2006年2月26日
「美濃」
実は今週は、あんまり霊的ではないのですが、歴史的な話題です。
この正月から司馬遼太郎・原作の『巧妙が辻』が始まりました。土佐藩主山内一豊とその妻千代の物語ですが、最初のほうであるからか、織田信長だの木下藤吉郎が出てきますし、何よりも美濃がしばしば出てきて懐かしくなります。美濃は斉藤道三の領地、番組で稲葉山城と出てくるお城は岐阜城のことです。番組でも実際の岐阜城が出てきますので、本当に懐かしくなります。鵜飼いで知られた長良川を背に、稲葉山(今は金華山と呼ばれている。)にそびえるお城です。
あまり懐かしくなって、「堂洞城」で検索したら、以下のような驚くべきサイトを見つけました。
http://www11.ocn.ne.jp/~kanikami/index.html に『戦国美濃の畦道』というサイトがあります。これは全く懐かしい。そこのhttp://www11.ocn.ne.jp/~kanikami/page010.html 『史跡めぐりII』を開くと、
この 『加治田城・堂洞城』のページの「遠景」の山が、加治田城のあった古城山、すなわち梨割山です。そしてその梨割山の裏側が、私の育ったところで、私は保育園、小学校の全部を、この山を越えて通わなければならなかったのです。加治田城と堂洞城はふたつの山の上にありました。その間に加治田の村があり川浦川がこの二人の殿様を分けていました。写真の中に「激戦の地、川浦川」と言うのがありますが、織田信長側についた佐藤紀伊守と信長に反抗した岸勘解由は厳しい戦いをせざるをえませんでした。当時は下克上とか、政略、策略、謀反、人質成敗など朝飯前の時代でした。写真で見ると、確かに川浦川は整備されて、昔の面影はありませんが、私が小学校の4年生の時までは、この写真の右側あたりに、それは大きな松ノ木がありました。「轟の松」と呼ばれていました。伝説では主君を裏切り織田信長側に寝返った佐藤紀伊守に対して腹を立てた岸勘解由が、岸側に預けられていた佐藤の姫をその松に吊るして竹やりでお尻から突き刺して殺したとか、・・・・・・これは私の小学校時代に聞いた伝説ですから、真意の程は分かりません。
しかし確かに子供心に見ても、この「轟の松」は見事な枝ぶりでした。ですから校内の野外写生大会などがありますと、多くの親が「轟橋から見た轟の松を描きなさい」と勧めたものでした。そういうことで私もあの頃、轟橋から轟の松を描いた覚えがあります。しかしこの見事な枝ぶりの「轟の松」は昭和34年の伊勢湾台風で無残にも折れてしまいました。ただし、多少歴史的見方が出来る年齢になりますと、この時代は16世紀の後半ですから、400年もの年月を経た松ということになります。「あの松は果たして400年の年輪があっただろうか?」 と疑わずにはいられません。『沈黙』などで知られる遠藤周作氏は晩年、この時代の小説を書くための取材活動に加治田を訪れています。その取材日記を「文芸春秋」で読んだことがあります。「・・・地元の物知りの古老に尋ねると、・・・・・ということを話してくれた。しかしどこまで本当やら・・・・・・」というような主旨のことを書いておられたと記憶しています。話には尾ひれがついて、伝説になるのでしょう。人質になっていた佐藤の姫が殺されたのは本当かもしれませんが、「轟の松に吊るされて、お尻から竹やりで刺されて殺された・・・・」という話は、どうもかなり尾ひれがつき誇張されている感じがします。しかしあの松はそういう意味で、見事な枝ぶりであっただけでなく、悲しい松という思いを随分もっていた覚えがあります。
斉藤道三は、京都から流れてきた油売りから美濃領主になりました。しかし竜興の時代になって、つまり現在アメリカで放送されている時代(アメリカでの放送は日本より数週間おくれています。それは英語のスーパーをつける作業があるからです。)では、美濃は織田信長に完全に制圧されます。
最後に少し霊的な話、お酒と女性に溺れた斉藤竜興は、家来からも見放されてしまいます。いつの時代でも、お酒に溺れてはまずいですね。女性に(男性の場合)溺れても、まずいですね。家を滅ぼします。
酒に酔ってはいけません。そこには放蕩があるからです。御霊に満たされなさい。(エペソ5:18)