2006年3月5日
『元気づいた』 創世記45:18-28
45:18 あなたがたの父と家族とを連れて、私のもとへ来なさい。私はあなたがたにエジプトの最良の地を与え、地の最も良い物を食べさせる。』
45:21 イスラエルの子らは、そのようにした。ヨセフはパロの命により、彼らに車を与え、また道中のための食糧をも与えた。
45:22 彼らすべてにめいめい晴れ着を与えたが、ベニヤミンには銀三百枚と晴れ着五枚とを与えた。
45:23 父には次のような物を贈った。エジプトの最良の物を積んだ十頭のろば、それと穀物とパンと父の道中の食糧とを積んだ十頭の雌ろばであった。
45:24 こうしてヨセフは兄弟たちを送り出し、彼らが出発するとき、彼らに言った。「途中で言い争わないでください。」
45:25 彼らはこうしてエジプトから上って、カナンの地にはいり、彼らの父ヤコブのもとへ行った。
45:26 彼らは父に告げて言った。「ヨセフはまだ生きています。しかもエジプト全土を支配しているのは彼です。」しかし父はぼんやりしていた。彼らを信じることができなかったからである。
45:27 彼らはヨセフが話したことを残らず話して聞かせ、彼はヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見た。すると彼らの父ヤコブは元気づいた。
45:28 イスラエルは言った。「それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう。」
人間の永遠の別れという場合には色々な分かれ方があります。一般的に知られているのは、死ですね。死は二人を完全に分けます。けれども生きているのやら、死んでいるのやら、おそらくはもう死んでいるだろう・・・しかし分からない・・・という分かれ方は、また非常に惨い別れ方ですね。私の父の兄、すなわち私のオジサンは、フィリピン海域で戦死したということになっています。私のおばあちゃんは、私が幼い頃、その息子を亡くしたことを本当に嘆いて、何かの折には、しばしば泣いておりました。そして私が高校生くらいになった時、私の名前を、時々間違えて、その戦死したオジサンの名前で呼んでは、「ああ、お前はマサハルだったな」と言いました。最近、またまだフィリピンに戦後残された人達がいて、日本の国籍を申請しているという話のニュースをテレビで観ました。フィリピン海域は、非常に島が多いので、艦は沈んでも、もしかして生き延びて、どこかの島に流れ着いて生きているのではないかなどと考えたこともあります。この一月、日本で両親と「俺達の大和」という映画を観ました。あの撃沈された大和ですら、数百人の生存者がいたのですから、可能性はゼロではないでしょう、だれも遺体を見たものはいないのですから。
「ほぼ死んだことは確かであろう。けれども消息が分からない」と言うのは、また辛いものです。しかしその、殆ど死んだであろうと思っていた人が、実は生きていた、しかもその思いもよらぬ人が生きていたことで、自分が救われるということは、ダブルの喜びです。今朝は、このダブルの喜びの話をしたいと思います。それはヤコブ、すなわちイスラエルですね、このイスラエルが、その子ヨセフとエジプトで再会するくだりであります。
神の計画と言うのは非常に不思議であります。それは人にはほぼ絶望に見えても驚くべき喜びに変えられるからです。ですから人は、決して希望を失わず、神に期待すべきであります。
まず第一に知って欲しいのは、人には絶望的に思える出来事が起こるということです。
このヨセフに関しては、37章から見ていく必要があります。すでにご承知のように、この『夢見るヨセフ』は、兄達にミデヤンの商人に売られてしまいます。それを父ヤコブに伝えた時、「これはわが子の長服だ。悪い獣にやられたのだ。ヨセフはかみ裂かれたのだ(v.33)」と言って嘆き悲しみました。確かにヨセフの長服だと確認は出来たかも知れませんが、ヤコブは遺体を見たわけではありません。兄たちの仕業ですが、それを父上には言わなかったようです。兄達とて、まさかエジプトで、こういう形で会えるとは思わなかったでしょう。生きていることさえ疑問に思っていたかもしれません。
人が特に絶望的に感じるのは、いのちに関してではないでしょうか?現在も随分多くの人たちが、北朝鮮に拉致されたままになっています。20年―30年もの人生が台無しにされしまったことは本当に残念、人の人生ということを考えると絶望的ですが、それでもなお「生きているなら」という希望にまさるものはないでしょう。横田恵さんの場合でも、DNA鑑定では他人の遺骨だったようで、それは取りも直さず、まだ生きているという可能性があるのですね。
ヤコブの場合、当時はまだ当然DNA鑑定などは出来ませんでしたから、長服についていたのが獣の血でも、兄達の言葉でもありますし、ヨセフの血と信じるしかなったのですね。「ほぼ望みはないな」こういう状態だったのです。
恐らく現代の人間にもそういうほぼ望みなしと思われるような、辛いことがあると思います。何故、こんなことになるのか? そういう思いになることがあります。
私どもはすべてのことが神の摂理の中にあることを信じます。神はお造りに生った人間を愛しておられないはずがありません。神がすべての人間に計画を持っておられるというのが私たちの確信です。非常に辛い思いの中にも、神の計画があるのです。
そこで第二番目に、神の不思議な計画を悟りなさいということです。
