2006年4月9日
棕櫚の日曜日
『ピラト』 ヨハネ19:1-16
19:2 また、兵士たちは、いばらで冠を編んで、イエスの頭にかぶらせ、紫色の着物を着せた。
19:3 彼らは、イエスに近寄っては、「ユダヤ人の王さま。ばんざい。」と言い、またイエスの顔を平手で打った。
19:4 ピラトは、もう一度外に出て来て、彼らに言った。「よく聞きなさい。あなたがたのところにあの人を連れ出して来ます。あの人に何の罪も見られないということを、あなたがたに知らせるためです。」
19:5 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。
19:6 祭司長たちや役人たちはイエスを見ると、激しく叫んで、「十字架につけろ。十字架につけろ。」と言った。ピラトは彼らに言った。「あなたがたがこの人を引き取り、十字架につけなさい。私はこの人には罪を認めません。」
19:7 ユダヤ人たちは彼に答えた。「私たちには律法があります。この人は自分を神の子としたのですから、律法によれば、死に当たります。」
19:8 ピラトは、このことばを聞くと、ますます恐れた。
19:9 そして、また官邸にはいって、イエスに言った。「あなたはどこの人ですか。」しかし、イエスは彼に何の答えもされなかった。
19:10 そこで、ピラトはイエスに言った。「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか。」
19:11 イエスは答えられた。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです。」
19:12 こういうわけで、ピラトはイエスを釈放しようと努力した。しかし、ユダヤ人たちは激しく叫んで言った。「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです。」
19:13 そこでピラトは、これらのことばを聞いたとき、イエスを外に引き出し、敷石(ヘブル語でガバタ)と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた。
19:14 その日は過越の備え日で、時は六時ごろであった。ピラトはユダヤ人たちに言った。「さあ、あなたがたの王です。」
19:15 彼らは激しく叫んだ。「除け。除け。十字架につけろ。」ピラトは彼らに言った。「あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。」祭司長たちは答えた。「カイザルのほかには、私たちに王はありません。」
19:16 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した。
今週は教会暦ですと受難週であります。この日曜は、棕櫚の日曜日と申しまして、この日イエス様の一行はエルサレムに入場なさいました。小さなロバの背中に乗って入られるイエス様に、棕櫚の葉を道に敷いて、人々は「ダビデの子にホサナ。祝福あれ」と迎えました。イエス様の最後の一週について、他の三つの福音書と比べますとヨハネの福音書は12勝からの随分長い部分を割いています。19章は金曜で、イエス様は十字架にお架かりになるわけです。
キリスト教の中心は十字架であります。パウロは、「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です(1コリント1:18)」と言いますが、この十字架の意味が分かることが、キリスト教を知る・・・・と言うより、あなた自身の人生を見出す鍵であります。
テキスト19章の初めの部分には、兵士や祭司長、ユダヤ人も出てきますが、今日注目していただきたい人は、ピラトであります。
歴史によればピラトという人は、ローマ皇帝テヴェリウス(聖書にはテベリオとなっている)の時に、ヴァレリウス・グラトスという総督の後任として、ユダヤにまいりました。このテキストでは、一応公平に裁判をしているように見えますが、なかなか残忍な人であったようです。総督は普通、カイザリヤという海辺の町にいるのですが、大きな祭などの時は、混乱になったりしないように監視するためにエルサレムにやって来ていたようです。この時は、過越という大きな祭りの時でした。
皆さん御存知のように、『使徒信条』では、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ」と私たちの信仰告白の中にも、人間が犯す罪の結果の代表としてこのピラトの名前が出てきています。これは『使徒信条』ではピラトという人に代表される、権威のとり違いから来るのであります、結局は、これは人間の罪なのですが。
