2006年5月28日
『さめよ、さめよ』 イザヤ51:1-11
51:1 義を追い求める者、主を尋ね求める者よ。わたしに聞け。あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。
51:2 あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを。
51:3 まことに主はシオンを慰め、そのすべての廃墟を慰めて、その荒野をエデンのようにし、その砂漠を主の園のようにする。そこには楽しみと喜び、感謝と歌声とがある。
51:4 わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め、国々の民の光とする。
51:5 わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている。わたしの腕は国々の民をさばく。島々はわたしを待ち望み、わたしの腕に拠り頼む。
51:6 目を天に上げよ。また下の地を見よ。天は煙のように散りうせ、地も衣のように古びて、その上に住む者は、ぶよのように死ぬ。しかし、わたしの救いはとこしえに続き、わたしの義はくじけないからだ。
51:7 義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな。
51:8 しみが彼らを衣のように食い尽くし、虫が彼らを羊毛のように食い尽くす。しかし、わたしの義はとこしえに続き、わたしの救いは代々にわたるからだ。
51:9 さめよ。さめよ。力をまとえ。主の御腕よ。さめよ。昔の日、いにしえの代のように。ラハブを切り刻み、竜を刺し殺したのは、あなたではないか。
51:10 海と大いなる淵の水を干上がらせ、海の底に道を設けて、贖われた人々を通らせたのは、あなたではないか。
51:11 主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る。
今朝の説教のタイトルは、『さめよ、さめよ』としましたが、これはどちらかと言うと悪いタイトルの見本の一つだと思います。(一体、どういうことかなあ)と皆さんが思う、そういう効果を狙ったものです。ただ、アメリカに住んでいる皆さんは、英語の聖書のように『Wake up, Wake up』とか、『Awake,awake』言ったら、ただちにその意味するところは分かると思います。私たちの新改訳のテキストの9節を見てください、まさにその悪い見本の通り、「さめよ、さめよ」なのであります。これは口語訳でも同じで、やっと新共同訳の「奮い立て、奮い立て」で、意図するところが分かります。口語訳、新改訳とも私の評価では、これは悪訳の見本とも言えるもので、「さめよ、さめよ」では、誰かが「シャークが来たぞ」と叫んでいるようにも思えます。私が訳するなら、「覚めよ、覚めよ」と漢字にするでしょうし、むしろ「目」を補って「目覚めよ、目覚めよ」とするでしょう。何故なら、「覚めよ」といういい方は、あまり一般的な感じがしないからです。
さて、翻訳のことはそれくらいにして、ここでは再び理想のイスラエル人民への慰めのメッセージが伝えられます。皆さん信仰者としての自分を、イスラエル人民になぞらえて考えたことがあるでしょうか。果たしてこれまで信仰者として、一瞬の迷いや疑いもなく忠実であったかどうか・・・・。むしろ、しばしば疑い、しばしば背を向けた歩みではなかったかということです。「やっぱり私ってだめね」と思ったり、どうも信仰に対して弱腰で、すぐに世の中に染まってしまいがちになるということがありませんか。しかし、あなたは選ばれた民なのです。
イスラエル民族は、全員が決定的に主から離れてしまうということはありませんでしたが、全体的に信仰が低調な時がしばしばありました。ただ、やはりこの民は選ばれた民でした。選ばれた者達は、最終的には義と認められ、救われるというのです。
神は選ばれた者を、必ず義とし救われます。ですからこの『救い』のために、現在の困難に負けずに、信仰というものに目を覚ますべきであります。
最近、数学者の藤原正彦氏の書かれた『国家の品格』という本がベストセラーだそうで、私も読みました。その中に、カルヴァンの『キリスト教綱要』のことが取り上げられていて、「予定説」ということを彼なりに解説していますが、これはもう未信者のサイドから見たキリスト教観であって、苦笑せざるをえないのですね。大体、神が分からない方たちに、(あるいは、神を認めない人たちと言ったほうがいいでしょうか) 聖書の『救い』の教理を正当に解釈できようがありません。
論理の上からの話ですが、誰が『救い』に選ばれ、誰が滅びに選ばれているかは、全知の主は御存知であります。しかし、人間の側では、誰が選ばれ、誰が滅ぶかなどは絶対に分かりませんから、御言葉の約束を信じる信仰が大切なのであります。
