2006年3月12日
『ガードせよ』 2テモテ 4:6-22
4:6 私は今や注ぎの供え物となります。私が世を去る時はすでに来ました。
4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。
4:9 あなたは、何とかして、早く私のところに来てください。
4:10 デマスは今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい、また、クレスケンスはガラテヤに、テトスはダルマテヤに行ったからです。
4:11 ルカだけは私とともにおります。マルコを伴って、いっしょに来てください。彼は私の務めのために役に立つからです。
4:12 私はテキコをエペソに遣わしました。
4:13 あなたが来るときは、トロアスでカルポのところに残しておいた上着を持って来てください。また、書物を、特に羊皮紙の物を持って来てください。
4:14 銅細工人のアレキサンデルが私をひどく苦しめました。そのしわざに応じて主が彼に報いられます。
4:15 あなたも彼を警戒しなさい。彼は私たちのことばに激しく逆らったからです。
4:16 私の最初の弁明の際には、私を支持する者はだれもなく、みな私を見捨ててしまいました。どうか、彼らがそのためにさばかれることのありませんように。
4:17 しかし、主は、私とともに立ち、私に力を与えてくださいました。それは、私を通してみことばが余すところなく宣べ伝えられ、すべての国の人々がみことばを聞くようになるためでした。私はししの口から助け出されました。
4:18 主は私を、すべての悪のわざから助け出し、天の御国に救い入れてくださいます。主に、御栄えがとこしえにありますように。アーメン。
4:19 プリスカとアクラによろしく。また、オネシポロの家族によろしく。
4:20 エラストはコリントにとどまり、トロピモは病気のためにミレトに残して来ました。
4:21 何とかして、冬になる前に来てください。ユブロ、プデス、リノス、クラウデヤ、またすべての兄弟たちが、あなたによろしくと言っています。
4:22 主があなたの霊とともにおられますように。恵みが、あなたがたとともにありますように。
今週で、この『2テモテの手紙のシリーズ説教』はおしまいです。実は今からおよそ12年前、私は『1テモテの手紙のシリーズ説教』をしております。それで最近、その説教ノートを取り出して読んでみましたが、やはりこの『2テモテ』の場合と、同じスタンスという感じがしました。この両手紙に共通している思想に、「間違った教理に対する警戒」と言うのがあります。そこで最後にあたり、もう一度皆さんに、何が真理で何が間違いか、しっかりと見極めるように、そして間違った教理に対して警戒しようということについてお話したいと思います。
天国の栄冠を勝ち取る信仰の歩みというのは、なかなか真剣な歩みです。ですから世的なこと、間違った考えを持つ人たちから自分をガードして、しっかり信仰に立って歩みましょう、ということを最初に申し上げたいと思います。
ある方が言われました、「私は、先生方のように天国の上座でなくとも、一番末席でいいですから、とにかくは入れればいいです」と。冗談ではありません、私自身がそう思って信仰に励んでいるのです。「自分は天国では上座に座れるかも」だなんて高ぶっている人は、おそらく入れもしないのです。私も知っているあるPh.D.の先生が言っていました、「クリスチャンとしての生活はメチャクチャで、死ぬ前にあわてて悔い改めたからと言って、果たして天国にいけるだろうか?」と。これは一理あるように思います。皆さんはルカ23章のイエス様と一緒に十字架に架かった強盗の話を御存知ですね。あそこでイエス様から「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます(v.43)」と言われた強盗は、それまでイエス様の恵みにあずかっていなかった人です。罪がどこまでも赦されることは真理ですが、悔い改めの質が問われるでしょう。普通、真実な悔い改めは、その後もう罪をおかさなくなります。
東京の慈恵医大の近く、愛宕町に真福寺というお寺があります。近代的ビルですから、外から見るとあれがお寺とはわかりませんが、それが徳川綱吉とも緊密な関係があった、隆光和尚がいた寺で、この人は、綱吉をそそのかして「生類憐れみの令」を出した超本人だともいわれています。この時代に有名な赤穂浪士の事件がありました。将軍綱吉は、この赤穂浪士を赦そうが、それとも切腹にしようか迷ったそうです。その時、この隆光和尚が、「中にはまだ歳若い者もいると聞きます。折角主君に忠義を尽くして仇討をして名をあげたのに、まだこれから長く生きていかねばならぬのなら、間違いをおかして折角の美談を台無しにせぬとも限りません。腹を切らせておやりなされ」と言ったとか。そういうわけで綱吉は、切腹を命じたといわれております。