イエス様は神なのですから、イエス様に対して人間は何も権威がないことを認め、いのちがけでイエスさまを守ることが大切であります。
ですから言ってみれば、このピラトのやったことを教訓として、その徹を踏まなければ、人間としてまともな歩みが出来るということです。
テキストからイエス様に関して、ピラトについては、今朝は三つのことを知って頂きたいのです。
まず第一は、ピラトはイエス様に「出会っている」ということです。18章で「彼らはイエスを、カヤパのところから総督官邸に連れて行った。時は明け方であった(v.28)」とあります。この出会いが、ピラトとイエス様の最初の出会いであります。そしてテキストの19章は、その延長戦上にあります。「面倒くさいなあ、朝っぱらから起こされて、ガヤガヤ言われて、わしには関係ないだろう、お前達勝手に好きなようにしたらいいだろう」という感じだったのでしょうか。朝早くから、無理やり会わされたということですね。
イエス様に出会った人たちは、この世の言葉で言えば「偶然」「たまたま」、そうでなければ「不思議をなさるという評判で会いに行った」という人たちでしょう。いずれにしても聖書的に言うなら、摂理的に会ったのです。
私たちの伝道は、主として留学生の伝道で成長してきました。ベイ・エーリヤの住宅事情から考えると、こんな小さな群れで、ベイ・エーリイヤに、今日これだけの敷地をもつ教会を持っているというのは奇跡であります。それはともかく、学生さんの殆どは、「キリスト教に触れたいから、石原先生に留学のお世話になろう」と考えてきた人は、ほとんどいないと思います。私たちを通して導かれた留学生を通して、導かれてきたという人もおります。いずれにして、少なくともアメリカや日本など、先進諸国の人々は、何らかの形でイエス・キリストに出会うでしょう。私の言う「出会い」と言う意味は、勿論21世紀の現代ですから、フィズィカルな出会いをするという意味ではなく、「紹介される」と言う風に言ったほうが良いかもしれません。
聖書はあらゆる原語に翻訳されていますし、電波はあらゆる場所に飛んでいますから、今日では、直接的に人からイエス・キリストを紹介されなくても、本屋さんで聖書を買えば、あるいはラジオやテレビのスイッチを入れるなら、紹介者なしで、自分だけでイエスさまに出会うことも可能です。
どんな出会い方の時にでも言えることですが、イエス様に対して、なんらかの反応を示すでしょう。私は教会の屋根の小さな十字架を見て、「あそこに行ってみよう」と思いましたが、「ああ、あんなところに教会があるなあ」としか思わない人もおります。ピラトの場合は、無理やり会わされて、そのイエス様に関して裁定をするように求められています。ここでは、イエス様に関して、すれ違った程度ではない判断をすることが問われています。こういう場合、だれでも同じですが、ピラトもまた権威がどこにあるかということを取り違えているということであります。
これが第二に。イエス様に関して、ピラトについて知られることであります。
テキストの10節でピラトは「あなたは私に話さないのですか。私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか」と言います。それに対してイエス様は、「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません。ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪があるのです」と言われました。つまり「ですから、わたしをあなたに渡した者に、もっと大きい罪」の意味は、祭司長カヤパとか、律法学者であります。しかし、ピラトはこの時、自分が今、最終的に死刑を宣告する権威があるということを忘れていました、さらにその告発されているお方が神であるということは全く分かっておりませんでしたが。ヨハネ福音書は、その20章31節に、「しかし、これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」とあるように、非常に強く、イエス様が神であることを打ち出しています。事実イエス様は神なのですが、ピイラトにはそれが分かりません。ピラトは本心としては、「私はこの人には罪を認めません」と言っているのです。ただ自分が神に対面しているにも拘らず、それが分からない、これは何もピラトに限ったことではなく、すべての人間の問題です。ただピラトがその代表になったことは、摂理であったとは言え気の毒なことでした。