七年の飢饉が全土を襲います。エジプトだけでなく、ヤコブ一族のいたイスラエル地方も例外ではありませんでした。そこで食料のなくなったヤコブの子供達がエジプトに食料を求めてやってまいります。ところがその時、彼らが売り飛ばしたヨセフは、エジプトで総理大臣になっていたのです。長い話を短くしますと、45章4節―8節では、「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。
だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです」と言います。
兄達は、父上のヤコブと違って、ヨセフが獣に食われてはいないということは知っていました。それにしても予想も出来ない展開です。何とエジプトで総理大臣になっているのが、自分達が売り飛ばしたヨセフだったからです。ヨセフは「それで、あなたがたは急いで父上のところに上って行き、言ってください。『あなたの子ヨセフがこう言いました。神は私をエジプト全土の主とされました。ためらわずに私のところに下って来てください』・・・・と」
これは神の計画なのです。同時にヨセフは来るべきイエス・キリストの型として捉えることが可能でしょう。兄達はヨセフを売り飛ばしました。人々はイエス様を陥れました、ユダが、学者が、祭司達が、また民衆が。人々は彼が死んだと思いました。しかし彼は復活したのです。弟子達は絶望していました。彼がエジプトに行くことは、あるいはイエスさまが死ぬことは、神の計画だったのです、それは裏切った者達を救うという。
考えてみれば本当に主権をお持ちの神の計画は不思議です。クリスチャンの方は、自分が救われたケースを考えてみてください。そうでない方は、なぜ今朝、この教会に来ているか考えてみてください。それはあなたのどうすることも出来ない、つまり絶望的な将来を変えるという目的で、主があなたをこの教会に来させてくださっているのです。そのどうすることも出来ない将来、つまり死ですね。それを解決なさろうと、主は計画なさっているのです。
そこで最後に覚えてください、この不思議な計画が、あなた自身を生き返らせるということを。それは、イエス様が、生きているということを知らせることによってです。
ヨセフの兄達は、一部始終をヤコブに話します。テキストは言います、「彼らはヨセフが話したことを残らず話して聞かせ、彼はヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見た。すると彼らの父ヤコブは元気づいた。イスラエルは言った。「それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。私は死なないうちに彼に会いに行こう」と。この箇所は、英語の聖書のほうがステキに感じられます。NIVは 「the spirit of their father Jacob revived.」ですが、欽定訳も、ASVも、NASVも、 Spirit
という語と、Revived という語を使っています。言語でも確かに ルーワハ というのは霊であります。それが ハヤー つまりこの場合、「再生した」と言う風に理解したらよいと思います。
「霊が生き返った」とでも言いましょうか。皆さんは『放蕩息子の話』をご存知でしょう。あそこで、帰ってきた息子に父は、「死んでいたのが生き返り(ルカ15:24)」と言います。あんな感じかと思います。ヤコブは、ヨセフを失くしてから、まさに霊としては死んでいたようでした。こういう時に、「ヨセフは生きています」の報告を受けます。とたんに生気がよみがえってきます。
北朝鮮に拉致されている人たちも親も、ことに拉致されて生存が確認された人たちの家族は、必死ですね、「必ず子供を取り返すぞ」と。横田さんのご両親など、テレビで観ると、まさに気力で子供を取り返すために、奔走しておいでになるように見えます。
イエス様の弟子達はどうだったでしょう。十字架にお架かりになり、墓に納められた時は、意気消沈、絶望したことでしょう。「やっぱりあの方もダメだったか」とも思ったでしょう。しかし女たちから、「主がよみがえられました」と報告を受け、ほのかな希望の陽がさし、実際によみがえった主が彼らの前にお現れになると、一挙に勇気を取り戻しました。彼らは「主よ」叫びました。最初は復活さなった主を見なかったトマスも、実際に種に出会うと、「我が主よ、我が神よ」と申しました。生気がよみがえりました。
もし何か絶望的な思いがあなたを支配しているなら、この方に目を留めないことが、その絶望の原因です。「神は何もなさらない」とお考えでしたら、それは違います。何年か前、韓国の『ハレルヤママ』こと、チョエ先生は、「『はなかみ』や『しんぶんがみ』もかみよ。でもそれらはあなたに何もしてくれないよ。死んでいる、いつまでも生き返らないかみは、あなたに希望を与えません。イエス・キリストなる神は、死んでも生き返られた本当の神さまです。このお方は生きておられる神です。この方が、あなたに生きる希望を与えるお方です」と叫んでおられました。その通りです。
ヨセフが生きていると分かったヤコブも、放蕩息子が帰ってきた時の父上も、思いつめていたでしょうね。ですからその思いがかなえられた時の感激は大きいのです。それは喜びであり、生気であります。皆さんは、皆さんの人生について否定的に考えていませんか?「やっぱり私はダメだわ」という風に考えていませんか?あるいは病気の問題でもいいです。「なぜ、私はこういう病気で悩まなければならないのだろう。やっぱりこれは運命なのかしら」と。神は、知らない間にヨセフを、いいえ、ヨセフより素晴らしいお方、イエス様を準備していてくださいます。私は道であり、真理であり、いのちであるといわれたイエスさまが、あなたの悲しみを、絶望感を、必ず、喜びに、希望に変えてくださいます。生きておられる主イエスさまに期待しましょう。
祈ります。