ですからまず覚えたいのは、人間のサイドでは分からないのですが、論理としては選ばれている人がいるということです。これは聖書から、知ることであります。
テキストの、「あなたがたの切り出された岩、掘り出された穴を見よ。あなたがたの父アブラハムと、あなたがたを産んだサラのことを考えてみよ。わたしが彼ひとりを呼び出し、わたしが彼を祝福し、彼の子孫をふやしたことを」を考えてもわかります。
何故、イスラエル民族だけが特別な神の民なのか?これは人間的に考えれば不公平です。しかしテキストは「切り出された岩」と言っていますから、沢山の中の、あるいは大きな岩のある一部分でしょう。「掘り出された穴」というのですから、これも特定の部位をさしています。テキストはご丁寧に、「わたしが彼ひとりを呼び出し」と言っています。これが選びでなくてなんでしょう。「なぜアブラハムが呼ばれたのか、あるいはイスラエルが選ばれたのか」という問いに対しては、主権をお持ちの神がなさったことですとお答えする以外にありません。未信者は信仰がないので、「主権をお持ちの神」の意味が分かりませんから、予定論にしても、その「予定」という言葉尻を捕まえて批判するのです。
ただイスラエル民族は、自分達が神の選ばれた民であるという自覚に乏しかったのでしょう。ましてや我々肉によるイスラエル民族とは関係ない者たちにとっては、自分達が選ばれているなどということは、信仰以外で理解することは難しいでしょう。しかしその信仰こそが、鍵なのです。パウロは、「信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい(ガラテヤ3:7)」と言いますから、選ばれていることは、信仰によって受けとめることであります。
ただ私は思うのですが、少なくともカリフォルニアの星教会に来て、洗礼を受けたということは、確信の程度こそあれ、なんらかの信仰があったと思うのです。カリフォルニアの星教会では、信仰告白をしてから洗礼を授けているからです。また教会へ来るというだけでも、それは選ばれている一つのしるしだと思います。サンホゼに百万からの人がいて、おそらく10%も礼拝に出ている人はいないでしょう。皆さん方は、その10%以下の人たちの選ばれた一人なのです。
日本人にとって、洗礼を受けるということは、欧米人より覚悟がいるのではないかと思うからです。ですから、洗礼を受けたとか、教会にやって来たということは、すでに選ばれていると言う兆しがみえるのです。私の好きな作家に遠藤周作氏がいますが、伊達藩の支倉常長を扱った『侍』というのは、非常に興味深かったです。藩のためだということで、本当は信じていないのですが洗礼を受けます。長い旅から戻った時には、キリシタン禁制になっておりました。洗礼を受けたのが無駄だったと分かって落胆します。しかしこの本の解説には、侍の子孫が、禁制のキリシタンの習慣を持っていたことが記されています。「選び」ということが、素晴らしい祝福をもたらすのです。
洗礼を受けるということは、欧米人と違って日本人の場合、なかなか大きな決断だと思います。これを受ける人は本当に選ばれた人に思えます。日曜日に礼拝に集うということでも、これはなかなか出来ませんね。勿論、よく言われますが日米では霊的な雰囲気が違いますから、日本に帰ると教会に行かなくなって、信仰とおさらばするという人もおります。けれども最終的に、どの人が救われどの人が滅びるかなどということは、神のみぞ知ることであって、もしかして今は、すっかり世の中に染まっていても、晩年になって若い頃洗礼を受けたことを思い出して、主に帰ってくることもありましょう。イスラエル民族でも、民族としては、この頃はそう忠実ではなかったのです。ただ神の書、聖書では彼らは選ばれた民であったと約束されているのです。
それではどうやって、分かりもしない、選ばれている人々を義となさるのでしょう。第二に覚えていただきたいことは、御言葉に聞くという信仰のことです。
テキストは、「わたしの民よ。わたしに心を留めよ。わたしの国民よ。わたしに耳を傾けよ。おしえはわたしから出、わたしはわたしの公義を定め、国々の民の光とする」と言います。
この個所は日本語訳でみても、随分「わたし」が多い個所であります。勿論ここで、「わたし」と言われているお方は、「神」であります。今日でもそうですが、日本人の間では神に従う、神の言葉に聞くなどと言うと、ちょっとバカにされることがあると思います。バカにされないまでも、「相当のめりこんで、・・・あんまり深入りしないほうがいいのに」と思われる方が多いのではないかと思います。すでに今から2700年も前に、イザヤは信仰による選ばれた人々に「義を知る者、心にわたしのおしえを持つ民よ。わたしに聞け。人のそしりを恐れるな。彼らのののしりにくじけるな」と励ましを送っています。
