2006年3月26日
今週の礼拝は、ゲスト・スピーカーでしたから、ベサニー大での説教を掲載します。
新約聖書で SIN というのは、ギリシャ語のハマルティアという言葉が用いられておりまして、それは「的はずれ」と言う意味であります。何が的はずれかと申しますと、人間が本来人間として歩まねばならない道、そういう方向に歩んでいけば正しい、一番充実感、満足感が味わえる道という方向に歩んでいないという意味で的はずれなのであります。そして、その歩みは神なしには考えられないというのが聖書の教えであります。
罪とは聖書にある、神の律法にそむくことですね。例えば、十戒を御存知でしょう。その第一戒は、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」です。これはもう日本の人たちはキリスト教の信じている人は殆どいないわけですから、普通だれでも背いているわけで、つまりみな罪人なわけです。そう申しますと、「私はキリスト教の神の存在など認めていないから関係ない」と言うかたもあります。けれども、第五戒から第十戒までは、聖書の律法としてでなくても、これらを破れば問題でありましょう。父母を敬え、殺してならない、姦淫してはならない、盗んではならない、ウソを言ってはならない、貪ってはならない です。 第7戒は、まず犯罪ですが、それ以外は程度によっては犯罪になりますが、大半はこの世では犯罪になりませんね。
私は田舎出身で通学は山道を歩いて通いました。畑に柿が熟していたり、桃が熟れている所を通ったものでした。そして生徒仲間の何人かは、悪気があってというより、ワンパク、ガキ大将という感じで、「ちょっと失敬」と畑へ入って、無断で頂いてまいりました??? 時には畑の外で待っている女の子にもあげたことがあります。見つかって怒られたこともあります。ウソつきだってこれまでに、幾つついたか知れません。貪りなどというのは、心の問題ですから、これはもうだれにでもあると思います。「父母を敬え」は、概ね敬っていましたが、いつもではなかったでしょう。「姦淫するなかれ」、これは「今まで妻以外の女性と関係を持ったことはありませんから大丈夫だ」とは申しません。イエス様が、「だれでも情欲をいだいて女を見る者は、すでに心の中で姦淫を犯したのです(マタイ5:28)」と言われるように、心の中の情欲を含めるなら、何度姦淫の罪を犯しているか知れません。ですから「クリスチャンになったから、もう罪は聖められて大丈夫」などとは、絶対言えないのです。生きている限り、絶えず悔い改め、十字架を仰ぐという生活が必要なのです。
いつかある青年と二人で車に乗っていた時、「なるべく早い時期に、結婚できるように祈りなさい。今の時代は、セックスの誘惑が非常に強いから、現実的な罪を犯さないためには、結婚する方がいい。聖書は『しかし、もし自制することができなければ、結婚しなさい。情の燃えるよりは、結婚するほうがよいからです(1コリ7:9)』と言っているから。君くらいの年齢なら、女の子といればもう考えることはセックスのことばかりでしょう?」とカマをかけると、「ええ、先生、よく分かっていますねえ」と言うのです。それで、「そりゃ、分かりますよ。私だって同じような、年齢を通ってきたのですから」と言ったものです。
私の考えでは、現代の若い人たちの結婚年齢が遅くなったというのは、いわゆる神の律法に背く、無責任なセックスで、性の欲望を満たしているだけだと思います。これだけ性的情報が飛び交い誘惑の強い世界で、30歳―35歳になってまでセックス経験がないという人は(特に男性) 病気の人か、よほど信仰かなにかににコミットした人でしょう。「何か他のことに熱中しなさい」などというアドバイスは殆ど効果がありません。音楽をやっている人が、セックス問題を起こすのはしょっちゅうです。スポーツをやっている人が、その種の問題を起こすのもしょっちゅうです。天から見ておられる天地万物の創造者なる神を意識しない人で、健康な人なら、それくらいの年齢になれば結婚しないとしても、手近なところで性の欲求を満たす可能性は、今日の時代は非常に高いでしょう。
