2006年5月14日

  『ハンナの祈り』 サムエル記上1章

今週は『母の日』で、教会では母親達5人による、一人10分の連続ショート・メッセージでしたので、私のメッセージはありませんでした。メッセンジャーの何人かは、主に触れられ感動し、涙ぐむ人もおりました。とても幸いな礼拝でした。

   それで今週のこの欄は、1986年の『母の日』のメッセージをお届けします。あの頃、私も若かった(笑)。 私がサンホゼに来たのが、1985年の9月ですから、これはサンホゼでの最初の『母の日』の礼拝の説教です。

 

1:1 エフライムの山地のラマタイム・ゾピムに、エルカナという名の人があった。エフライムびとで、エロハムの子であった。エロハムはエリウの子、エリウはトフの子、トフはツフの子である。

1:2 エルカナには、ふたりの妻があって、ひとりの名はハンナといい、ひとりの名はペニンナといった。ペニンナには子どもがあったが、ハンナには子どもがなかった。

1:3 この人は年ごとに、その町からシロに上っていって、万軍の主を拝し、主に犠牲をささげるのを常とした。シロには、エリのふたりの子、ホフニとピネハスとがいて、主に仕える祭司であった。

1:4 エルカナは、犠牲をささげる日、妻ペニンナとそのむすこ娘にはみな、その分け前を与えた。

1:5 エルカナはハンナを愛していたが、彼女には、ただ一つの分け前を与えるだけであった。主がその胎を閉ざされたからである。

1:6 また彼女を憎んでいる他の妻は、ひどく彼女を悩まして、主がその胎を閉ざされたことを恨ませようとした。

1:7 こうして年は暮れ、年は明けたが、ハンナが主の宮に上るごとに、ペニンナは彼女を悩ましたので、ハンナは泣いて食べることもしなかった。

1:8 夫エルカナは彼女に言った、「ハンナよ、なぜ泣くのか。なぜ食べないのか。どうして心に悲しむのか。わたしはあなたにとって十人の子どもよりもまさっているではないか」。

1:9 シロで彼らが飲み食いしたのち、ハンナは立ちあがった。その時、祭司エリは主の神殿の柱のかたわらの座にすわっていた。

1:10 ハンナは心に深く悲しみ、主に祈って、はげしく泣いた。

1:11 そして誓いを立てて言った、「万軍の主よ、まことに、はしための悩みをかえりみ、わたしを覚え、はしためを忘れずに、はしために男の子を賜わりますなら、わたしはその子を一生のあいだ主にささげ、かみそりをその頭にあてません」。

1:12 彼女が主の前で長く祈っていたので、エリは彼女の口に目をとめた。

1:13 ハンナは心のうちで物を言っていたので、くちびるが動くだけで、声は聞えなかった。それゆえエリは、酔っているのだと思って、

1:14 彼女に言った、「いつまで酔っているのか。酔いをさましなさい」。

1:15 しかしハンナは答えた、「いいえ、わが主よ。わたしは不幸な女です。ぶどう酒も濃い酒も飲んだのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです。

1:16 はしためを、悪い女と思わないでください。積る憂いと悩みのゆえに、わたしは今まで物を言っていたのです」。

1:17 そこでエリは答えた、「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように」。

1:18 彼女は言った、「どうぞ、はしためにも、あなたの前に恵みを得させてください」。こうして、その女は去って食事し、その顔は、もはや悲しげではなくなった。

1:19 彼らは朝早く起きて、主の前に礼拝し、そして、ラマにある家に帰って行った。エルカナは妻ハンナを知り、主が彼女を顧みられたので、

1:20 彼女はみごもり、その時が巡ってきて、男の子を産み、「わたしがこの子を主に求めたからだ」といって、その名をサムエルと名づけた。

1:21 エルカナその人とその家族とはみな上っていって、年ごとの犠牲と、誓いの供え物とをささげた。

1:22 しかしハンナは上って行かず、夫に言った、「わたしはこの子が乳離れしてから、主の前に連れていって、いつまでも、そこにおらせましょう」。

1:23 夫エルカナは彼女に言った、「あなたが良いと思うようにして、この子の乳離れするまで待ちなさい。ただどうか主がその言われたことを実現してくださるように」。こうしてその女はとどまって、その子に乳をのませ、乳離れするのを待っていたが、

1:24 乳離れした時、三歳の雄牛一頭、麦粉一エパ、ぶどう酒のはいった皮袋一つを取り、その子を連れて、シロにある主の宮に行った。その子はなお幼かった。

1:25 そして彼らはその牛を殺し、子供をエリのもとへ連れて行った。

1:26 ハンナは言った、「わが君よ、あなたは生きておられます。わたしは、かつてここに立って、あなたの前で、主に祈った女です。

1:27 この子を与えてくださいと、わたしは祈りましたが、主はわたしの求めた願いを聞きとどけられました。

1:28 それゆえ、わたしもこの子を主にささげます。この子は一生のあいだ主にささげたものです」。そして彼らはそこで主を礼拝した。

 