私の尊敬していた方に特州会病院理事長の徳田虎雄というお医者さんがいます。徳之島のお百姓さん出身で、がむしゃらに勉強して医者になり、現在日本に40いくつかの病院、医療施設は120以上という、大医療グループの総帥です。何故彼を尊敬していたかと申しますと、お百姓さんの息子の彼が大阪大学医学部に入って、今日の特州会病院グループにまで発展させたには、彼自身のものすごい頑張りがあったのです。ことにその勉強態度はすざまじく、私は30を過ぎてから留学しましたから、彼の頑張りには相当影響されました。そういうこともあって、私は彼を尊敬していたのです。彼は今、医者をやめて衆議院議員ですが、その選挙運動の一環として、私はアメリカにいて、彼の『ゼロからの出発』という新しい本のタイプ打ちを手伝うことで、彼の選挙運動に加わったことがあります。実は私は大の選挙好きなのです。ところがそのタイプ打ちの仕事をしていくうちに、いささか気が抜けてしまいました。次のようにあったのです。彼が土、日も働く頑張り屋だということを記した後、彼は、・・・・
「それでキリストさんはどうか、というと、もちろん、日曜日は休んでいますよ。日曜は休みすよという宗教だから、こっちは勝ちうるんじゃないかな。・・・・おシャカさんやキリストさんは、杖を突いて歩いていた。僕はジェット機でビュンビュンだから、行動範囲が広い。だから機動力としては、彼らの五倍、十倍の人助けができる」と言うのです。かなり調子に乗りすぎた、もう悪乗りですね。大体、キリストに「さん」をつける呼び方は、大体尊敬して呼ぶ呼び方ではない場合が多いですね。「おちょくり」的な、バカにした呼び方です。彼は聖書を読んで、イエスさまに出会ったのでしょう。そしてそのイエス様と自分を比べたのでした。仕方がありません、徳田先生はまだ、イエス様が分かっていない罪人ですから。まあ、私にとっては、今でもそれなりに尊敬している方です。
ビートルズのジョン・レノンが「僕らとキリストとどちらが有名かなあ」などと言って、アメリカで総スカンを食ったことがありましたが、まあ分からない時は、ピラトも徳田先生も、ジョン・レノンも、そして我々もみな同じです。まずピラトにしても、徳田先生にしても、ジョン・レノンにしても、自分とキリストを比較するという発想がそもそも問題ですし、徳田先生のジェット機云々に関して言えば、彼は「神は遍在」ということが分かっておりません。
しかし大体の人間は、多かれ少なかれ同じような態度、すなわち「イエスより自分のほうが権威があるかもしれない、いやあるのだ」という態度を取るものです。
よく日本から来て間もない人たちは、「あのパトカー、サイレンも鳴らしていないのに、あんなにスピード違反やって」と言うことがあります。私も最初はそう思いました。しかし長らくこちらに住んでみますと、「あれはパトカーだからいいのです」という結論にいきます。すなわちパトカーは、あるいは制服のコップ(警官のこと)は、ほとんど何をやっていいと言うくらい権威があるのです。ですからアメリカでは、制服警官やパトカーに止められたら、日本よりウーンとマナーに対する注意が必要です。彼らはパトカーに乗り、制服を着ていれば、ほとんど全権力を持っているかのように振舞う感じがします。これは大分、日本と違います。
『デイブ』という映画がありました。デイブという一般人が、大統領に顔が似ているので、大統領の影武者になるという映画です。ある時、大統領夫妻が夜のドライブをしていました。警察官に止められました。最初警察官は、「免許証をみせろ」とか、いつもの尊大な態度でした。デイブが「持っていない」と言うと、「二人とも車から降りろ」と言います。出てきたのが、(影武者ですが)大統領夫妻です。とたんに警察官が、「ウォッオー」という態度に変わります。権威の移行ですね。このあたりはまったく愉快な映画です。
罪人の人間は、イエス様がどういうお方か分かりませんから、態度が尊大になります。徳田先生のように、かなり真面目で一生懸命な方でも、イエス様の権威が分からない場合は、かなりの勇み足をいたします。ピラトは「私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか」と言いました。
