2006年4月23日
Pastor
Abe’s Sermon ベサニー大集会での説教
4:10 皆さんも、またイスラエルのすべての人々も、よく知ってください。この人が直って、あなたがたの前に立っているのは、あなたがたが十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせたナザレ人イエス・キリストの御名によるのです。
4:11 『あなたがた家を建てる者たちに捨てられた石が、礎の石となった。』というのはこの方のことです。
4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」
4:13 彼らはペテロとヨハネとの大胆さを見、またふたりが無学な、普通の人であるのを知って驚いたが、ふたりがイエスとともにいたのだ、ということがわかって来た。
今日は、「救い」ということをテーマにしてお話しします。イエス・キリストによる『救い』というには、身代わりという救出です。また一義的には霊の救出です。
イエス様が死なれることで、私たちが救われるという、つまりきりストの身代わりの死によって、私達は一義的には私たちの霊が救われるのです。
「救い」といえば、君達は、救われなければならないような状況が必要だということは、論理的に考えて分かると思います。
例えば、「さあ、アメリカから逃げましょう。ここは危ないから」と言ったって現実感がありません。「どうして危ないの?」と尋ねるなら、「いや、北朝鮮の大陸間弾道ミサイルが、5年後に完成し、それに核を載せて、ハイテク中心のこの地を攻撃する恐れがあるかもしれないから、危険で」という説明では、なるほどだれも将来のことは分かりませんが、殆ど可能性の薄いことで、つまりそれは少なくとも今は、救われなければならない状況ではないでしょう。
これが、もし君がイラクのスンニ派居住地域に一人取り残されているということでしたら、今のような状況でも救出という言葉が妥当なほどの手がかかるでしょう。
キリスト教では「救い」という言葉をよく使います。現代の君達のようにアメリカで勉強している若い人には、この「救い」と言う言葉の意味は、ちょっとピンと来ないと思います。経済的には親がお金を送ってくれますから、なんの心配もいらないし、病気になったら医者に行けばいいし、それよりまず、今は元気ですから、健康の問題もないし、やりたい勉強もできるし、ここはサーフィンのメッカで、その気になれば、サーフィンも出来るし、・・・・一体、自分にとって救われなければならない状況とは・・・・・と考えて、ちょっと見当たらないと思います。
これがここから500マイルはなれたメキシコでは、国境を越えるだけで、もう同じくらいの年齢の人でも、明日の食べる物のために祈らなければならない人がいます。僕は、ミッションの教会のそばにいた若いお母さんの顔を忘れることは出来ません。小さな子供が小児麻痺だったのでしょう、しかし医者にかけることが出来ないのです、貧しいからです。粗末な掘っ立て小屋に住んでいました。私は「癒してください」と祈りましたが、次の時、訪問した時にはいませんでした。近所の人の話では、子供は召されたそうで、お母さんも、その後いなくなったそうです。
勿論、キリスト教の「救い」と言う場合、そこには、「危険から逃れることが出来る」「病が癒される」「経済的困難から助かる」「離婚になりそうなくらい夫婦の問題がこじれているが、それが修復される」と言った現実的なことも含まれますが、先にも申しましたように、君達には、そういう問題は少ないように思います。それでは、救われる状況ではないのかと言うと、そうではない、むしろ今、放っておくと取り返しのつかない現実的な問題になるし、その現実的な問題は、放っておけば結局修復されないことにもなるので、今の早い時機に救われた方がいいのです。
言うまでもなく、キリスト教で『救い』という場合は、霊の『救い』です。イエス様は、その霊が救われることの大切さの人々が悟ることがあまりにも遅いので、「中風の人に、『あなたの罪は赦された。』と言うのと、『起きて、寝床をたたんで歩け。』と言うのと、どちらがやさしいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを、あなたがたに知らせるために」と言って、その中風を癒されたので、この人は立ち上がったことが、聖書に記されています。(マルコ2章)
霊の『救い』と言う場合、これは老若男女、古今東西を問いません。すなわち君達も、絶対的に救われなければならないほどの重症・・・・・などと言ったものではなく、死んでいるのです。死んでいる者達は、創造主のもとに来ようとしない、これが罪だと話しました。その創造主なる神が確かにおられるという話を、先週しました。
その創造主なる神は、造った人間を愛しておられます。そこで、造り主なる自分から離れてしまった人間を、なんとか自分のもとに引き寄せようと『救い』のプランをお立てになりました。まず創世記3章で、アダムとエバが罪を犯したあと、ただちに神は「わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく(創世記3:15)」と言われました。これはまったく『救い』のプロトタイプでしょう。これでは一体何がなんだか分かりません。しかし、キリストの光に照らして考えると、ここでの「彼」はイエス様で、「おまえ」は、サタンだとわかります。十字架に架けるというということが、「かかとにかみつく」で、「頭を踏み砕き」は、死から復活するという意味です。
その『救い』の計画が完成するまでには非常に長い時間がかかっています。アブラハムにまで来るのに、どれ位の時間があったのかわかりません。アブラハムなんて、たった今から4000年くらい昔の人ですよ。これは神の永遠ということを考えたら、ブリンクにもならないでしょう。むしろ非常に近代の人と言ってもいいでしょう。