これは男性だけではありません。女性でもそれ相当の年になれば、実際に関係は持たない人でも情欲を持つでありましょう。「私は、決してそういう汚れた思いを持ったことはありません」と言うなら、おそらく第9戒(ウソを言ってはいけません)を破ることになると思います。それより近年では、年増もいかない女の子達が、犬っころが発情した時のように、倫理も道徳もめちゃくちゃという感じで、セックスにきわめてアクティブです。結婚前のセックスは是か非かという問いで、日本の場合、是とする高校生は、断然アメリカより高いパーセンテージであります。しかし、それらは不法であり、罪であり、絶対に許されないことなのであります。
「そんなこと言ったって、・・・・言ったでしょう、私にはあなたの言う、キリストの神さまとやらには関係ないの」と人は言います。実は、罪というのは、それなのです。イエス様が十字架にお架かりになるとき、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです(ルカ23:34)」と言われましたが、自分が何をしているか、何を言っているか分からない状態なのです。極端な例が、オーム真理教の人たちです。あの事件で日本はああいう優秀な人材を何人失ったことでしょう。お医者さん、科学者、法律家、優秀な人たち、日本に約に立つ人たちの人生が台無しです。
程度の差こそあれ、それは天地万物の創造者なる神を認めないすべての人に、これは当てはまります。的外れの生活というのは、洋服のボタンを掛け間違えているようなものです。一番最初が間違っていますから、それからどう取り繕おうとも、決してうまく行きません。こういう場合は全部外して、最初からかけなおす以外にありません。
「だけど、あなたの言われるとおり、私達が罪人だとしても、それが一体どうしたと言うのですか? 罪人でけっこうですね」と、罪人のあなたは開き直るかもしれません。
実は、罪をそのままにしておいて生きることは、この世で生きていても、実につらい、空しいことだということを知っていただきたいのです。
私達は結婚した当時、岐阜県の美濃加茂市という所で伝道しておりました。そこに一人の事業をしている青年がやってまいりました。そしてこの青年によれば、岐阜市の某所に遊郭のある地区があったそうです。「俺は仕事をして疲れているのに、雨が降っているにも拘らず、そこまで車を飛ばして女を買いに行ってしまうのです。俺はなんでこんなバカなことをしているのか、と本気で考えてしまいます。疲れているのなら、早く休めばいいのに、ほんの一瞬の快楽のために、時間をかけお金を使い、(ほんの2時間位で一日の儲けがパーになると苦笑していました)なんで、こんなバカなことをやっているんだろうと考えてしまいます。こんなことしてちゃだめだと思うのですが、また知らないうちに車のエンジンをかけ、岐阜市に向かっているんです。もう本当にいやになります」と、虚しさ一杯で話した青年のことを忘れられません。本物が心の内にないと、何をやっても虚しいのですね。イスラエルで王であった人ですら「私は心の中で言った。『さあ、快楽を味わってみるがよい。楽しんでみるがよい。』しかし、これもまた、なんとむなしいことか(伝道2:1)」と言います。手当たり次第、女性をものに出来た人ですら、そういう快楽では、心の空しさは満たせないと言っているのです。イエス様は、「信じない者は神のひとり子の御名を信じなかったので、すでにさばかれている(ヨハネ3:18)」と言われました。その通りです。罪人の心の内には、「人生これだ」というものがありません。罪がそれを隠しているからです。
ただ、そういう罪の生活を送っていて虚しさを感じるのは、あなた方のように、シングルで学生をやっている時位までだと思います。これが社会に出て、結婚して、子供が出来て、というようになりますと、毎日の生活が忙しくて、人生についてなど考えているゆとりなどなくなります。そればかりかこの時期は、お金を貯めるとか、いい暮らしをするとか、儲けるということが、その人の考えのかなりの部分を占めますから、この学生時代以後で、罪について、イエス様について、などを考えるのは、おそらく何か大きな問題があった時しかないと思います。例えば離婚とか、大きな病気、死の危険、配偶者や近親者の死、子供の問題、親子の問題、こういう場合には、また考えるかもしれません。