エペソ5章を読んでごらんなさい。これは家族円満な
人です。
どうぞ時間がどれだけ経っても、またどんなに邪悪な霊がふきあれても、救われた時
「イエス様、あなたを信じます」と言ったのは聖霊様の力なのですから、その聖きみ
霊さまをいつも思い出し、その御霊に満たされて、信仰にとどまるものであってくだ
さい。
祈りましょう。
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