2006年2月5日
『信頼すべき言葉を」 2テモテ2:8-15
2:8 私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリストを、いつも思っていなさい。
2:9 私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。
2:10 ですから、私は選ばれた人たちのために、すべてのことを耐え忍びます。それは、彼らもまたキリスト・イエスにある救いと、それとともに、とこしえの栄光を受けるようになるためです。
2:11 次のことばは信頼すべきことばです。「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる。
2:12 もし耐え忍んでいるなら、彼とともに治めるようになる。もし彼を否んだなら、彼もまた私たちを否まれる。
2:13 私たちは真実でなくても、彼は常に真実である。彼にはご自身を否むことができないからである。」
2:14 これらのことを人々に思い出させなさい。そして何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争などしないように、神の御前できびしく命じなさい。
2:15 あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい。
日本の私たちの団体の中央聖書神学校に行ったとき、そこの先生から、「最近の神学生は、入学前の信徒時代に、一人も人を救いに導いたことがないという人が案外いる」という話を聞きました。その先生は、そういう神学生の状態について気がかりだと言っていました。普通、献身して神学校へ来るような人は、真と時代に誰かを洗礼にまで導いているはずです。
近年のカリフォルニアの星教会の救われる人の傾向を見ていますと、まず殆どが「保険のセールスで言うなら、ハンコをもらって最初の保険料をいただく」というところ、すなわち信仰告白を聞いて、洗礼にまで導くというプロセスは、私がやっていると思います。これはあまり教会運営の姿ではないと思います。私たちの教会の近くに、大きなベテル教会というアッセンブリーがあります。ここのドライブウェイには、礼拝を終えて帰る方向に、「You are now entering the mission field.」と書いてあります。ミッション・フィールドへ出て行く人たちは、圧倒的に教職者より信徒の方が多いのです。ですから、導かれた人々を洗礼にまでこぎつけることを、信徒の皆さんで出来るようになったら、教会は飛躍的に成長すると思います。
と申しましても、ご承知のように、なかなか伝道の実践ということは出来ないのが現実だと思います。何故出来ないかという理由は、幾つか考えられます。まず私たちは聖霊教団ですから強調しますが、やはり異言を伴う聖霊のバプテスマを頂くということは非常に重要です。これは使徒の働きを読めば明らかです。聖霊に押し出されていった使徒群の働きは顕著です。「組織に勢いがある」と人々が言うことを聞いたことがあるでしょう。あの時代の使徒団には聖霊さまによる勢いがありました。来年は世界一の自動車メーカーになるかもしれないトヨタなどは、勢いという点ではその顕著な組織だと思います。ライブドアはホリエモンの活躍で一時は勢いがあったのですが、今ではホリエモンが逮捕されてムイチモンになりつつあります。これではダメです。
教会は永遠の真理である聖霊様によって、勢いづかせてもらわねばなりません。使徒9:18-19に、パウロの回心のことが出ていますが、そこに「するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。彼は立ち上がって、バプテスマを受け、食事をして元気づいた」とあります。私は、パウロ(当時のサウロ)が「元気づいた」のは、「食事をし」たことだけでなく、「バプテスマを受け」、内住の聖霊様のお力を頂いたことが大きな理由だ思います。
そういうわけで、聖霊さまの助けによって、聖書の真理が信頼できるものであるということを、確認しましょう。前にも話しましたが、「神が私たちに与えてくださったものは、おくびょうの霊ではなく、力と愛と慎みとの霊です(2:7)」福音の言葉は単純だが信頼に値するものです。ですから、もっと多くの人々の救いのためにこの福音の言葉に信頼をおく、熟練した神の器になりましょう。