そういう大きな問題がなく、そこそこに順調に年月を送りますと、次の機会は死ぬ時です。死ぬ時にはおそらく一度は考えるでしょう。ただ、だれもが人生についてじっくり考えられるような死に方が出来るかどうかは分かりませんね。あっという間の交通事故とか、あっという間に、ストロークになったというのでは、もうそれで勝負あったですね。負けです。何故なら聖書は、「世に勝つ者とはだれでしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか(1ヨハネ5:5)」というではありませんか。イエス様を知らずに、つまり信じないで死ぬわけですから負けですね。また仮に晩年になって仮に人生について考える時があっても、何しろ長い人生を送ったあとですから、この世のしがらみがいっぱいついており、その時必ずしももイエス様を見出せるかどうかは分かりません。確実な時は、「今」です。
聖書は、「罪から来る報酬は死です(ローマ6:23)」と言います。 そう申しますと、「ハハハハッ、人間はだれでも死ぬのでしょう」とお笑いになるかもしれません。けれども、ここでは「死」と言うのは、脳波が直線になり、心臓がとまり、瞳孔が開くといった肉体的な死を意味しているのではありません。人間は、肉体だけでなく霊をもっております。罪をそのままにしてくと、その霊も死ぬのです。この死は聖書によれば、肺ガンで死ぬとか、拷問で死ぬと言った厳しさの比ではありません。
「どうしてそんなことが分かるのですか?」と問われるでしょう。それは十字架で肉体の死を経験し、その先、黄泉にまで下って、肉体の死の向こうを経験されたにもかかわらず、復活なさったイエス様がおられるから、それが分かるのです。イエス様は神ですから、死を打ち破って復活なさいました。こういう風に話してまいりますと、「それはあなた方の考えでしょう、私は私のやり方でいくから、もう構わないでください。面倒なことは、考えたくはないんです」という態度をとる方もありましょう。
ここに「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった」の意味があるのです。罪人とは、最初に申しましたように、神の律法に逆らう人のことです。それは天地万物の創造者なる神に逆らう人であります。ただ逆らう人と言うのは、自分が逆らっているということなど分からないのです。まさに、先にも話しましたイエス様を十字架に架けている人々に、イエスさまが言われたことです。
イエス様が十字架に架かって死なれたことが何故愛なのでしょう?それは、そのあと18節に「こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです」とあるところを見てください。すなわちひとつの違反というのは、創世記のアダムとエバの堕落のことをさしています。創造主なる神が、人に「取って食べてはいけない」と言われたにもかかわらず、人はその命令に背きました。その不義以来人間には、死が入ってきたのです。ところが、イエス様が十字架でお死になったことで、罪がきよめられ、それを受け入れた人々が義とせられる道が開けたのです。
「そんな、うまいこと言って・・・・・」と言われるかもしれませんが、これは私の作り話というより、聖書がそう教えているのです。キリストが罪の世においでになれば、そこには死しかないということは分かっていました。けれどもあえて、愛の神はそれをなさったのです。何故か? それはキリストの十字架の死を通して、あなたに罪を気付かせるため、そしてその罪を悔い改めさせるため、そしてイエス様自身の身代わりの死によって罪人達の罪を赦し、永遠の命を与えるためでした。
キリストの十字架は、そういう意味を持っています。ですからこれは愛なのです。みすみす誤った道に向かっている人を、あるいはもがいている人を、「関係ない」と見ていることは愛でしょうか?罪人のためにイエス様がなしてくださった愛は、比類なく大きいのです。ただ、そういう風に神の愛は、イエス様によってすでに与えられているのですが、その愛に気がついて、それを受け取らない限り、あなたのものにはならないのです。ですから、ぜひ気がついてください。
祈りましょう。