キリスト教信仰は、「鰯の頭も信心から」と言った、訳の分からないものに対する信仰ではありません。キリスト教は権威のある経典を持っていると言う点で、標準的な経典のない日本の宗教とは違います。言葉に対する信仰です。近年は、日本のホテルでは、聖書と共に仏教経典という本がおいてありますが、突然出てきたあの本には権威があるようには思えません。それに対し、聖書の言葉と言うのは、ただの言葉ではなく、新約では肉体となった神であります。(ヨハネ1:1,14)
5節では、「わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている」とあるように、これは神が近いという意味であり、苦労しているかに見える人々に対して、すでに『救い』は出ていると言うのです。
そこで最後に知ってもらいたいことが、「さめよ、さめよ」であります。御言葉の信仰に目覚めることです。選ばれた人々には、まだ命があるのですが、どうも眠っているかのようですね。
近年、中国が随分力をつけてきました。アメリカに来る物資も随分中国製品が来ています。しかしあの国は、19世紀後半から20世紀前半にかけては、「眠れる獅子」と呼ばれていた国でした。近年、すっかり目覚めたようです。
クリスチャンと呼ばれているだけの人、かつては信じた人、いわゆるバック・スライダーですね、こういう人たちにつける薬は、もう一度、御言葉に対する信仰、そしてその御言葉なる方が、すぐ近くにおられ、それまでの不信の罪から救って下さるということを、繰り返し、伝えるのみです。そして、「さめよ、さめよ、目覚めよ、目覚めよ、奮い立て、奮い立て、喚起せよ、喚起せよ」と、声を大にして、励ますことでしょう。これ以下でも、これ以上でもありません。
先日友人Yさんから電話で、日本にはウツ病、ならびにその予備軍が総人口の90%もいるということを聞きました。その90%という夥しい数はともかく、私の場合は、ウツ病にはならない性格なのですね。(笑) あるウツ傾向にあった方が、羨ましそうに「石原先生は120歳まで生きられるでしょう」と言いました。どうも、私が、あんまりクヨクヨしないタイプに見えたみたいです。120歳というのはともかく、長生きしている人の話を聞くと、まず「腹八分目の食事」とともに、確かに「クヨクヨしないこと」を挙げますね。
信仰も持つことというのは、クヨクヨしないのです。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)」で、「ハイ」とストレートに信じたらいのです。それを、「でもやっぱり、ああじゃないか、こうじゃないか」と考えすぎるので、気が重くなってウツ病にもなるのではないかと思います。(笑)
まあ私も、これまでの伝道生涯では、いろいろ失敗もありましたが、私の特技は「クヨクヨしない」ですね。私のやり方に、これまで腹を立てた人もいたと思いますが、私の側では二、三週間過ぎれば、「やあ、元気ですか?」と、まるで何もなかったかのようにお付き合いできる心持ちなのです。いつまでもウジャウジャ考え込むタイプの人は気の毒ですね。ですから、あんまり自分で考え込まないで、「イエス様、委ねます」という信仰に目覚めることです。
パウロはエペソ人への手紙の3章で、次のように祈ります。「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように」と。これは、彼らの内なる人が弱かったのです。内なる人が弱いと、なかなかキリストの愛の「広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力」が持てないのですね。
いつの時代でも、選ばれていても、鈍い人、弱い人、悩む人、疑う人がおります。しかし、テキストは、「主に贖われた者たちは帰って来る。彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、その頭にはとこしえの喜びをいただく。楽しみと喜びがついて来、悲しみと嘆きとは逃げ去る」というのです。
どうぞ、目を覚ましてください。御言葉に信仰をもってください。あなたは洗礼を受けた人でしょう? あるいは教会に来ている人でしょう? 少なくとも、どういうきっかけからか、この説教を読んでいる人でしょう? 選ばれた人にちがいありません。自分は選ばれているという信仰をもってください。「わたしの義は近い。わたしの救いはすでに出ている」と言われる主がおられるのです。この方に目覚めるとき、必ず現在の苦難から開放され、素晴らしい未来が開けます。
祈りましょう。