2006年4月2日

 今週も先週に続いて、ベサニー大集会での説教を掲載します。


『神はイエスさま』 ヘブル書 1:1-3

1:1 神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られましたが、
 1:2 この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。
 1:3 御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。

 今私たちの教会に来てくださっている方々の中に、移植外科医のO先生という方がいます。26日の日曜、その先生がお証詞して下さいました。つくづくと移植をなさるお医者さんの仕事とは大変な仕事だと思いました。また、その信仰態度も立派だと思いました。その前日、すなわち25日(土曜)の2時頃、テキサス州ダラスにドナーがあって、肝臓がアヴェイラブルだという知らせがスタンフォード大病院に入りました。臓器採取医師でもあるO先生は同僚医師と共に、ただちにテキサス州ダラスへ飛ぶわけです。コマーシャル・ジェットでは遅くなるので、チャーター便で行きます。ただちにダラスに飛んで、そこで臓器を取り出します。どうも子供の臓器だったようです。スタンフォードは子供の移植をやる数少ない医療機関のひとつだということです。O先生の話では、腸がダメな場合、肝臓が悪くなって、結局死ぬそうで、腸と肝臓と一緒に移植するのだそうです。とにかくダラスでドナーからの臓器を採取して、とんぼ帰りです。採取された臓器はなるべく早く使いたいが、どうしても給油で、ニューメキシコだったかで一度降りました。スタンフォードでは、時間のタイミングを計りながら、別のチームがレシピアントのおなかを開いて、ダメな腸や肝臓を切除する手術が、夜中の2時から始まっていたそうです。そして、そこへ臓器が届く、そして入れる、という段取りで仕事が進みました。

  朝9時に、「僕のやるところは終わった。あとから礼拝に行くから、君たちは先に行っていてくれたまえ」と、奥様に連絡が入りました。子供たちの日曜学校のために、奥様と子供たちは先にやって来ました。O先生はシャワーを使って、大人の礼拝の始まる時間には、間に合いました。私が、「お疲れで、来られなくても当然だと思っていました」と言うと、「いやァ、大丈夫です、帰りの飛行機の中で、少し眠りましたから」と言われました。

  教訓: 主を知っており、その主を愛する人は、懸命に礼拝を守ろうとします。それは第4戒を守らなければならないという、消極的な動機からではありません。ヨハネは、「神を愛するとは、神の命令を守ることです。その命令は重荷とはなりません。(1ヨハネ5:3)」と言いますが、その通りです。礼拝を守るという第4戒は、新約のクリスチャンにとっては「守らねばならない」という義務感からではないので重荷ではありません。むしろ「ああ、今週もまず週の初めの日に、愛する主を礼拝しよう」という、主に対する愛が動機ですから重荷ではないのです。

  先回は、人間の罪ということに焦点を当ててお話しましたから、今日は、神に焦点を当てましょう。神がはっきり分からないと、礼拝に出るとしても、それは義務からか、あるいはおいしいランチを食べたいというような、別の動機からでしょうから、これは長続きはしません。

  O先生は証詞の中で言われました。これまで多少、「果たして他人の臓器を使ってまで、生きることが倫理的に正しいのだろうか」という疑問がありました。しかし彼が言うには、移植外科医になって、一人のドナーから、心臓、肝臓、腎臓など、多い時は七人くらいの人が助かるのだそうですが、一人の人が死んで、多くの人が助かるという究極のリサイクルということを考えると、やはりこれは素晴らしいことだと思いますと。同時に、ここが私達の感動したところですが、彼は、「私達のやっていることは、配管工事をする作業員のようなものです。使えない腸を捨てて、新しい、使える腸に取り替えるという、しかし私たちは今、それを取り替えることは出来ますが、その腸そのもの、肝臓そのものを造ることは出来ません。医学が発展して、人工の臓器が出来ることはあるかも知れませんが、いのちそのものを造ることは出来ません。体のメカニズムを見ていると、本当に創造主のなさった業を讃えます」と。

  前にここで、この神がおいでになるにも拘わらず、この神を認めもしない、従って崇めもしない、ましてやその教え(聖書)に従いもしないというのが、人間であり、その人間とは、そういう自分の状況に気がついていない、そのことが罪だと申しました。

  神は確かにおいでになります。ただ見えません。ヨハネ4:8には「神は霊です」とあるように、私達の目では見えないのです。ただ、神がおいでになるのではないかということは、人間は神に造られておりますから、何かしら直感的に感じているのですね。

