2006年5月21日

  『あなたは忘れられていない』 イザヤ49:13−16

49:13 天よ。喜び歌え。地よ。楽しめ。山々よ。喜びの歌声をあげよ。主がご自分の民を慰め、その悩める者をあわれまれるからだ。

49:14 しかし、シオンは言った。「主は私を見捨てた。主は私を忘れた。」と。

49:15 「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない。

49:16 見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある。

49:17 あなたの子どもたちは急いで来る。あなたを滅ぼし、あなたを廃墟とした者は、あなたのところから出て行く。

このイザヤの時代を溯ること約800年、イスラエル民族は出エジプトを果しましたは。彼らにとって、出エジプトと言うのは、非常に大きな出来事でした。これはどういうことかと申しますと、400年以上にわたってエジプトに奴隷となっていたイスラエル民族が、モーセと言う指導者を立てて民族こぞってエジプトを脱出したことであります。ただ出エジプト記20章には「「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、主である」とあるように、実際に出エジプトをさせてくださったのは見えないけれども、確かにおられた神であること、またこの出エジプトが、単に物理的な奴隷状態からの解放に留まらず、新約ではユダ書1:5が「あなたがたは、すべてのことをすっかり知っているにしても、私はあなたがたに思い出させたいことがあるのです。それは主が、民をエジプトの地から救い出し、次に、信じない人々を滅ぼされたということです」と言うように、「信じない」という罪からの救いを象徴する、極めて霊的な出来事であったわけです。

このイザヤ書の著書について私は、保守的な学者の多くと共に、BC700年代にイザヤによって記されたと考えています。イザヤ書にはバビロン捕囚に関する預言があります。バビロンというのは、現在のイラク南部の町で、当時は新バビロニア帝国の時代でした。バビロン捕囚というのは、このバビロンのネブカデネザルという王様によって、BC586年にエルサレムが陥落して、エルサレムの主だった人々がバビロンに捕らえ移され、その後BC536年頃に帰還を許され、エルサレムに神殿を建てるようになるまでの約50年間を言います。現在イランは、核の濃縮をやっており、世界から危険な国として注目されていますが、この当時ペルシャと呼ばれたこの国の王クロスは、イスラエル人民にとっては救世主で、バビロンを蹴散らし、帰還を赦してくれた人でした。

そういうわけでこのバビロン捕囚とそこからの帰還を、第二の出エジプトとか、新出エジプトなどと呼んでおります。

こういう風に、希望に満ちた話ですが、実際はそう簡単ではなかったのです。それはこれが預言であるからです。

神は事実、仮に母親がその子を忘れることがあっても、覚えていてくださるのだから、私たちは、忘れられていないという、信仰を持つべきであります。

まず第一に考えたいのは、人は嘆き、諦めたくなるような状況があるということです。14節では「しかしシオンは言った。『主は私を見捨てた。主は私を忘れた。』と」とあります。

この預言のなされた時代には、こういう状況はまだないのですが、イザヤ書には、やがて起こるエルサレムの滅亡、捕囚の苦難などが預言されています。「なんでこうなるの?」という流行語がありましたが、繰り返し、繰り返し、苦労が続きますと、もう人生嫌になってしまうということが考えられます。

イスラエルという民族は、この時にいたるまで苦労の連続でした。北にはアッシリヤがいました。北といっても、当時のアッシリヤの勢力は、殆どイスラエルを取り囲むような形の北東を抑える勢力でしたから、それは不安でした。西は地中海で逃げられず、南にはエジプトがいました。つまり八方ふさがりだったわけです。ですから、この場合の南ユダ王国は、アッシリヤに付くか、エジプトに付くか、隣国の弱小国と同盟をはかるか、中立を計るかだったでしょう。北イスラエル王国は、アッシリヤに付いたのですが、それは結局滅ぼされるという結果に終るのです。取りあえず、手近なところで、なんでも解決策を図っていますが、根本が悪いのですね。

私は癒しのミニストリーというものを過少評価する者ではありませんが、あそこで癒される人たちの中で、その背後に働いておられる神をしっかりと認め、以後その神に対する信仰を持って歩む人の場合はいいのですが、時々、「癒された。ああ嬉しいな、嬉しいな」で、あとは全く信仰からおさらばという人もいるようです。これが、根本が悪いですね。

今でも通りで時々物乞いを見かけます。「Need some money for today’s bread. God Bless You」などと買いたプラカードを掲げてやっている人を見ると、私も時々動かされることがあります。そして事実お金をあげたこともあります。ただどういう訳か、私の出会った人たちは、絶対「Thank you」と言わなかったですね。それで、最近はもう殆ど、お金をあげることはしません。そうしたら、最近になってフィッシャーマンズ・ワーフでは、図々しくも「Why should I tell a lie? Give me some money for liquor.」と言うプラカードを掲げている人を見ました。「調子にのるんじゃないよ」と言いたいですよね。お金を上げることは、一時的な解決にはなりますが、根本的な解決ではありませんね。そして、また前と同じ生活になって行きます。

残念なことに、教会に来ているクリスチャンと言われる人たちでも、こういうパターンの人たちがおります。どうにも厳しい現状から立ち直れないという人たちがおります。そして「やっぱり私は生まれた星が悪い」「運が悪い」などと言います。ある人達は、この状態を「悲哀に満ちた嘆きの固執」と言います。その人が「私は運が悪い」「ついてない」「私なんて、だれもかまってくれやしない」と思い出すと、これは言ってみればその人の信仰とか信念みたいになりまして、そういう悪い状況に固執するわけです。

