2006年3月19日

『あなたは高価で尊い』 イザヤ43:4

 43:4 わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。だからわたしは人をあなたの代わりにし、国民をあなたのいのちの代わりにするのだ。

 今週からイザヤ書VECH(ヴェック)シリーズとして、しばらくイザヤ書から御言葉をお取次ぎいたします。VECH とは、Victory, Encouragement, Comfort, Hope の頭文字です。 

イザヤという預言者は、イエス様より大体740年位前から、主に南のユダ王国で活躍した預言者です。同胞の北イスラエルが、アッシリヤによって滅ぼされていくのも知っています。非常に厳しい時代に生きた預言者です。けれどもこのイザヤ書は、私たち夫婦にとりましても、実に先にあげました四つの点で、これまで非常に強い味方でした。

今朝の説教題は、『あなたは高価で尊い』 であります。この御言葉は、おそらく世紀を超えて、数限りない人々の慰めになった御言葉であろうと思います。「お証詞をしてください」と言われた人が、非常にしばしば使う御言葉の一つと思います。おそらく日本の教会では、このテキストからの説教をすると、「またか」ちょっとうんざりした顔をされるかもしれません。それ位よく知られた御言葉ですが、カリフォルニアの星教会の場合は、ここでクリスチャンになっても、その滞在期間が3−4年という人が多いですから、大体の人は聴いていないと思います。素晴らしい慰めと希望と励ましに満ちた御言葉だと思います。

神があなたを高価で尊いとお認めになっているのです。ですから決して失望せずに生きましょう。

     このテキストでは、「あなた」というのはイスラエルの民のことを言っているわけです。イスラエルの人々というのは、「選民」意識がありますから、本来は非常に誇り高い民族であります。それは「異邦人」とはっきりした区別した意識を持っております。ところが、ここで敢えて、神が「高価で尊い」と言われるには理由があります。それは、このイスラエルとういう民族は、神の選民という特別な民でありつつも、何度となく神に対し不信になり、神を神とせず裏切ったことによります。こういうマナーでは、どうしても「高価で尊い」にはなりません。むしろ反対に、どう言いましょうか、「無価値で卑しい」とでも言いましょうか?実際は、実にやっていることからして無価値で卑しいイスラエル民族に対して、なお神は、「あなたは高価で尊い」と言われるのです。

    今朝は、一つのパラブル(譬)をお話しましょう。

    大阪郊外に、小さな男の子を持つ平山さんという夫婦がいました。御主人の名前は秀雄さん、奥さまの名前は春江さんと言いました。年齢は団塊の世代、つまり我々の世代くらいと考えていただいてよいでしょう。御主人はあの当時で、国立の大学を出られた方で、某一部上場企業にお勤めでした。奥様とはお見合いで結婚なさいました。ところがお二人の間に子供が出来た頃から、このご主人は他の女性と道ならぬ仲になりました。近年の夫婦なら「離婚」ということになるでしょうが、時代が違います。奥さまはジット耐えました。この御主人はお酒もかなり飲む人で、家にお金も十分に入れなくなりました。きつい生活に耐えかねて奥様が「どうぞもうちょっとお金を入れてください」とでも言おうものなら、酔ったあげくに殴る蹴るの乱暴を振るいました。そんな頃、奥さまの春江さんは、ご近所で開かれていた家庭集会に誘われて聖書の話を聞きました。そのうちに春江さんが、家庭集会に行っていることが御主人に知れました。ご主人はまた殴る蹴るの乱暴を働きました。しかしそういう困難な中でも、春江さんはイエス様を信じてクリスチャンになりました。春江さんは、厳しいこういう生活を数年間耐えたばかりではなく、ある時「もうその人のことは忘れてあげるから、この子のためにももう一度、何とか一からやり直しましょう」と頼みましたが、だめでした。ついにご主人のほうが出て行き母子が残されました。流石にこの時は、春江さんもショックでした。御主人はどこに住んでいるのかも知らせませんでした。何とかご主人を捜そうと、会社にも連絡したのですが、驚いたことにその会社は解雇されていたのです。重なる気苦労で、前から少し胃がおかしいかなと感じてはいましたが、気ばかりあせって、健康管理にまでかまっていられませんでした。ところが、あまりの胃の痛みに、春江さんは病院へ行かざるをえませんでした。そして胃ガンが発見されました。5歳になっていた子供はオジイチャン、オバアチャンに預けられ、春江さんは即入院しました。彼女はまだ若かったということもあって、ガンの進行も早く、病院で検査を受けた時は、もう手の施しようがないという状態でした。時は過ぎてゆき、日に日にガンは進行していきました。そのころ周りの人たちの協力で、やっと夫の居場所が分かりました。当時5歳になっていた子供が、オバアチャンに教わって、父親に電話をかけました、「お父さん、帰ってきてよ」と。そうしたら、そこにいた情婦が、「あんた戻ったほうがいいんじゃない?あんた方まだ正式に離婚してないんだから、まだ夫婦なんでしょう」と言いました。久しぶりに聞く子供の声と、「もう長くない」という妻の母の話を聞いて、御主人はちょっと心が動きました。その時、そこにいた情婦がまた、「せめて奥さんの最期くらい罪滅ぼしにだんなのまねごとでもしてあげたらどう。今のままじゃ私だってさァ、どうにもあんたの奥さまの『妻』と言う字には勝てないけど、お亡くなりになればまたすっきり、一から始められるんじゃない?」と実にあっさり言い切ったのです。流石の御主人も、別居中とは言え死にそうな妻に対する、この情婦のあまりにもアッケラカンな言葉にちょっとムッとしました。けれども自分のやっていることに対する後ろめたさもあって、その時は何も言わず、情婦の家を出て翌日病院に姿を現しました。病院には、奥さまの両親や親戚の人達も集まっていました。彼らはこの御主人をジッと見つめました。「あの人が春江さんの御主人よ」というささやきも漏れていました。この御主人はそういう人々の目を気にしながらベッドのところに行きました。奥さまは死期を感じていました。奥さまは、御主人の姿を認めると、時間をかけて「あなた、よく戻って来てくださったわね。ありがとう。多分、わたしはもう長くないと思うけど、私が死んであなたが再婚する時は、あの子を可愛がってくれる人を選んでね」という主旨のことを、か細い声を絞り出しながら言いました。 御主人が思わず、しかしボソっと「・・・春江、悪かったなあ」と言うと、春江さんは「私は、もうあなたのことを赦しています。あなたも是非教会へ行って、イエス様を信じてくださいね」とも言いました。ホッとしたのか、それからしばらくして意識がなくなりました。そして2日後に召されました。

