2006年2月26日
『輝かしい希望のために』 2テモテ4:1−8
4:1 神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われとその御国を思って、私はおごそかに命じます。
4:2 みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。
4:3 というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、
4:4 真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです。
4:5 しかし、あなたは、どのようなばあいにも慎み、困難に耐え、伝道者として働き、自分の務めを十分に果たしなさい。
4:6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
ことにこの2テモテは、パウロの殉教の少し前に書かれていますから、周りの人がどういう態度であるかはともかく、パウロはそれまで以上に真剣だったでしょう。死に向かっておられたイエス様でも同じです。十字架に向かっておられるイエス様は、刻一刻が真剣であったに違いありません。しかしそれに気づかぬ弟子達は、天国では誰が一番偉いかだなんて話をしていました(マタイ18:1)。これは Sit back や Relax という感じではないとしても、話しておられる方の気落ちが分かっていない会話ですね。これではダメなのですね。
今朝のタイトルは、 『輝かしい希望のために』であります。実はここのテキストを正直に読んで語られるメッセージは、かなりシリアスで人々があんまり聞きたくない話かもしれません。輝かしい希望の意味するところは欲しいかもしれませんが、コンテキストは生半可なクリスチャンにはかなりきびしいからです。輝かしい希望すなわち天国は必ずあるのです。ですから、クリスチャンは、審かれず、天国へ行くことを自ら願うだけでなく、懸命にこの天国の希望を伝えるべきであるということです。
このテキストから明らかに分かることが幾つかあります。それはまず「審き」であり「天国」であります。審きや天国はないと思われますか? まず「審き」についいて言えば、聖書はしばしば信じない者の審きを教えております。テキストでもはっきりと、「神の御前で、また、生きている人と死んだ人とをさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現われと」と言います。ここの「さばかれる」は未来の形をとっております。今ではありません、究極的な審きは未来です。いつかと申しますと、「その現われ」の時、つまり英語の聖書で言う in view of his appearing の時が決定的な審きの始まりです。つまりそれは主の再臨の時です。
私が審きを信じないと思いますか? 私がキリストの再臨を信じないと思いますか?絶対的に信じています。どうも皆さん、この点についてあんまり確信がないようなので申し上げますが、イエス・キリストは聖書に「天に上って行かれるのをあなたがたが見たときと同じ有様で、またおいでになります(使徒1:11)」とあるように、必ずまた来られるのです。「でもあれはイスラエルのオリーブ山でしょう? アメリカにいて、どうやって主が来られるのが分かりますか?」などと言わないことです。私達の信じる神は遍在の神です。どこに居ようとも、信じて待ち望む者にはその来られる姿が分かるのです。するとどうなりますか?信仰を持って死んだものがまず復活し、そのあと生きている信仰者が上げられるのです(1テサロネケ4:16-17)。パウロが、テキストで「その御国を思って、私はおごそかに命じます」と言うとき、パウロは「天国」のことを言っているのです。私は絶対的にこれも信じます。
どうもこの世の人々は、 Sit back とか Relax 出来る「この世」の生活にばかり関心がある傾向があります。聖書をもうちょっと真剣に読んでごらんなさい、決してこの世の人々で Sit back している人々や Relax している人々が、その日が来たらもう決して、その状態ではいられないということ、つまり慌てふためかねばならないことが記されています。
クリスチャンも注意しましょう、その時になったら真剣になるからなどと言っているととんでもないことになります。実は、昨日私達夫婦はウォルナッツクリークの、あるアッセンブリー教会でもたれた個人伝道講習会に行って参りました。ウォルナッツクリークのこの教会のある辺りはサンホゼと違ってまず白人がマジョリティーという感じがしました。そして講師の先生も言っていましたが、アメリカでの白人への伝道は、我々日本人の伝道と違って、多くの場合、自分はクリスチャンだと思っている人達への伝道だということでした。救われて(新生した正真正銘のクリスチャンになっての意味)5年くらいのクリスチャンが、個人伝道の時に「私はクリスチャンになって5年です」などと言おうものなら、求道者と思われる人も「私など生まれてからずっとクリスチャンだけど」と言うので、そういう会話は役に立たないと笑っていました。
