2006年2月5日

「悔い改めの質」

 

 イスラエル宗教の特質は、日本的仏教汎神論的な世界観と違って、神は唯一の神で、他の神々を決して認めません。十戒の最初は、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」でした。そしてキリスト教会が、不品行に対して他の幾つかの宗教のようにそう寛容でないのは、その唯一の神の掟に反するという、極めて宗教的、霊的な意味をもつからでもあります。それは神に敵対することであります。従って、この姦淫という罪は決して犯すべきではありません。未信者の場合は、まだこの神を知らないうちにするのですから仕方がないかもしれませんが、一旦信仰を持ったら絶対にこの罪を犯してはいけません。以前、私の知っていた、ある『いわゆるクリスチャン』が、「不品行をすると、神がどうなさるか試してみたい」と仰せになったことがあります。この手の『いわゆるクリスチャン』が近年多い感じがします。とは言え、弱い愚かな人間の世界、不幸にして姦淫の罪を犯してしまうこともありましょう。そういう人々に対してでも、なお真実に悔い改めるなら。主が赦しを準備してくださっていることを私は疑いません。しかし今日の問題は、その悔い改めの質であります。「罪を犯しました。イエス様ごめんなさい。赦してくだい。アーメン」と言って、それからまたしばらくして、また罪を犯す。するとまた「イエス様、ごめんなさい。またやりました。あたなは七度を七十倍赦される方であることを感謝します。アーメン」と言って、しばらくするとまた罪犯す。これの繰り返し。デビッド・ウィルカースン先生流に言えば、「申し訳ないけど、そういう人を治す魔法の薬はありません」です。

   まず今日の人々は、姦淫という意味を取り違えています。「私達はまだ結婚前だから、誰にも迷惑をかけていません」と開き直る若者もいます。これがタチが悪いことに、最近ではクリスチャンと呼ばれる人たちで教会に堂々と出入りしている人たちの中にもいるようです。水上勉氏の小説などを読めば、お寺のお坊さんは相当不品行をなさっているように書いてあります。実際、前中尊寺の住職だった今東光師などは、本堂でストリップショウを開催されるほどおおらかさ(?)でした。最近もドラマ化された瀬戸内寂聴師などは、「恋の醍醐味は不倫である」などと申しております。世の中の人々は、そういう生き方をもてはやしたりすることがありますが、残念ながら、こういう傾向に対してキリスト教倫理は極めて否定的であります。

    今私の手元に、これは1965年初版ですから、もう40年も前の本ですが、大学の先生でキリスト教文芸評論家でもあった、佐古純一郎先生がお書きになった、『夫婦論』(教文館・発行)という本があります。少し長いのですが、今日の姓モラルの乱れに鑑み、「姦淫ということ」という項のところから引用してみます。

   性の倫理が破壊された状態を姦淫と呼びます。狭義には姦淫は夫と妻がそれぞれ妻ならびに夫以外の異性と姓の交わりを結ぶことを意味しますが、それは主として法律的次元のことであります。私の考えでは、性の共同体としての結婚の外での一切の性の行為は姦淫であるのです。ですから、人は結婚以前にすでに姦淫を犯すのです。それは神のゆるしたまわない行為だからであります。すべての罪がそうでありますように、姦淫が罪として問われるのは、神のみこころに反するからです。人はしばしばいうのです。愛し合っていれば罪ではない、と。しかし私たちの単なる主観の内部での「愛情」というようなものが、どんなに強く相互に燃えていても、それが結婚という性の共同体の外でのいとなみであるかぎり、姦淫の罪であることに変わりはないのです。このことは深く考えてほしいことがらであります。・・・・・・・・・・・・倫理というものは、そのようなきびしさを持つものです。倫理のきびしさというよりも、それは神のみこころのきびしさというべきでありましょう。ですから、姓の倫理の喪失ということは、じつは、人々がそこまで神からはなれてしまっているということを意味するのです。性の解放などといって、いい気になっているけれども、神の意志を無視した人間の絶対化が、いかに、おそろしい審きを受けなければならないか、すべてはみのがされるということはないのです。

  愛し合っているのだから、すべてをささげます、などという甘いささやきが、どんなに人のロマンティシズムに過ぎないかを忘れてはいけません。リアリズムとは、神のみこころの前で、真実をみつめるということです。私たちクリスチャンですら、愛し合っていさえすれば性のいとなみは罪ではない、などというロマンティシズムを平気でふりかざすのです。そうして、そういうことを叫ぶ牧師さんを進歩的であるなどとほめたたえるのです。キェルケゴール的にいうなら、それこそクリスチャンの錯覚というものです。  (pp.60-62

   この本の初版が1965年であったということは、これは私の若い時代に書かれたことです。その当時、すでにクリスチャンの間に、「愛し合っていさえすれば性のいとなみは罪ではない」という風潮があったことを表しています。また、「そういうことを叫ぶ牧師さんを進歩的であるなどとほめたたえる」人もいたようです。しかし、わたしは断固としてこういう風潮には同意出来ません。先にあげたデビッド・ウィルカースン牧師の説教が『ハーザー』2月号にでていますが、彼は「半分に水増しされ薄められた福音は、主にとって不快なものである。ご存知のように私は毎月、『イエスさまはあなたを愛しておられ、祝福しようとなさっている。あなたが人生を楽しむことを望んでおられる。次々と奇跡を起こそうとなさっている』と言っている。これは、純粋に福音の真実であろう。しかしこれは福音の真実の半分でしかない。福音の全体には、罪の欺きに対する警告が含まれており、悔い改めや、信仰から来る悲しみ、迫害への準備、そしてキリストの再臨を待ち望む心が含まれている。聖書には『聖められることを追い求めなさい。聖くなければ、だれも主を見ることができません。(ヘブル12:14)』とはっきり記されている。キリストの福音は常に人々と対立し、その後になぐさめをもたらす。罪深い人間が好きなところが含まれることは決してないのである」 (pp.66-67) と記しています。

    真実に悔い改めたなら、悔い改めに相応しい実を結ぶでしょう。姦淫の罪を犯した人は時として、「もう悔い改めたじゃないか」「聖書は七度を七十倍赦せと言っているじゃないか」と強気に出ることがあります。さらに罪を指摘し、悔い改めを勧める人に対して「情欲を持って女を見るものは罪とイエス様も言われたでしょう?それならあなただってそうでしょう?」などと開き直ることすらあります。こういうタイプの人たちは、決して真実に悔い改めてはいないでしょう。赦しは姦淫の罪を犯した者が自分から主張するのではありません。主が赦されるのです。そして、その赦された人の姿を見て「ああ、あの人は本当に主に赦されたんだな」と感じるのです。

    アメリカのかつてのテレヴァンジェリストの超有名な二人、不品行で失脚した人たちですが、私は彼らが真実に悔い改めたとみておりません。ことに牧師の場合は、不品行の問題を起こせば、二度と高壇には立てないだろうということを肝に命ずるべきでしょう。ところが近年の教会はこういう人材を簡単に受け入れる傾向があります。こういう言い方をすると、「お前はどうか?」と問われるのを避けたいのか、近年の教会は姦淫の罪に対する指摘が弱すぎると感じます。罪が教会の内部にあるなら、厳しく指摘し、その魂がちり灰をかぶっての真実な悔い改めをするように導き、教会の聖を取り戻すべきです。教会の内部のことは、内部で審くことが原則だからです。(1コリント5:12