そのアブラハムという人物が選ばれ、このアブラハムから、イサクが選ばれ、イサクからエサウとヤコブが生まれましたが、弟のヤコブが選ばれ、そのヤコブからイスラエル12部族が出来、その中からユダ族が選ばれ、ユダ族の中でも、特にダビデの家系がえらばれ、その末にイエス様がお生まれになりました。イエス様は、肉の家系で言うなら、ユダの家系出身です。これはイエス様のお生まれになる何年も前から預言されていたのです。
さて、それでは神は罪ある人をどのようにして救う計画をお立てになったのかは、最初にも申しましたように、イエス様の身代わりの死という方法です。
パウロは、ローマ6:23で、「罪から来る報酬は死です」と言いました。先週も話しましたが、私たちの世界でも、殺人事件や、人を殺してしまうというような重大な事件にかかわれば、自分の命をもって償うほかありません。実際は、その殺人犯人が死刑になっても、殺された被害者が戻ってくるわけではないので、責任は取りようがないのですが、せめてものという責任の取り方です。
神に対して背を向けた人間に対して、神に対して背を向けた人間が、何人死んでも、これは赦されないのですね。サンクエンティンには8百人ほど、死刑囚が収容されているそうですが、その中の一人が、「俺が死ぬから、あいつを赦してやってくれ」と言っても、それは説得力がありません。どのみちどちらも死刑になる人だからです。これが(可能性はすくないでしょうが)、あなたが「私を彼の代わりに死刑にしてください。そして彼を赦してやってください」と言うなら、少なくとも、話は出来ます。ただ、現実的ではないですね。何故なら死刑執行人は、あなたには死刑にあたいするような罪がないことを知っていますから、絶対あなたを死刑にはしないでしょう。つまりそういう取引は不可能だということです。
ところがイエス様の場合は、人々が裁判官である、ポンテオ・ピラトが「この人には、死に当るような罪はみとめられない」と言ったにも拘らず、しかも、当時死刑になることが決まっていた、バラバという男の引き換えに、彼が十字架に架かることになってしまったのです。
この話を、今から2000年前にユダヤで起こった話で、私には関係ない、とお考えにならないでください。これはこういうことを通して、人々に「人が真理に対して、いかに無関心か」ということを教えておられるのです。そしてその言ってみれば、神に対する無関心、霊的には死んでいて、一方この世に対する異常な関心、つまり完全に闇の夜の主権者の支配化にあるあなたに、「ここに私がいるのですよ」と、罪のない神ご自身がお死になることで、ご自分を現しておられるのです。
もし、サンクエンティンであなたが、誰か死刑囚の身代わりを志願したら、仮に、刑務所でそれが許可されても、執行人は「あの人は、何も罪がない。私はこの人を死刑にすることは出来ない」と、言うでしょう。第一絶対そんなことが通るはずがありません。しかし、イエス様の場合は、それが通ってしましました。これを単にポンテオ・ピラトという当時のユダヤの総督の責任に帰することは出来ません。あるいはイエス様を十字架に架けるように主張した当時の宗教的指導者たちだけに責任があるということはできません。これは彼らの行動を通して、人類の神に対する罪を表しているのです。
パウロは、ローマ書5章で「正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた私たちが、彼によって神の怒りから救われるのは、なおさらのことです。もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられたのなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかるのは、なおさらのことです(5:7-10)」と言います。ここで、主語は「神は」です。この『救い』は神の計画なのです。
今あなたがイエス様に関心を示さない、それはイエス様時代に、十字架におかかりになるイエス様を、神と認めなかった群集と同じではありませんか。確かに人は「いい人だった。病気を癒してくださった」とは考えたでしょう。今日でもキリスト教に好感を抱く人はいますし、キリスト教で結婚式をする若い人は多いでしょう。しかし彼らは、この方が神だとは思わないでしょう。当時でも「かしら」と思った人はいたでしょう。しかしいのちを賭けてまで確信を持って、この方が神とは信じぬけなかったのです。
ペテロはテキストで叫びました「この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです」と。
これには、イエス・キリストが十字架で死んでくださったばかりか、死んで復活なさったことが大きな要因となっています。死んで復活なさった方はイエス様しかいません。それは彼が神だからです。
「救われる」ということは、結局、イエス様が神だと本当に分かることですね。これが分かれば、罪の恐ろしさもわかります。「罪から来る報酬は死です。しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです(ローマ6:23)」の意味も分かります。どこからともなくやってくる空しさの源もわかります。
ヨハネ4章でサマリヤの女は、イエス様が「しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」といわれた時、「先生。私が渇くことがなく、もうここまでくみに来なくてもよいように、その水を私に下さい」と言いました。この女は、男をとっかえひっかえしていた人です。今日にも、その時限りの快楽を求めている人がいますけど、おそらく空しさを感じているでしょう。これはイエス様しか救えません。彼だけが、「その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水」を与えることがお出来になるからです。
あなたの罪のために死んでいる霊が救われることが優先課題です。イエス様が、身代わりとなって十字架に架かり、その罪を購ってくださいました。そして、それを信じるなら救われるというのが聖書の約束です。これはまったく福音です。
是非、十字架に架かってあなたの罪のために死なれたイエス様を信じて、霊の『救い』にあずかってください。
祈りましょう。