ポイントは、クリスチャンならクリスチャンとして生きているかということです。聖書には「人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。(マタイ24:37-40)」とあります。その時になったら真剣になろうとしても、その時になったらではもう遅いのです。
私は皆さんに伝えましたし、今朝も伝えていますよ、まず信じましょうと、そして、本物のクリスチャンなら、聖書が教えているように、礼拝に集いなさい、聖書を読みなさい、お祈りをしなさい、献金をしなさい、そして主のために奉仕(証詞)をしなさいと。
天国へ行くと、日本人クリスチャンから「アレー、アメリカは人口の20%はクリスチャンだって聞いていたから、もっと来ている方が多いと思いましたが、どういう訳でこんなに少ないの・・・?」とか 「アレー、あの方は確かクリスチャンのはずだったのですが、どうしていらっしゃらないのでしょう?」ということが起こるかもしれません。何故、クリスチャンらしかった彼らは来られなかったか、それは彼らがまがい物だったからです。自分の栄光ばかりを求めていた人、あるいは世的過ぎであったと言ってもいいかもしれません。そして生活はこの世の人と変わらず、主の教会を軽んじ、証詞になっていない生活を送っていたのでしょう。それはまがい物の福音を聞かされていたことにも原因があるでしょう。
イエス様は言われました、「その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。『主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。』しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。『わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。』(マタイ7:22-23」と。とてもとても Sit back とか Relax という感じで天国はいただけるようには思えないのです。天国を頂くにはイエス様に対して、そして主が命を捨てるほどに愛された教会に対して真剣な人生が要求されます。自分達は神に属し、天国を相続すると考えていたイスラエルの人々にイエス様は、「神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです(マタイ3:9)」と言い、血によるイスラエルの子孫ということが、何にも役に立たないことを教えておられます。クリスチャンと呼ばれる人が審かれないのではなく、クリスチャンとして生きている人が審かれないということを知るべきです。そこにはこの世の価値観が入り込む余地は全くありません。大見得を切って行くようなファンシーなレストランでご馳走を食べ、自慢しながら見せる立派な家や立派な持ち物、普通の洋服なら何着も買えるような高価な着物を着ての優雅な暮らしを夢見るような価値観は、ルカ16章の『ラザロと金持ち』の箇所を開くまでもなく、天国には遠い人の歩みだと知るべきです。大方こういう人はパリサイ人以下で、礼拝には時々しか来ず、献金も付き合い程度、祈りもせず、聖書も読まないでしょう。そして時々教会に来る時は社交のように来て、説教の間は、「早く礼拝が終らないかなあ、終ったらあの人を誘ってレストランに行こう」などと考えている人かもしれません。昔、「なあお前、まだそんなことをやってんのでっか。ほなら出て行け!」という歌がありましたが、そういうことになるでしょう。
私は、世の中の人がそういう生活を夢見るのは主を知らない人だから仕方が無いと思いますが、クリスチャンと呼ばれている人で、そういう人がいると、まったく残念に思いますし警戒もしますね。前にも話しましたが、某有名な伝道者の奥さまとペブルビーチへ行ったことがあります。ご承知のようにあそこには大邸宅が並んでおります。『17マイル通』を車で通っていく時、彼女はその大邸宅を見て、「ああ、私こういう家に住みたい」などとため息をもらし、次の立派な家が見えると、「ああ、この家も素敵だわ。こんな家が私の家だったら・・・・」と、冗談ではなく本気で言っているのですね。私はその方の真実な姿を見て、気の毒な人だと思いました。チョー世的でした。よく知られた方ですが、私はこういう方を友達に持ちたいとは決して思いません。こういう人とお交わりしていると私の霊性が下がるからです。
こういう現実をパウロはすでに見越していたかのようです。そこでパウロは、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい。寛容を尽くし、絶えず教えながら、責め、戒め、また勧めなさい。というのは、人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです」と言います。これは決して、「まだ主イエス様を知らない人に伝道しなさい」ということばかりではなく、すでにクリスチャンとして歩んできている人に対しても警戒するように呼びかけているのです。