    教会でのお葬式が終ってこの御主人、平山秀雄さんは、死んだ奥さまが最後に住んでいたという小さなアパートの畳の間に、天井をボッと見つめて座っていました。(俺はなんてひどい男だろう) まだお子さんは奥さまのご両親のところにいて、一人でした。考えてみると結婚生活の殆どは苦労のかけ通し、辛い思いをさせ通し、愛らしい愛を示すこともなく、奥さまを死なせてしまいました。整理ダンスの上には、子供が生まれた頃に三人で撮った写真がありました。小さなテーブルの上には、奥様が使っていたという聖書がおいてあります。ご主人が柩の中に入れてやろうとした時、牧師さんが「平山さん、これは奥さまの形見だと思って、持っておられたほうがいいですよ」と言われたので、残しておいたのです。しおりが挟んであるページがあって、そこを開いてみました。赤エンピツで線が引っ張ってあるところを読んで平山さんは愕然としました。そこには「人の妻と姦淫する者、すなわち隣人の妻と姦淫する者があれば、その姦夫、姦婦は共に必ず殺されなければならない。(レビ20:10)」とあったのです。その聖書の個所をジッと見つめ考えている平山さんの聖書を持つ手が震えていました。それまで、妻や子供がいるのに、あの別の女性とずっと不倫をしてきたことを思いました。そういう自分が「必ず殺されなければならない」という箇所を心の拠り所にして、妻は生きてきたのかと思いました。そう言えば、そのところには二重で赤線が引いてありました。(けれども死んだのは俺ではなくて、春江だった。どうして?)とも思いました。

  仕事はまだ休んでいました。(俺は本当にどうしようもない男だ。どうしようもなく悪い男だ。悪かったと言おうにも妻はもういない。俺はどうしようもない男だ。いまさらどうにも出来ない) そんなことを思いながら、まだ妻のにおいの残っているフトンにル入ると、涙がとめどもなく出てきましした。(俺のほうが交通事故か何かで死ねばよかった。そうすればかけている生命保険が下りて、多少なりとも罪滅ぼしが出来たのに)とも思いました。けれどもまたちょっと考えて、その保険金の受取人が死んだ奥さんではなく、あの別の女性になっていたことに気がつくと、また(ああ、俺っていう男は、どうしてここまでバカなんだろう)と頭を抱える始末でした。

  次の日曜、平山さんは、奥様のお葬式をした教会に行きました。妻が死ぬ前に「あなたも教会へ言ってね」と言ったのを思い出したのと、やはり死んだ妻がお世話になっていたので、最後に挨拶だけでもしておいたほうがいいだろうと考えたのです。一応、彼女の使っていた聖書を持っていきました。平山さんが教会に行って、まず不思議に思ったことは、おそらく妻に対してひどい夫であった自分のことを、教会の人達が見る目は厳しいと予想したのに、意に反して「平山さん、ようこそおいでくださいました」と皆さんが本当に、歓迎してくれたことでした。(おかしいなあ。 あの春江さんを苦しめた御主人ってどんな人だろうと、冷たい視線をあびると予想していたのに、これはどういうわけだ) と平山さんは思いました。