イエス様と一緒に十字架に架かった強盗は、信じて死んだのです。だからと言って、私達は信じたからもう天国が確実なうちに腹を切るというわけにはいきません。信じたら、ずっと死ぬまで、信仰深く、忠実に信仰生活をすることが大切です。確かに様々な誘惑もありましょう。しかし、しっかり信仰を防御することです。
何故これを申しますかというと、テモテ書簡を読んで、案外信仰から外れる人の話をみるからです。第一テモテでは、ヒメナオ、アレキサンデルがいます。第一との関連でみるべきか、第二テモテにはヒメナオとピレトが出てきます。繰り返しますが、牧会書簡は、主としてクリスチャンに対してアプライするためにしるされています。これらの人たちは、一旦は信仰者として知られていた人だったのでしょう。しかし今はそうではないのです。3:8の「ヤンネとヤンブレ」と言う人は新約聖書の人ではありませんが、真理に逆らう人の例として記されています。
今朝のテキストの10節では、「デマス」という人の名前が出ていますが、この人は「今の世を愛し、私を捨ててテサロニケに行ってしまい」となっております。これを「教会から背教と解すべきではない」と説明している註解書もありますが、果たしてそこまで断言できるかどうか?私の理解では、今日にもそういうクリスチャンがいるように、一時は熱心だったけれども、その後「この世を」愛するようになった人かも知れないということです。そしてついには信仰から逸れてしまった可能性もあるということです。
日本とかアメリカの先進国においては、「世を愛する」という場合、まずお金ですね。1テモテ3:13には、監督になろうとする人の資質があり、そこに「金銭に無欲で」ということが記されています。これは何も監督になろうとしている人ばかりでなく、すべての立派な信仰者を目指す人にアプライできます。2テモテ3章には終わりの時代の様子が記されていますが、そこに「人々は・・・金を愛する者・・・になる」と記されています。またそういう人は、「いつも学んではいるが、いつになっても真理を知ることが出来ないものたちです」とあります。
「世を愛する」ということは非常にシリアスなのです。それは「信仰の失格者」になる可能性が大いにあるからです。パウロは「あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい(1コリント10:31)」と言っているではありませんか。皆さんはどういう暮らしがしたいと思って、毎日生活していますか?このサンタクラヴァレーで、どれだけ張り切って生活しても、せいぜいロスアルトスヒルに家を買って、メルセデスに乗るくらいではありませんか?ロスアルトスヒルにいた人で、何人の人と天国で会えるでしょう。イエス様は、「神にも仕え、また富にも仕えるということはできません」と言われました。ですからクリスチャンは、何をしたら、神の栄光になるかを考えて生活しましょう。お金を目標にして生きると、あのホリエモンさんのような結果になるのです。あれはかなりオソマツな例です。東大在学中に起業し、32歳で「俺が同年代では一番金持ちだ」と嘯いていましたが、このままではつまらない人生を送る方ですね。この世を愛する人は、天国はとてもとてもですが、例えば夫婦の関係がうまくいかなかったり、子供が信仰を受け継がなかったり、お互いの信仰がなくなってしまったり、この世を愛する人は、この世でもひどい目に遭うことがしばしばですね。
今、ちょっと遅まきですが、司馬遼太郎さんの『竜馬がゆく』を読んでいます。あの時代の若い人たちの国家を思う思いの熱いこと、熱いこと。昨年来た伏見さんにうかがったのですが、塾の先生をしていた彼が、生徒に「将来、何になりたいの」と尋ねると、小学生が「伏見先生、コウムイン、コウムイン、この時代はコウムインが一番」と答えるそうです。まだ小学生ですよ、彼らは! 私は公務員も、意識と使命をもってそれをやろうと志望する人はいいと思いますが、この小学生の言葉「コウムイン」は、失業がなく安定していていい給料が期待でき、休みが多いという理由が、かなりの部分を占めているのが情けないのです。こういう影響が教会にも漂っていますから、牧師を志願する人は全く少なく、数少ない志願者の中にも、「給料はどれ位もらえるか」だの「手当てはつくのか」だの、腰抜けたことを言うのがかなりいるようです。仕事は使命でやるのです。主の召しでやるのです。私は、20歳の時召されて、伝道者の道を歩み始めました。もう一度人生があるなら、躊躇なく「主よ、この道に召してください」と申し上げます。あの頃、すでに「お金が人生の目的ではない」と感じていましたが、高校卒業して豊橋に来たころ、実際に自分が歩んでいる道は、何のことはない、なるべくお金持ちになることを目指しているというだけじゃないかということが分かりました。当時私が夢にしたクラウン・スーパー・デラックスだってそうです。人より、目立つ車に乗りたいという、バカな望みでした。家とか車などという財産は、真面目に夫婦仲良く信仰深く暮らしていれば、それなりのものは与えられるものです。考えてみてください、私達のような者でも、ベイエーリヤで家を持っていますし、一人に一台づつ車を持っています。それぞれ仕事を持っている人は、主の召命感を抱いて、信仰深く歩んでいけば、この国では、時が来れば普通は牧師より立派な家が持てるでしょうし、立派な車ももてます。信仰を後回しにして、家や、車や、いい暮らしが優先するような生活をする、いわゆるクリスチャンは、必ず案外近い将来蒔いたものを刈り取るでしょう。
