2006年4月16日
復活節
『そこにはおられません』 ルカ24:1-12
24:1 週の初めの日の明け方早く、女たちは、準備しておいた香料を持って墓に着い
た。
24:2
見ると、石が墓からわきにころがしてあった。
24:3 はいって見ると、主イエスのからだはなかった。
24:4
そのため女たちが途方にくれていると、見よ、まばゆいばかりの衣を着たふた
りの人が、女たちの近くに来た。
24:5
恐ろしくなって、地面に顔を伏せていると、その人たちはこう言った。「あな
たがたは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
24:6
ここにはおられません。よみがえられたのです。まだガリラヤにおられたこ
ろ、お話しになったことを思い出しなさい。
24:7
人の子は必ず罪人らの手に引き渡され、十字架につけられ、三日目によみがえ
らなければならない、と言われたでしょう。」
24:8
女たちはイエスのみことばを思い出した。
24:9 そして、墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報告
した。
24:10
この女たちは、マグダラのマリヤとヨハンナとヤコブの母マリヤとであった。
彼女たちといっしょにいたほかの女たちも、このことを使徒たちに話した。
24:11
ところが使徒たちにはこの話はたわごとと思われたので、彼らは女たちを信用
しなかった。
24:12
〔しかしペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだとこ
ろ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った。〕
我々牧師仲間には、(裏話を話すようで、信徒と一緒のところではあんまり大きな
声では言わないのですが(笑)・・・)イースターの説教とか、クリスマスの説教は
大嫌いと言う人がおります。こういう教会暦に沿った説教は、毎年同じような説教に
なってしまう傾向があるからでしょう。しかし、同じような説教であっても、人々に
は常に新しい光を放つこともまた事実であります。その理由の一つは、人々は案外分
かっているようで、分かっていないということが挙げられます。また大切なことで
も、人はしばしば忘れるということもあるからです。
例えば、今日の説教題の『そこにはおられません』ですが、「分かっていますよ、よ
みがえられたから、そこにおられないという意味でしょう?」と人は申します。確か
にその通りです。しかし、それではそう言う方に伺いますが、その「そこにはおいで
にならないということがどんな意味を持つか、お分かりでしょうか」と。
そこにはおられなかったということは、復活なさったということであり、復活なさっ
たということは、イエス様が神だということです。ですから、私達は、イエス様を神
として接するべきであります。
まず第一に、分かっているようで案外分からない人がいるので、おさらいですが、そ
こにはおられなかったということです。イエス様は十字架につけられて、確かにお死
にになったのです。それはイエス様を十字架に架けろと言っていた、当時のエルサレ
ムの宗教的指導者層の人たちも確認していました。彼らは、イエス様がまだ生きてい
たなどとは思っていませんでした。むしろ「閣下。あの、人をだます男がまだ生きて
いたとき、『自分は三日の後によみがえる。』と言っていたのを思い出しました。で
すから、三日目まで墓の番をするように命じてください(マタイ27:63)」と、弟子
達が遺体を盗み出すことを心配していたのです。彼らはイエス様が死なれたと確認し
ていた、ただその遺体が弟子達に盗まれないようにと、その墓の番をピラトに頼んで
いるのです。ですから死なれたということは、絶対の事実であります。
ところが、テキストでは、「まばゆいばかりの衣を着たふたりの人」が、「あなたが
たは、なぜ生きている方を死人の中で捜すのですか。
ここにはおられません」と
言ったとなっております。
彼らは天使です。天使は神のスポークスマン的な働きをするのです。
ここで、21世紀のことに日本人のために、別のおさらいをしますが、イエスという方
が、今から約2,000年前に十字架にお架かりになったということ、そして死なれたと
いうことは歴史的な事実であるということです。日本の人たちは、私たちが伝道して
いる時に気付くのですが、「でもイエス・キリストって、架空の人なのでしょう?」
と言う人がいるのですね。そこで申し上げますが、広辞苑でも、「ゴルゴダの丘の上
に、十字架上で、刑死」と記しておりますように、その実在とか、十字架上での死に
疑問など抱いておりません。ただ広辞苑は、何と言っても世俗の辞書ですから、聖霊
によって身ごもったとは書けず、「大工ヨセフその妻マリヤの子として生まれ」と
か、あくまでもイエス様が、ただの人であったというような書き方がしてあります。
それは仕方がないでしょう。
広辞苑はともかく、テキストによれば三日目に、墓にやって来た女達は、その遺体を
見なかったのです。この場合、どういうことが考えられるでしょう?