こう言ってはなんですが、アメリカの牧師の選任の仕方はこれでいいのかと思ってしまいます。私達の団体の中にあるよく知られたB教会は、この15年で、5人の牧師が代わっています。一人平均3年です。前のS牧師など、就任一年後に私どものセクションの牧師会に来て「次年度も任期が更新されるように祈ってください」などと冗談とは思えない様子で訴えていました。アメリカでは、ちょっと大きなサイズの教会では牧師の選任を役員会(Board)がします。役員会が「もうあなたはケッコーです」と決めたら、辞任せねばなりません。こういう体制では、牧師は役員の顔色ばかり見ていなければなりませんからやっていられません。役員会は「S先生は自分の事情で辞任を申し出られた」と言うでしょう。しかし辞任を申し出たくなるような状況があったのだろうかと言うのが本当ではないかと思います。それでS牧師は高潔で有能な牧師でしたが3年で辞め(させられ)ました。私のフィギュアーではこういう教会のボード・メンバーは腐っていると思います。自分達が飽きてくると牧師を取り代えているだけです。それに対して『目的主導の教会』つまりサドルバック教会のリック・ウォレン牧師は、「一生同じ教会で説教できる教会が望ましい」と言います。勿論、止むを得なく転任ということはありましょう。しかしアメリカの場合は、ボードが強くて、牧師がお払い箱になるというケースがしばしばあるように思います。これはまさに、テキスト3-4節の「人々が健全な教えに耳を貸そうとせず、自分につごうの良いことを言ってもらうために、気ままな願いをもって、次々に教師たちを自分たちのために寄せ集め、真理から耳をそむけ、空想話にそれて行くような時代になるからです」に似ていると言えるでしょう。
真剣に主の再臨と、天国を望み見る者は、真剣に御言葉を伝えるという労苦を惜しむはずがありません。何故ならそれは魂に対する愛からです。「この人も天国に行って欲しい」「あの人が審かれることのないように」こういう願いを持つ説教者は皆、御言葉を伝えることに真剣になるはずです。厳しい話もするでしょうし、叱ることもあるでしょう。ですから今朝私が話しているような説教をしているなら、先に挙げたB教会などでは極めて早くクビになるでしょう(もっとも私など雇われるはずがありませんが)。しかし、私はカリフォルニアの星教会の皆さんの信仰生活には責任があります。ですから時には厳しい話もしなければならないのです。それは本当に皆さんの魂のことを考える愛からです。皆さんに審きにあってほしくない、天国に行って欲しいと、真剣に願うからです。
最近日本では、親が子供を簡単に殺しますし、子供も簡単に親を殺しますから分からないのですが、普通は自分が天国の希望を持ったら、必ず家族にもこの希望を持って欲しいと願うでしょう。
日本のある教会で、一人の婦人が救われました。御主人は女性関係に問題のある人でした。この婦人は御主人のために祈り始めました。聖書を読む、熱心に教会に集う、よく献げる人でした。そのうちに献金のことでご主人がものすごく怒り、殴る蹴るの乱暴をはたらき、「お前が稼いだのじゃない、俺が稼いできたのだ。絶対献金はするな」と申し渡しました。奥さまは、従いました。しかし何とかして主の教会を助けたいという熱心さは、お金を直接献げては怒られるので、自分でクッキーを焼くというアイデアを生みました。自分でクッキーを焼いては、教会のバザーとかあちこちで売りました。そうしてその収入を全部教会に献げたのです。「最近、やけにクッキーを焼くじゃないか?どうするんだ?」とご主人が尋ねました。「お金で献げなきゃいいでしょう?」というと、「まあ、いいっか」ということになったそうです。その額は限られたものだったでしょう。しかし、主はその婦人の真摯な姿を覚えておられました。やがて熱心に教会に通う母親と共に、子供達が成長しクリスチャンになりました。今度は母親と子供達がお父さんのために祈り出しました。そして遂に、2年ほど前でしたか、御主人も「これまで本当に俺が悪かった。赦してくれ」と奥さまに謝り、救われたのです。20年以上経っていました。
信仰の戦いは懸命です。とてもこの世的な Sit back とか Relax という感じではないでしょう。そうして「勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通し」た者に天国は用意されているのです。パウロは、「かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」と言います。
しかしこういう風に話してまいりますと、皆さん方には信仰生活というのは随分厳しそうに聞こえるかもしれませんが、そうではなく極めて単純です。先ほども申しましたように、まず信じましょう。そして、本物のクリスチャンであるために、礼拝に集いましょう。礼拝に集うことは聖書的です(ヘブル10:25)。また聖書を読みましょう(暗唱しましょう)。お祈りをしましょう。献金をしましょう。そして主のために奉仕(証詞)をしましょう。
おそらく皆さんにはとても Sit back とか Relax というメッセ−ジではなかったでしょう。この種のメッセージはある種の役員会からは嫌われるメッセージでしょう。しかしこれが真理です。信仰深く敬虔なあなたのこういう生活が、あなたの普通の生活になることが肝要です。そうなさるなら天の主は、必ずあなたとあなたの家族を祝福してくださいます。輝かしい天国の希望のために、あなたがこの世の不埒な教えや、まがいものの教えに惑わされず、是非聖書から正しく決断し、そのように歩みだすことをお勧めします。
祈りましょう。