  君達の中に、「私も神さまがおいでになるということは、なんと言うか、分かるような気がする」と言った人がいますが、そういう直感力というのは、人間が神によって造られているので、何か分かる感じがするのですね。ただ、詳しくはあ¥分かりません。また歴史や、民族の研究では、なんらかの超自然的な力というものを、どの時代の、どの人達も持っていることを学びます。未開の地で伝道する宣教師達の報告でも、あらゆる国々、あらゆる文化の人々が、人間の理性を超えた、超自然の力の存在を信じているということが分かります。人間の直感的な力がそうさせるのでしょう。

  昔、日曜学校でこの神の存在の説明をしたことを覚えています。「…・ここに時計があります。この時計は誰が作りましたか? 時計の会社ではたらく人達ですね。空の星は、太陽は、誰が作りましたか? これは神様ですね。…」という説明です。すなわち、存在しているなら、その原因があるということです。この点、先のO先生の話は、実際に人体のメカニズムを見ている方ですから、説得力があると思います。「神様って、すごい創造をなさる!」ということです。あなたが存在している、それは神さまがおいでになり、あなたをお造りになったからです。

  またこの考え方はどうでしょう? おおよそ人間には、道徳があります。例えば、「進んで人を殺すことが正しいことである」とか、「たくさん盗んでくることはよいことである」という道徳は、おそらく、まずどこでもいつの時代でもありませんでした。不品行などというのも、封建制の下で、ある条件の下では、不公平に許容されていたとはいえ、そういう時代であっても、例えば婦人が密通をすれば、厳しいおとがめがありました。つまり道にそれていると判断されたのです。道徳・倫理からそれるとどうでしょうか?普通の人は、胸が痛むのですね。

  最近、オーム真理教の麻原彰晃の死刑が、一審の地裁判決でほぼ確定する見通しであるというニュースを知りました。どうも弁護側が控訴趣意書を出さなかったことが原因だといいます。坂本弁護士一家殺害からはもう16年経過しています。オーム真理教の麻原の命令で、教団の村井秀夫、岡崎一明、端本悟、中川智正、新実智光、早川紀代秀が、一家三人を殺害しました。村井はすでに刺殺されていますが、あとの五人全員が死刑判決を受けています。この殺人を実行した時、すなわち小さな子供の首を絞めて殺したあと、その犯人の一人、(おそらく端本)は夢遊病者のようになって、「ああ、おれは子供を、殺してしまった。おれはこの手でやってしまった」とその両手を見つめて言っていたそうです。また、地下鉄サリン事件実行犯の林郁夫という慶応大出のお医者さんは、事件後、逃げて、逃げて、また逃げていたのですが、歩くのに疲れて、自転車を盗んだ時、「ああ、おれはたかが自転車までも盗んでしまって、これで窃盗犯にもなってしまった」と思ったそうです。

  道に外れたことをすれば、普通は胸が痛みます。諸君は高校生の時、「タバコは吸ってはいけません。酒を飲んではいけません」というルールの下で、高校生活をしていたでしょう。「20歳になったらOK」などという法律は、正直おかしいのですね。タバコが身体にいいのだったら、若い頃からやってもいいのに、それはダメで、20歳になったらOKとは不思議です。これはお酒でも同じです。ですから高校生の時は、仲間同士で「おい、帰りに一杯やっていこうよ」とは言いませんね。ましてや先生に、「洋モクあります。いかがですか?」などとは普通は言いません。高校時代でも、悪い仲間に誘われ、仕方なく付き合うと、非常に罪悪感にかられます。しかし、これが慣れっこになると、だんだんこの道徳観念も薄れてきます。20歳になれば、完全に違法行為だという思いからは開放されます。

  80年代では、まだ「不品行は、お嫁に行けなくなる」という道徳観念があったようで、当時の流行歌にはそういう歌詞の歌もありました。最近では、こういう考えは、殆どワークしないほど、道徳観念が乱れています。そして繰り返せば、1回も20回も同じだという感覚になって、道徳観念は麻痺します。しかし、諸君も、道に外れたことをすれば胸が痛むということは分かると思います。そしてどう言う問題にせよ、実際に痛んだ経験のある人もいるかもしれません。