当時の宗教的指導者の心配したように、弟子達が遺体を盗み出したとする説・・・
・、しかしもし弟子達が遺体を盗み出したのだったら、復活ではないのですから、
「復活した」とウソを言って伝道し続けることは出来ないということです。一人くら
い、ずっとウソをつき続けることが出来る人がいるかもしれませんが、多くのお弟子
さん達の中には、きっと、「そんな不埒な教えに加担することは出来ない」と言う人
が必ず出てくるでしょう。ウソは長続きしないのです。つまり「復活した」という説
が一番理に適っているのです。
また、イエス様は死んではいなかった、つまり気絶していただけだという説、そして
イエス様が自らの説を正統化するために、逃げだしたとする説。面白い説を唱える人
がいるものです。そういう説の可能性を言うなら、まず、あれだけグルグル巻きで、
亜麻布を巻かれている人が、どうやってそれを解くことが出来たかということを説明
しなければなりません。半日も十字架に架けられていて、生きていたとしてもかなり
重症のイエス様が、(イエス様は、わき腹も槍で突き刺されているのです)その亜麻
布を解き放ったばかりか、どうやってその墓の大きな石をのけることが可能だった
か、今朝は外科のお医者さんもおいでですから、そんなことが可能かどうか伺ってみ
てください。それは無理です。さらにローマの兵隊の番がいるところを、どうやって
見つからずに逃げ出すことが出来たかという点、
・・・・これは限りなく不可能・・・・などと言ったものではない、絶対にありえな
いということです。つまり復活なさったのです。
テキストに「女たちはイエスのみことばを思い出した」とあるように、それはイエス
様が、三日目に復活すると言われたこと、あるいは旧約聖書で教えられていることの
成就として、復活なさったということは真実ととることが一番自然なのです。
第二に、何故毎年毎年、同じようなメッセージが語られなければならないのかの理由
は、その意味が分からない人がいるからということです。それはこういう意味です。
もし、イエス様が復活なさったのなら、彼は神です。この世の中には、いわゆる偉い
方は沢山いました。お釈迦様も、マホメットも、孔子も、多くの方々に影響力をあた
えたでしょう。しかしすべてお亡くなりになりました。しかしイエスさまだけが、死
んだ後に復活なさり、今も生きておられるのです。神だからに相違ありません。
何故、これが「分かっていない」ということが、知れるかと申しますと、・・・
ある時、ある方に私はかつて私が子供達に尋ねたように、「キリストを十字架に架け
たのはだれですか?」と尋ねました。するとこの方は、さすがに「ローマ兵です」と
は答えず、「私たち人類です」と答えました。この「私たち人類です」という答え方
は正解ではありますが、少なくとも二つの問題があります。その一つは、「私たち」
と言うことで、「私」の責任を軽減化しているという問題です。二つ目は、もし
「私」ならその責任の大きさにもっと重大な責任があることに気づかねばならなの
に、「私たち」と言うことで、どうもいっこうにその責任に気がついている様子がな
いということです。「だってみんなもやってるでしょう?」と言う人がいますが、あ
れですね。分かっていないのです。
この世の裁判には時効の壁というものがあります。殺人事件でも、犯人が検挙されず
15年でしたか、ある期間を過ぎればその事件については、その後、真犯人が分かって
もその責任を問うことは出来ないというルールです。ですからクリスチャンの場合
は、もし訴えられたら「時効」という手で責任を逃れるべきではありません。お隣の
家の柿を盗んだとか、お父さんの財布から千円失敬したということでも、胸がいたむ
場合があります。10年、20年前のことでも胸が痛んで眠られなくなる時があります。
罪を犯せば罪の償いが終るまでではなく、赦されたということが分かるまでは心が晴
れません。「時効」などというのは、法律の規定であって、ことに信仰者にはそうい
うものはあるはずがないことを知るべきであります。やったことの責任はいつまでも
ついてまわります。2,000年前の事件でも、尚時効は成立しないのです。キリストを
十字架に架けたのは、あなたであり、私なのです。「みんなの責任でしょう?」など
と言って、自分の責任を過少評価すべきではありません。もし、「私」の責任である
なら、この責任について、あなたはどう取りますか?人は、この真理にしばしば気が
ついていないのです。
そこで、これが今朝、最後に知って頂きたいことですが、真理が本当に分かってい
れば、おのずとその態度が変わるということです。イエス様が復活なさったのなら、
死から復活するようなお方は神以外にありません。彼は神です。これは真理です。も
し彼が神なら、私たちの取る態度はどうあるべきでしょう?