説教になりました。聖書個所はイザヤ書434節ということでした。お隣にすわった同じくらいの年かっこうの男の人が、聖書を開くのを手伝ってくれます。その男の人は、その個所を指さし「ああ奥さまも、ここをしっかり読んでおられましたね。ほらこんなに赤線が引かれています」と言いました。びっくりしました。確かにそうです、そこには赤線などというより、文字列の上全体が赤く塗りつぶされておりました。

牧師さんの説教が始まりました。

・・・・・価値のない人間だとか、自分の人生など何にも希望が見出せないと考えます。そうしてある人は絶望して自殺してしまうことすらあります。また何か大きな罪を犯した人が、自責の念にかられる、しかしどうすることも出来ないという場合があります。そうして(ああ私はダメな人間だ、私はダメな人間だ)と思いながら毎日を送っています。これは学歴とか、生まれには関係ありません。日本のように高学歴で豊かな国であっても同じです。

(そうだ、それはまさに自分だ)と平山さんは思いました。

ダメな人、罪を犯した人には、普通人はもう顧みてくれませんね。あなたの家の隣に、殺人犯で刑期を終えた人、婦女子暴行で有罪となり刑務所に入っていた人が刑期を終えて移り住んできたら、歓迎しますか?大体の人は気味が悪いと感じて歓迎しませんね。

ただ、こういう人でも、真に悔い改めるなら、道が開けます。ルカ23章の二人の強盗を見てごらんなさい。一方は、「お前はキリストであろう。自分を救え、そして俺達をも救え」と言いました。しかし、もう一方は、「俺達はやったことの当然の報いを受けているのだ。しかしこの方(イエス様)は何も罪を犯してはおられない。イエス様、あなたが御国の権威を持っておいでになる時は、私をも思い出してください」と言いました。そうしたらイエス様は、「あなたはたった今、私と共にパラダイス(天国)にいます」と言われたのです。一方の強盗は、最後はだれも顧みてくれる人もなく、たった一人で死にました。しかしもう一方は、本来なら絶対、友達などになる人はいない強盗殺人犯ですが、罪を認め、悔い改めたことで、神なるイエス様が口を開いてくださったばかりか、天国まで約束してくださったのです。罪を悲しむ人は幸いです。イエス様自身、「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです(マタイ5:4)」と言われるからです。・・・・・説教が、この辺りまでくると、平山さんはもう涙をポロポロ流していました。

ところが、「私はダメな人間だ、私は罪深い。私がやったことはもう取り返しがつかない」と悟った人は幸いですと牧師さんが言われた時、今度は平山さん、涙目をキョトンとして、次に何が話されるだろうかと、高壇の牧師さんの口元に注目しました。

・・・・・実は、イエス・キリストなる神と同じ神は、イエス・キリスト より700年以上前にすでに、預言者イザヤを通して、『わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している』と言われたのです。どうしようもなくダメと思われた人、箸にも棒にもかからぬと思われた人、誰にも顧みられぬような恐ろしい罪を犯した人ですら、神の目からみると、「高価で尊い」のであって、「」の対象なのです。悔いた心、悲しむ心の人には、この「高価で尊い」と言われるお方が、きっと分かると思います。それはイエス・キリストなる神です。神はあなたが罪人の時から、すでに愛しておられ、「高価で尊い」と思っていらっしゃるのです。あなたはそれに気がついていなかっただけなのです。あの十字架にかかった強盗の一人のように、自分の罪を認めるなら、イエス様の愛が分かるでしょう。このイエス様を認め、あなたの救い主と信じませんか?・・・・・と牧師さんが結んだ時、教会中にも分かるような大きな声で平山さんは「ハイ」と言ったので、みんなビックリしました。しかし誰かが、パチパチと拍手をしだすと、会衆全員がパチパチ拍手をしました。

考えてみれば、しおりがはさんであったところの、「必ず殺されなければならない」を拠り所に奥さまが生きてきたにしては、病院で会った時の奥さまの態度は不思議でした。あの時彼女の目は死が近づいていたとは言え、平安に満ちていました。死ぬ前に皮肉の一つも言われても仕方がないと思っていたのに、奥様が「ありがとう」とか、「あなたのこと赦しています」などと言ったのにも驚きました。どうして奥様がそうなったのか、平山さんは、その御言葉、「わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している」と見て分かりました。きっと死んだ妻は、自分のようなどうしようもない夫でも、神は「殺す」ことを願わず、「高価で尊い」と言われるのだから、赦し続け愛し続けてくれたのだと悟りました。また平山さんの目から涙がこぼれ落ちました。

さて皆さん、ここからは皆さんに対する奨励です。神の目から見たら「あなたも高価で尊い」のです。自分の罪深さ、虚しさを知るなら、この「高価で尊い」と言われる神の愛が、あなたを満たすでしょう。あなたにも、このこの「高価で尊い」と仰せになる方がおいでになるのですから、この方に期待し、決して負けないようにしましょう。

祈ります。