  ここ半年ばかり、私は新約聖書からばかり説教してまいりました。まず私たちは、マルコ伝から『イエスさまの生涯シリーズ』を聞き、それからマタイ伝からの『山上の説教シリーズ』の説教を聞いて参りました。ですから今度は旧約聖書を開きましょう。聖書は旧約と新約とをあわせて聖書と言うのですから、旧約からみ言葉を聞くことも意義深いことだと思います。

  さて今日から、サムエル記上から、サムエルという人の生涯を通して、神を崇めていきたいと思います。このサムエル記は、もともと一つの書だったのですが、二つに分けられたのは、ヘブル語で書かれていた旧約聖書が、ギリシャ語に翻訳されたBC3世紀以降のことです。

  この書には、イスラエルにおける神の王国の歴史が含まれております。時代をおさらいしてみますと、モーセが出エジプトして、その後ヨシュアがあとを引き継ぎ、約束の地カナンに入り、その後、士師の時代が何年かありました。聖書の中で『さばきづかさ』と呼ばれている人達です。士師記に出てくる、オテニエル、ギデオン、さらにあの怪力サムソンといった人達が士師たちですね。サムエル記はこの士師の時代の後から、ダビデの王国の終盤までを扱っています。それは大体1140から1015BCのことです。サムエルはこの書の25章で死んでいますから、私達はこの書全部を開くわけではありません。しかしここ何ヶ月か、このサムエル記から主を崇めて参りましょう。

  さて、誰かの生涯はいつもその誕生から始まります。聖書の中には、多くの人たちが、本当に不思議な誕生をしています。サムエルもその一人ということが出来ましょう。テキストによれば、お父さんの名前はエルカナ、そして彼には二人の妻、ペニンナとハンナがいたとあります。ところが、ペニンナには子供があったのですが、ハンナにはなかったのです。彼らは例年のごとく、シロという町に上っていって、習慣に従い動物犠牲を捧げたのでした。シロという町は、エルサレムよりちょっと北の町で、当時そこに『会見の幕屋』があり、『契約の箱』があったのです。

  エルカナはペニンナには、彼女とその子供の分の犠牲を捧げましたが、ハンナは一人ですから一人分の犠牲しか捧げませんでした。ペニンナはきっとハンナに、「あなたはいつまでたっても赤ちゃんができないのねぇ」とか言って(6節)、からかったのでしょう。ハンナは祈りました。その結果与えられたのがサムエルなのです。

  さて今日の説教題は、『ハンナの祈り』です。このテキストから、私たちは、神は祈りに応えてくださる、悩みを取り除いてくださる、また祝福を与えて下さる、ということを知りたいのです。

  子供がいない人にとって、子供が与えられるということは本当に大きな喜びです。私達が5年前、初めてミズーリに行った時、私達が通った教会の牧師、ジョン・ウィルソン先生とその奥様の間には、結婚して16年も経ても子供がありませんでした。ところが私達が行って、すぐに子供が与えられました。その献児式の時、ウィルソン牧師は195センチもある大男なのですが、この大男が講壇で、ポロポロと感激の涙を流されました。

  ハンナもまた、長い間、子供がありませんでした。彼女は主に祈ったのです。聖書は「ハンナは心に深く悲しみ、主に祈って、はげしく泣いた10節)」と言っています。

  祈りこそ、問題解決の鍵であります。私たちはこのハンナの祈りから、何を学ぶことが出来るでしょうか。

  まず日本人にとっては、このことが覚えられなければなりません。それは『主』に祈るということです。ハンナは『主』なる神に祈ったのであります。

  私達がまだ日本にいた頃、ある高校に伝道に行っていたことがあります。高校生に私達のやっていることを話し、いざ帰ろうとした時、一人の女学生が「幸運を祈ります」と言ってくれました。私は「どうもありがとう」と言ったあと、ちょっといじわるかなと思いましたが、「私の幸運を、どなたに祈っていただけますか」と尋ねました。この女学生は、ちょっと考え込んでしまいました。日本では、「ご多幸を祈ります」とか、「ご繁栄を祈ります」というのは、本当に祈るというより、慣用句のようになっています。あるいは仮に本当に祈るとしても、その祈りは、『八百万の神々』に捧げられることが多いのです。私達が祈る時は、『主』なる神に祈るのであります。新約の時代に生きる私たちは、この『主』に、十字架によって、執り成しの道を開いてくださった、イエス・キリストの御名によって祈るのであります。

  二番目に、私達に何か特別な祈りがある時は、長い祈りをしましょう。ハンナは普段より長い祈りをしたでしょう。聖書は、「彼女が主の前で長く祈っていたので12節)」と言っています。