今週の暗唱聖句は、申命記6:4-5の「聞きなさい。イスラエル。主は私たちの神。主
はただひとりである。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を
愛しなさい」です。これは「シェマー」と言って、ユダヤ人は誰でも知っている聖句
で、これを知らない人は、もぐりのユダヤ人でしょう。(ヨハネ3:16
を知らないク
リスチャンはもぐりかな。)イスラエルは、昔、あまりにも、神を知っているよう
で、神に背いてまいりました。そのこともあって、今では、非常に厳格に、「主が
神」を教えています。これを彼らは、小さい時から繰り返し、たたき込まれます。そ
れで、イスラエルでは青少年の犯罪率が極めて低いと聞きます。
もしイエス様が神であるとするなら(クリスチャンは、この「主」なる神と、イエス
様が一体であると信じています。)、「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、
あなたの神、主を愛しなさい」ですから、自然に礼拝に集うという態度になって現れ
ると思いませんか?罪人の世に神なるイエス様が来てくださった、・・・例えば、あ
なたの家に、大統領とか、天皇陛下が来られるとするなら、それ相当の対応の仕方が
あるでしょう。(イエス様は、その両者以上です。)
「イエス様は、復活なさいました」と信じるなら、そのイエス様に対する、相当の対
応の仕方があると思うのです。このことを確認するためにも、毎年同じような「そこ
にはおられません。復活なさったのです」のメッセージは、必要なのです。
「主がそこにはおいでにならなかった」と分かったら、つまり「復活なさった」と本
当に分かったら、あなたはどういう態度になるでしょうかということです。テキスト
では、女たちは「墓から戻って、十一弟子とそのほかの人たち全部に、一部始終を報
告した」とあります。この行間から、驚きと喜びと感激が伝わってきませんか?
それは、主を喜ぶことでしょう。「スッゴイ、イエス様ァァァァァ、ハレル
ヤァァァァ」と主を讃えることでしょう。「ネェ、聞いてよ、聞いてよ」と人々に伝
えることでしょう。けれども、それを聞いても弟子達は最初、「この話はたわごとと
思われたので、彼らは女たちを信用しなかった」のです。彼らは、復活なさった主に
出会っていなかったのです。ここでも出会った者と出会っていない者の差が現れま
す。ペテロは、「ペテロは、立ち上がると走って墓へ行き、かがんでのぞき込んだと
ころ、亜麻布だけがあった。それで、この出来事に驚いて家に帰った」のです。その
後、ペテロも復活なさった主に出会います。そして彼も女達と同じように、喜び、感
激したでしょう。
本当に主が復活したと信じる人は、また言葉を変えて言うなら、この復活なさった主
と出会っている人は、喜び、感激し、自然に礼拝と言う形になります、また誰かに伝
えたいという形になるでしょう。大統領閣下や、天皇陛下とお目どおりするとき、
「ちょっと寝坊しちゃった」とか、「忙しいから」などとは言わないでしょう。例え
ば、恋人と会う時だったらどうでしょう?普通は十分に準備していきます。それは、
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして」愛するからです。ましてや、「御子イ
エスの血はすべての罪から私たちをきよめます(1ヨハネ1:7)」とあるように、その
十字架が、私の罪のためであり、その私の罪のために、イエス様が死んでくださった
のなら、なおさら感謝を捧げないわけにはまいりません。
確認したいことは、2,000年前の十字架の責任を思う人には、良い知らせがありま
す。「そうです、私がやりました。申し訳ありません」と罪を悔い改め、イエス様を
信じるなら、ただちに赦されます。これは聖書の約束です。しかも、イエス様は、私
のそしてあなたの罪のために死なれたのですけれども、死を打ち破って、復活なさい
ました。ですから、墓にはおられません。彼は神だからです。このことが、本当に分
かりますか。そうなら、復活なさった神なるイエス様に感謝しましょう、イエス様を
喜びましょう、そして礼拝しましょう。またこのことを知らない人にも伝えましょ
う。
祈ります。