信仰の歩みは真剣というか、誠実でなければなりません。お付き合いでの信仰などという信仰は、まあ早晩なくなります。それは世を愛しながらの信仰者によく見られるパターンです。
「あなたも彼を警戒しなさい」とパウロはいいます。15節全体は「あなたも彼を警戒しなさい。彼は私たちのことばに激しく逆らったからです」です。銅細工人アレキサンデルのことです。実はここは、英語では、「You
too should be on your guard against him, because he strongly opposed our
message.」となっています。日本語の「ことば」というのは「メッセージ」です。単なるパウロの言葉遣いとかではなく、パウロの語るメッセージに反対したのです。パウロは、「そのしわざに応じて主が彼に報いられます」と言います。これは、かなりの確信で「主が厳しく報われるだろう」と理解すべきでしょう。メッセージが正当なら、それには反対するのではなく、同意すべきであります。
雑誌『ハーザー』に出ているタイムズ・スクエアー教会のデビッド・ウィルカースン牧師のメッセージは厳しいので、途中で立ち上がって出て行く人がいるそうですが、聖書的ならそれでいいのです。例えば「什一献金しましょう」というメッセージ、「日曜には礼拝に参加しましょう」というメッセージ、それはしている人にはまったく「アーメン」ですが、していない人は、反対することが多いと思います。先のふたつのメッセージは、聖書に教えられている、まったく正当なメッセージです。
日本語では「警戒しなさい」となっていますが、これは「外からの影響に気をつけなさい」という意味です。ボクシングなどでも、ガードが甘いと打たれてノックアウトされます。アレキサンデルは、パウロのメッセージに反対した人です。こういう人は、悪い影響を他の人にも撒き散らす傾向があります。こういう人たちからのガードは、「避ける」事が一番ですね。人間の心と言うのは、いつも一定ではありませんね。「いいわ、いいわ」で付き合っていると、やがて悪い影響を受けるのです。私達の教会では、洗礼を受ける方達に買ってもらっている吉山先生の書かれた、『クリスチャン生活のしおり』ですが、その「交際について」という中に「世の古い友人は、自然に私たちから離れていき、新しい信仰の友が与えられます」とあります。私など殆ど昔の友人は離れました。勿論今でも適切な距離を置いてはお付き合いがあります。その中の何人かは、未信者ですが献金もしてくれます。
パウロとデマスは友人だったと思いますよ。けれども彼は離れたのです。世を愛したからでしょう。世的な人は、霊的、信仰的な人が苦手ですね。けれども、一応信仰者のような顔をして信仰者と付き合いたいと思っている人もいます。そういう人は、人々の信仰を下げるようにします。世の中に人は世的に決まっていますが、問題は世的なクリスチャンです。そういう世的なクリスチャンとも、距離を保つほうが懸命ですね。それは自分の信仰が危うくなるからです。警戒するべきです。
パウロは、「思い違いをしてはいけません。友だちが悪ければ、良い習慣がそこなわれます(1コリント15:33)」と言っています。
さて、これまでの話をまとめますと、信仰を保って天国へ入るということは、現実的にはそう容易いことではないということです。信じて洗礼を受けたら自動的などではありません。何故なら信仰の破船にあった人がいるからです。世を愛することが、その原因の大きなところでしょう。それは今の時代ではお金とか、いわゆるいい暮らしでしょう。私たち真の信仰者は、お金やこの世の栄華を求めるより、主にある使命を持って、キリストの栄光のために生きるべきです。それは誠実、忠実、真剣という言葉がフィットするでしょう。こういう歩みを邪魔するのは、世の人ばかりでなく、世的なクリスチャンです。ですから、そういう人たちの影響から、自分の信仰を守るべきです。その時には、パウロと同じように、「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです」と言えるのです。何故ならパウロは「私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」と言うからです。
祈りましょう。