そこで二番目に覚えたいのは、そうではなく、あなたは忘れられてはいない、それは裏を返せば覚えられているということです。

テキストは、「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」と言います。

この聖句の前後をつなぐのに「たとい」という仮定条件のために使う副詞があります。その仮定条件というのは、私の少年の頃の記憶では、すなわち戦前に生まれた母親ならば、「まずほぼ自分の子供を忘れることはない」という感触でした。しかし近年は、この個所は「女は自分の乳飲み子をさえ忘れる。自分の胎の子をさえあわれまない。しかしながら、・・・・」と言う接続詞に変えた方がフィットするようにさえ感じられる様子を呈しています。エアコンの効いたパチンコ屋でパチンコに狂っていて、子供が炎天下の車の中で脱水症状で死亡とか、鍵をかけた部屋に子供を寝かせておいて、自分はショッピングに行っている間に、火事になって子供が焼け死んだとか・・・・最近は子供が母親から忘れられるケースが増えました。また、泣いたから叩いたら、死んでしまったとか、別の男との間に、この子がいると邪魔だから殺してしまったとか、信じがたいニュースが飛び込んできます。

こういう悪意ではなくとも、あるいは間抜けではなくとも、一瞬目を離したすきに、とりかえしのつかない事故になったという不幸なケースも考えられましょう。これは気の毒ですね。しかし、人間の世界では、絶対ということはありません。ところが神の場合は、絶対に忘れられていない、つまり覚えられているということです。

詩篇121篇は、「私は山に向かって目を上げる。私の助けは、どこから来るのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る。主はあなたの足をよろけさせず、あなたを守る方は、まどろむこともない。見よ。イスラエルを守る方は、まどろむこともなく、眠ることもない」と歌います。あなたはまどろむことも、眠ることもない方によって守られているのです。

「忘れられていない」ということは大きな力です。私は日本にまいりますと、細くとも長く応援してくださいとお願いします。覚えていてほしいからですね。十年ぶり位で会って、「先生、祈っていましたよ」などと言われることもありますが、あんまり祈られていたという思いはしません。しかしたとえ、それが日本的に言うなら、盆暮の挨拶とともに、「祈っていましたよ」ですと、「忘れわれていなかった」という強い励ましになりますね。ことに、献金とともにそう言われるなら、涙がこぼれます。ですから、私達は宣教師のために献金しているのです。ダビデ・ハイムズとか、ジョイス・北野、普段会わないこういう宣教師達は、忘れられるということが、致命的になりますね。いくばくかでも献金していれば、必ず祈ります。

神の民のイスラエル民族が、「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」などと言うのはどうしてでしょうか?「主」という神の名を使っているところを見ても、彼らが神の民であることを意識しているように思います。それにも拘らず、こういう言葉が出るのは、結局信仰がないのでありましょう。

北イスラエルは、アッシリヤに媚って結局滅ぼされてしましました。それに対して南ユダは、イザヤの主張によれば中立でした。これは全能の主が味方であれば、決して負けないはずでありました。ところがその主に信頼しないのでありますから、中立が裏目に出て、バビロンに滅ぼされてしまうのです。

ですから、最後に知っておいてもらいたいことは、信じて生きる、つまり必ず全能の主、創造者なる主に、覚えられているという信仰の生活が、大切だということであります。

テキストには、「見よ。わたしは手のひらにあなたを刻んだ。あなたの城壁は、いつもわたしの前にある」とあります。キリスト教信仰は、「鰯の頭も信心から」といった、「何でもいいから信じなさい」的なものではなく、信ずべき対象に確証があります。

傘マークでその柄の両方に、自分の名前と好きな人の名前をかいて、ニッコリしたことありませんか?

例えば、「彼は私のこと好きなのかしら」と不安に思っている女生徒がいたとします。ある時、学校の彼の机の上に、彼が忘れたのかしら、何気なく彼のノートがおいてありました。ちょっとドキドキしながら、その最初のページを開いてみました。すると小さな傘マークがあって、彼の名前と自分の名前が並んでいました。その下に「xxちゃん好き」と書いてありました。彼女は、胸がキューンと締め付けられるような幸せを感じました。(最近は、こういう淡い恋愛はないかなあ。)

雅歌8章に、「私を封印のようにあなたの心臓の上に、封印のようにあなたの腕につけてください。愛は死のように強く、ねたみはよみのように激しいからです。その炎は火の炎、すさまじい炎です」という、恋愛の個所があります。神はあなたの名前を「手のひらに刻んだ」といわれるのです。神の、人に対する愛はそれほどまでに、激しく強いのです。

ところが、イスラエル民族は、「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」などと言っています。勿論旧約の時代は、神ご自身が目に見える形ではおいでになりませんでしたが、新約の時代は、はっきり見える形でこの世に来てくださった神がおいでになるのです。そしてその神については、「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。神に選ばれた人々を訴えるのはだれですか。神が義と認めてくださるのです。罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです(ローマ8章)」と聖書は教えているのです。つまりイエス様を通して、恵はすべて流れてくるのです。

ですから、新約のこの時代には、このイエス様に対する信仰を持つことです。このイエス様は、「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい。信じない者にならないで、信じる者になりなさい」と言われたお方です。

あなたが忘れられているわけがありません。グチュグチュと「主は私を見捨てた。主は私を忘れた」などと言うのは止めましょう。主は、「女が自分の乳飲み子を忘れようか。自分の胎の子をあわれまないだろうか。たとい、女たちが忘れても、このわたしはあなたを忘れない」と言われます。すべての勝利と、すべての慰め、すべての勇気と、すべての希望が、この覚えていてくださる主にあるのです。私たちが取りうる道は、この主が確かにそういうお方だという信仰を持って、彼に恐れなく近づくことです。

祈りましょう。