第一に覚えていただきたいのは、福音の言葉は単純性ということです。テキストは「私の福音に言うとおり、ダビデの子孫として生まれ、死者の中からよみがえったイエス・キリスト」とあります。ことに「死者の中からよみがえったイエス・キリスト」という単純な一点で、人々の反応を計ることができますね。日本人の間では、これだけ情報と人々の知識が豊かになっていますから、まるで未開に人たちのように、聖書の話をまるで初めて聞くという人はいないと思います。私のように教会のない田舎で育った者でも、聖書など一度も読んだことない時ですら、少なくとも十字架はキリスト教のマークで、イエス・キリストという方が十字架で死なれたということくらいは知っていたように思います。ただその頃は、恐らくイエスという方は、架空の人物かもしれないと思っていたでしょう。今日の日本の大人でも、そう思っている人が、かなりいると思います。しかし、イエス・キリストは歴史の中に実際に現れたお方で、これを否定する歴史家はまずおりません。
福音の言葉自体はそれほど難しいものではありませんね。パウロは、コリントの教会に対して、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です(1コリ1:18)」と言います。私がこれまでも、皆さんに教えてきた言葉も、それらに準じています。「十字架」を覚えておくことです。パウロはこの前の、1テモテ1:15 で「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた。』ということばは、まことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです」と言います。パウロの教えが、時と所によって変わるはずがありません。テキストの11節は「もし私たちが、彼とともに死んだのなら、彼とともに生きるようになる」とありますが、これはローマ人への手紙6:8の「もし私たちがキリストとともに死んだのであれば、キリストとともに生きることにもなる、と信じます」と同じ思想です。この御言葉は、私たちの洗礼槽に、数年前のペンキの塗り替えの時まで、ずっと掲げられておりました。
つまり、人間はどれだけ正しいと思われる人でも、神の前には罪人であること、しかし十字架に架かったイエス様を救い主と信じるなら、「彼らもまたキリスト・イエスにある救い」とあるように、罪から救われること、すなわちパウロが「罪から来る報酬は死です(ローマ6:28)」という恐ろしい永遠の死から逃れられるばかりではなく、テキストにあるように「とこしえの栄光を受けるようになる」のです。これらは福音の言葉で、信頼できる言葉です。何故信頼できるか? それはその言葉を信じて、どれほど多くの人々の人生が暗黒から光に変わったかを見れば確かでしょう。
本物のクリスチャンの語る言葉は、神のみ言葉、聖書に基礎があります。これが定まった経典のない宗教とは違うところです。どれだけ「偉い人の言葉」と言っても、それは所詮人の言葉です。
天皇陛下には、そう誰でも会うことは出来ないでしょう。民主主義の時代と申しましても、現実は不平等です。月並みな言い方をすれば、我々はあの方とは違う星の下に生まれたのです。身分が違いすぎるのです。向こうは高い、我々は低いのです。しかし仮に名もない小さな子供が、「イエス様は神さまです」と言うのに対し、天皇陛下が「私は神である」と言われたなら、絶対にこの世の身分はどうであれ、真理はその名もない子供の言葉にあるのです。ですから、私たちは福音の言葉を語っている限り、真理を語るという点では恐れるものはないのです。皆さんは、そういう単純な福音の言葉が信頼できる言葉であることを知っているはずです。
第二に知っていただきたい事は、ただ知っていることと、それを伝えることが出来るかということは違うということで、私たちは、それを語らなければならないということです。14節は、「これらのことを人々に思い出させなさい」といいますが、これは直接的には8-13節までのことを言っているのでしょう。これは、この福音の言葉が、パウロの死後も語り継がれていかねばならないことを示しています。これはもう説教者であり、それを教える私としては、本当に聖霊さまのお力にすがる以外にないのです。