  ある人たちは、「祈りに長さは問題ではない」と言います。確かにそれも道理でしょう。けれども、長く祈ることから、素晴らしい祝福にあずかるということも、また真理であります。ことに私達が、本当になにかを願うなら、祈りも必然的に長くなるでしょう。この点について、私は韓国人教会に与えられている恵みがいい例だと思います。昨年韓国を訪問してみて分かったことは、彼らの祈りは、まず量において卓越していました。彼らの祈りは長いのです。講壇でなされる牧会祈祷も、韓国人牧師と、日本人やアメリカ人牧師の間には、まず長さにおいて差があると思いました。ですからあなた方が、何か心に願うことがあるなら、『主』に向かって、普段より長い祈りをしてみようではありませんか。

  三番目に、私たちは祈る時、心を注ぎ出して祈りましょう。ハンナはエリに言いました、「いいえ、わが主よ。わたしは不幸な女です。ぶどう酒も濃い酒も飲んだのではありません。ただ主の前に心を注ぎ出していたのです15節)」と。

   実は四月の最後の週、私は国際断食祈祷聖会に出席しました。この時、一人の若い韓国人牧師が韓国語で祈りました。私は、残念ながら韓国語が分かりませんので、何が祈られたのかは分かりませんでした。けれども、彼が祈っている間、その熱烈な祈りに、私は畏怖の念を禁じえませんでした。彼は本当に、心を注ぎ出して祈っていたのです。

  詩篇55:17に「夕べに、あしたに、真昼にわたしが嘆きうめけば、主はわたしの声を聞かれます」というみ言葉があります。この御言葉は、私が日本の聖書学校時代、励まされたみ言葉ですが、これはコンスタントな祈りを教えると同時に、心を注ぎだして祈ることも教えています。ことに、「嘆きうめけば」というところが好きです。そうでしょう? 私達が何かを心底から願うなら、自然と祈りはうめきに変わります。ですから心を注ぎだして祈ろうではありませんか?

  さて、それではそのように祈った時、神はいかに応答してくださるでしょう? まずハンナは平安を与えられました。エリが「安心して行きなさい。どうかイスラエルの神があなたの求める願いを聞きとどけられるように17節)」と言った時、ハンナの「顔は、もはや悲しげではなくなった(18節)」と書いてあります。ハンナは平安を得たのです。

  私達はよくこういう経験をします。つまり祈る前は、悲しみや不安が一杯でした。けれども祈ったあと、主が平安を与えて下さった、という経験です。神はまず、私達に平安を与えて下さいます。もう悩み、悲しむ必要がなくなるのです。

  しかし主が与えて下さるのは単に平安だけでしょうか。ハンナの祈りは、子供が与えられるように、というものだったのです。神は悩みを平安に変え、さらにその祈りを現実のものへと変えてくださるのです。それはハンナにとっては、子供が与えられるということでした。

  こうして生まれたのが、サムエルでした。ヘブル語で「シェム」と言うのは「名」という意味で、「エル」は神をさします。これが「シェムエル」で、「サムエル」なのであります。この、神の声があまり聞かれなかった時代に(3:1)、この偉大な預言者の名が、「神の名」と言うのは、まことに相応しいことでした。ハンナは、「わが君よ、あなたは生きておられます。わたしは、かつてここに立って、あなたの前で、主に祈った女です。この子を与えてくださいと、わたしは祈りましたが、主はわたしの求めた願いを聞きとどけられました」と言いました。

  神はあなたの祈りに、現実的に応えて下さいます。人類にとって、大きな悲しみは何でしょう。子供がないことも悲しみでしょう。病も、飢えも悲しみです。けれどもやはり大きな悲しみの一つは、罪であります。罪は、神と人との間に絶対的な隔たりをおきます。罪は憎しみのもと、病のもとです。神は、この人間のうめきに応えてくださっています。イザヤ9:2に有名な一節があります。「暗やみの中に歩んでいた民は大いなる光を見た。暗黒の地に住んでいた人々の上に光が照った」です。罪に満ちた暗闇の世界にも、光が照るのです。

  イエス様も、奇跡的に、しかし、神の摂理のうちにこの世に生まれて下さいました。「世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1:29)」として生まれてくださったのです。罪は人間を悲しみに陥れます。罪は人間に、病や、死の恐怖に陥れます。けれども私達が、主なる神に、イエス様の名によって祈る時、平安が与えられるのです。この主に、イエス様の名によって祈る時、悩みは拭い去られ、病は癒やされるのです。

  ですからあなたも是非、主に、イエス様の名によって祈ってみてください。何か大きな悩みがあったら、いつもより長く祈ってください。祈る時は、心を注ぎだして祈って下さい。神はあなたの祈りに応えて下さいます。

  祈りましょう。