  聖書、伝道者の書12:14は、「神は、善であれ悪であれ、すべての隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからだ」と言います。このさばきへの恐れというのは、律法をお与えになった方がおられることを示しています。すなわち、完全に裁かれる神がおられるのです。何故、道徳に逆らうと胸が痛むのかは、天地万物の創造者なる神を認めるなら、すべてがうまく説明できるのです。聖書の歴史は、この神が、次第に御自分を明らかにされてきた歴史であるとも言えます。

  ただ、一番最初に申しましたように、神は霊であって目にみえません。ヘブル書1:1によれば、「神は、むかし先祖たちに、預言者たちを通して、多くの部分に分け、また、いろいろな方法で語られました」とあるように、霊である神は、最初から全体を現すことはなさってはいませんでした。アブラハムの時代でも、それはアブラハムという特別に選ばれた人物に、お語りになったのです。ところが、1:2-3 では、「この終わりの時には、御子によって、私たちに語られました。神は、御子を万物の相続者とし、また御子によって世界を造られました。御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました」とあります。

  また、ヨハネ1章には、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない」とあります。この「神―ことばーキリスト」の関係を、分かりやすくするために、尾山訳では、この箇所を、「まだ、この世界も何もなかった時、すでにキリストは存在しておられた。キリストは神と一緒におられ、また神ご自身であられた。このようにキリストは、神ご自身であられながら、唯一の神のうちにおられるもう一人の人格であられた。唯一の神には三人格があって、父と子と聖霊である。キリストは子であられる。」と訳しています。

  創世記1:1は、「初めに、神が天と地を創造した」ですが、これはこのヨハネ1:1 がよく説明しています。

  「それではその神は、誰が造ったのか?」などという愚問をしないことです。天地の創造者なる神は、アルファであり、オメガの神です。すなわち初めも終わりもない、出エジプト3:14 にあるように、『わたしはある』という方です。その『わたしはある』という神が、今から約2000年前、霊ではなく、見える形を取って、一度だけ、この世に来てくださったのです。

  よく罪びとの人間は「神がおられるなら、見せてもらおうじゃないか」と申します。これは馬鹿げています。今日の人間と、イエス様の時代の人間と比較して、今日の人間の方が、神であるかタダの人であるかの区別をする力が強いなどと、どうして言えましょう。

  イエス・キリストは、今から2000年前に、この地上においでになりましたが、「神を冒涜する者」と誤解されて、十字架で殺されてしまったのです。

  彼が、今日の時代にあなたの前に、お現れになったら、あなたはどういう態度を取られるでしょうか?「おい、すごい手品師がいるぞ」「どうやって、水の上を歩くんだろうねえ」と位は言うでしょう。「おどけたなあ。目が見えない人の、目が見えるようになったんだぜ」でしょうか。 それなら、当時の人達でも、同じです。日本でなら、相当偶像礼拝の罪を指摘なさったかもしれません。しかしバカにされ、無視されるのがオチです。先の戦争中だったら、完全に刑務所へ入れられ、もしかしたら死刑になったでしょう。

  ですから、「見せてくれ」と言うのは、無意味です。何度見せても、同じです。パウロは「キリストが死んだのは、ただ一度罪に対して死んだのであり、キリストが生きるのは、神に生きるのだからである(ローマ6:10)」と言います。

  けれども、イエス・キリストは神ですから、死など問題ではありません。復活なさったのです。そしてこの十字架にかかってお死になった、イエス・キリストを信じるなら、あなたの罪が赦されるというのが、神の言葉、聖書の約束なのです。

神はおいでになります。それは、八百万の神々ではありません。石や木や紙や金属で、人間が作った神々ではありません。それらはあなたに何もしてくれない、いのちのない神々、偶像です。本当の神は、「罪のきよめを成し遂げて」と人間にも見える形でおいでになりました。神は、イエス・キリストです。つまりイエス・キリストはこの世に来られて、人の罪のために十字架に架かって死なれましたが、三日目に死を打ち破って復活なさいました。そして弟子達に現れ、自分が神であることをお示しになりました。それから弟子達の前で、「優れて高い所の大能者の右の座に着かれました」とあるように、天にあげられましたから、今日、見える形でイエス様はおいでになりません。しかし聖霊さまとして、生きておられます。クリスチャンは、このイエス様を先輩クリスチャンたちの証言から、イエス様が神だと信じるのです。イエス様は、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです(ヨハネ20:29)」と言われました。これらのことは、証言の書、新約聖書にしるされています。どうぞ、読んでみてください。

  キリスト・イエスなる神を信じて、罪を赦され、永遠の命を頂きましょう。

  祈ります。