例えば、…(今朝は少し違ったタイプの説教になりますが)… 「イエスさまは十字架に架かって、私たち人間の罪のために死なれました。あなたはこの世では、どれだけ正しい人であっても、神の前には罪人で、救われる必要があります。イエス様を信じて、罪から救われませんか?信じて、滅びるのではなく、神からのプレゼントの永遠の命をいただきたいと思いませんか?」…・これは極めて単純な福音の言葉です。しかし、これを他の人に言うことが出来ますか? まず、「あなたはこの世では、どれだけ正しい人であっても、神の前には罪人で」は、普通の市民生活をしている人に言う言葉としては、語る側としては、「ちょっと、どうも」と思いがちです。「救われる必要があります。イエス様を信じて、罪から救われませんか? 信じて、滅びるのではなく、神からのプレゼントの永遠の命をいただきたいと思いませんか?」は、単純すぎて、ばかばかしいと思われるのではないかと、語る側がまず、そう思ってしまいがちです。ですから、先にも言いましたようにまず「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です」と言うことが、まずあなたの確信になっている必要があります。これは全く聖霊さまのお力ですね。私も、この単純な福音のメッセージを皆さんに語ってきたのです。クリスチャンが伝道する時、つまり人をイエス様に導く時、その時その時で、違った教えをすると思いますか?アプローチの仕方は違うかもしれませんが、福音の核とでも言いますか、基本は昔から同じです。この福音の言葉で、人々が悔い改めに導かれないのなら、それは我々の責任ではなく、彼らの責任です。聞いてもらえないなら何度も語って、受け入れてもらえるまで祈って待つことです。割り引いたり、付け足したりして、福音を変形することはしません。するとどうなるのでしょう。必ずある人には聖霊様が働きかけて、初めは例えば「あの若僧め、私を罪人呼ばわりしおって」と思っていた人でも、ある時フッと、「そうだ、あの若い人の言った通り、私は罪人だ。イエス様を信じたら救われるって言ってたな。イエス様、お赦しください。信じます」という具合に、悔い改めて、福音を信じるようになるのです。これは不思議です。まさに奇跡です。
第三に覚えて頂きたいのは、その単純な福音の言葉を伝えるだけでなく、熟練した者ということです。パウロは、「そして何の益にもならず、聞いている人々を滅ぼすことになるような、ことばについての論争などしないように、神の御前できびしく命じなさい」と申します。そして、「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人として、自分を神にささげるよう、努め励みなさい」と言います。
まず「ことばについての論争などしないように」という警告ですが、「私達の語る言葉は、相手にとって論争の種にならないような言葉でなければならない」という意味ではありません。福音の言葉のステイトメントは、普通は議論の種になる性格を帯びています。それを聴きチャレンジすれば相手は、受け入れるか否かの二つの選択したありません。「まだ分かりません」という人がいますが、それは「受け入れません」の方に入ります。「受け入れない」のサイドは、それが外に現れるかどうかは別にして、語る側との間に程度の差こそあれコンフリクトが起こります。ここをどうするか、それはやってみることで熟練しますね。私たちは語りますが、論争はしない方がよいでしょう。
テモテは初代のエペソ教会の監督と言われています。丁度パウロがテモテの後見人であったように、テモテはエペソ地方のいくつかの群れにいたリーダーたちの指導者であったと思います。今日成長している教会は、牧師の一人苦労ではありません。チョー先生は、あの70万人教会を作るために、区域礼拝を形勢しました。スモール・グループ、ミニ・チャーチ、セル・グループ、ネームレス・グループ集会など、名前は違いますが、教会の礼拝とは別の集会で、新しい信仰者を獲得し個人の信仰をみがいています。言ってみれば、私はテモテの役割、皆さんは地域の、あるいはセルの、あるいはスモール・グループの、あるいはミニ・チャーチのリーダーになってもらうことが、このカリフォルニアの星教会の成長の鍵だと思います。そこでリーダーは、考えられるとして、ことにノン・クリスチャンとの間の、ことばの論争は避けるべきだということを覚えてください。相手を知識で打ち負かすつもりになってはいけません。それは知識という権勢や能力です。そうではなく、「わたしの霊によって(ゼカリヤ4:6)」とあるように、聖霊さまにお任せすることが大切です。そうして、信頼できる福音のことばに関しては「あなたは熟練した者、すなわち、真理のみことばをまっすぐに説き明かす、恥じることのない働き人」になる必要があります。相手が信じ受け入れるかどうかは、聖霊さまのお働きです。しかし、私達には、語る責任はあります。単純な福音のことばは信頼できます。私たちは、このことばに関して熟練した者となって、ますます魂に触れ、魂をキリストのもとに勝ち取る者となりましょう。
祈ります。