「宗教はいいです」「あんまり宗教には近づかない方がいいと言われていますから」「うちは仏教ですから」というやんわりとした言い方から、「処女マリヤが子供を産んだなどというバカげた教えに騙されるものか(創価学会)」「ベラスケスの描いたキリスト像などは、グロテスクで無残で、下手をすると信仰というものを失わせかねない(石原進太郎氏)」というような、対決的なものまで、神であるキリストの権威より、自分の意見のほうが権威があると考えるのは普通の人間の考えです。つまり神が分からない、普通の罪人の考え方です。
「大阪城はだれが建てたのでしょう?」と問えば、大体の大人は豊臣秀吉と答えるでしょうが、ある人たちは、「大工さん」と答えるかもしれません。誤解ですね。
その結果どうなったでしょう?第三に覚えていただきたいピラトに関すること、それはその自分の方が権威があるのだぞというその態度が、知ってか知らずでか、キリストを十字架に架けているということです。
テキストは、「『あなたがたの王を私が十字架につけるのですか。』祭司長たちは答えた。『カイザルのほかには、私たちに王はありません。』 そこでピラトは、そのとき、イエスを、十字架につけるため彼らに引き渡した」と言います。
ピラトにしてみたら、「これは私の意思ではありません。あなた方の意思ですよ。私には関係ありませんよ」という思いだったのです。どうせユダヤ人が一人位処刑されても、大したことではないとピラトは考えたのでしょう。
ですから、この箇所のマタイ27:24は、「かえって暴動になりそうなのを見て、群衆の目の前で水を取り寄せ、手を洗って、言った。『この人の血について、私には責任がない。自分たちで始末するがよい。』」となっています。ピラトは、「私は関係ありませんよ」という態度を、「手を洗う」ということで示しました。これはローマの習慣でしたが、ユダヤ人たちはただちにそれが何を意味したかを理解しました。人は、神と出会ったからには、手は洗えないのです。
ポンテオ・ピラトはあの時、「あの人に何の罪も見られない」ということを押し通すことも可能でした。しかし、彼は「もしこの人を釈放するなら、あなたはカイザルの味方ではありません。自分を王だとする者はすべて、カイザルにそむくのです」と人々が騒ぎ出したので、カイザルを恐れたことと、「群衆のきげんをとろうと思い、バラバを釈放(マルコ15:15)」することで、自分の地位の保全を図ったのであります。しかし、それは事実彼に十字架の責任がありました。彼は神なるイエス様より、カイザルを恐れ、民衆を恐れて、イエス様を民衆に引渡したのです。
「私がクリスチャンになると、家の者がなんと言うか分からない」とか、「会社でなんと思われるか心配」、「周りにクリスチャンなんていないから」と、本当はイエス様に好意を持っていても、いのちをかけてまでは、それを主張できない人がいます。ピラトは今日、『使徒信条』にも名前が出てくるほど、十字架にかけた責任者ですが、あなたがこのピラトの立場だったらどうでしょう? おそらくあなたも同じような態度を取ったと思います。ピラトはただ摂理的に、キリストを十字架に架けたという、人類の罪の代表になっただけです。しかし、同時に人類はヘブル書の記者が「また、血を注ぎ出すことがなければ、罪の赦しはないのです(9:22)」と言うように、キリストが十字架に架かることも摂理であったのです。
「誰が、キリストを十字架に架けたか?」という質問は、人類に対する普遍的な質問です。我が家の子供達は、「ローマの兵隊達」と言いました。「そのキリストを十字架に架けることについての最終的責任者は?」と問われたら、あなたは「ポンテオ・ピラト」と答えて、「私には責任ない」と答えますか?「私には責任ない」「関係ない」「またこの次」「考えておこう」と手を洗うことが、キリストを十字架に架けたのです。今から2,000前、それはピラトを通して起こりました。しかしその十字架が、私たちの罪を癒したのです。聖書は「自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。(1ペテロ2:24)」と言います。
これは確かな伝説ではありませんが、ポンテオ・ピラトはその後、アレキサンドリヤで、自分のやったことに気がついて、悔い改めてキリスト者になったとも言われています。まあ、いずれにしても天国へ行けば明らかになるでしょう。
あなたはどんな形であれ、主に出会います。今朝、ここに来ているということは、もうすでに出会っているのです。その時、神なるキリストの前には、自分の権威を捨て去り、すべての恐れに打ち勝って、主に従う者になりましょう。それが救われて、義に生き、永遠の命をいただき、魂に平安を持つ秘訣であります。
祈りましょう。