2006年5月7日

  『ジョーク、いいえ真理です』 イザヤ55:1−8

55:1 ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え。

55:2 なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ。そうすれば、あなたがたは脂肪で元気づこう。

55:3 耳を傾け、わたしのところに出て来い。聞け。そうすれば、あなたがたは生きる。わたしはあなたがたととこしえの契約、ダビデへの変わらない愛の契約を結ぶ。

55:4 見よ。わたしは彼を諸国の民への証人とし、諸国の民の君主とし、司令官とした。

55:5 見よ。あなたの知らない国民をあなたが呼び寄せると、あなたを知らなかった国民が、あなたのところに走って来る。これは、あなたの神、主のため、また、あなたを輝かせたイスラエルの聖なる方のためである。

55:6 主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ。

55:7 悪者はおのれの道を捨て、不法者はおのれのはかりごとを捨て去れ。主に帰れ。そうすれば、主はあわれんでくださる。私たちの神に帰れ。豊かに赦してくださるから。

55:8 「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。・・主の御告げ。・・

 

預言者イザヤの生きた時代というのは、イエス今から2700年以上も前のことです。当時は、イスラエル王国は南北に分裂しており、彼はおもに南に向かって語る預言者でした。北はしばらくして、アッシリヤによって滅ぼされますし、南とてそんなノホホンとしていられるような状態ではありませんでした。ですから、イザヤ書の預言は、ことに前半はしばしば厳しく張りつめた緊張感を感じます。

ただ今朝のテキストは、後半55章が適すとで、そういう厳しい状況の中でも、ある種のジョークのようなメッセージが語られることがあるいうことを知らされます。

前の東京都知事の青島幸男さんという方については、皆さん方は都知事とか参議院議員としてしかご存じない方もあると思いますが、初期は、放送作家、作詞家としてもよく知られていました。あの方の作詞で、クレージー・キャッツというグループの歌で、『だまって俺について来い』という歌があります。(読者のために、引用しておきます。)

ぜにのないやつあ 俺んとこへ来い 俺もないけど 心配すんな 

みろよ 青い空 白い雲 そのうちなんとかなるだろう

 

彼女のないやつあ俺んとこへ来い 俺もないけど 心配すんな 

みろよ 波の果て 水平線 そのうちなんとかなるだろう

 

仕事のないやつあ俺んとこへ来い 俺もないけど 心配すんな 

みろよ 燃えている あかね雲 そのうちなんとかなるだろう

 

わかっとるね わかっとる わかっとる わかったら だまって俺について来い

 

ジョーク的としても、これをもしイエス様が言われたなら、すごい真理だと思いませんか。僕はこの歌が流行ったリアル・タイムに生きていましたが、青島さん作詞の歌ではどういうわけだかこの歌が一番好きでした。クレージー・キャッツの植木等さんが、「なるだろう」のところを、非常にふざけて歌うところも面白かったです。今から考えると、景気の悪いこの時期にこそ、この歌がリバイバルされ歌われたら、もう少し自殺する人なども減るのではないか(?)と思います。お金がなくて困っている人、なかなかお嫁さんや、未来のご主人に巡り合えなくて悩んでいる人、仕事にありつけず、フリーターとか契約社員にしかなれなくて不安な人、多いですね。

困難な時にもジョークのように思える真理があります。その真理は、あなたの困難を克服し、満たし、あるいは幸いを与えます。

まず最初に考えて頂きたいのは、イザヤの時代の困難さであります。彼が預言者として召命を受けたのは、ウジヤ王が死ぬちょっと前で、それから6章にもありますように、王が死んだ直後直接召命の体験を受けました。当時の南ユダ王国は、確かに経済と言う点では富み栄えていたようでした。人々の心は、見せかけの繁栄でつかれ、神から離れて不義、不信仰が横行しておりました。

6章でも分かるように、イザヤは何と人々が「心をかたくなにするメッセージ」を語らねばならなかったのです。人々はますます心を頑なにして、やがてはアッシリヤではなくバビロンによって滅ぼされていきました。

僕はこの気持ちがなんだか分かるような気がします。まあ、実は、罪人の世の中で優しい時代というのはありません。いつの世代でも、それなりにきついのです。僕のメッセージは、そういう時代に対して、ちょっときつい傾向があるかもしれません。というのは、預言者がこの世に妥協したら、もはや預言者ではないと思うからです。そういうわけでか、人々が心を頑なにしてあんまり教会に来ません(笑)。つまりこういう当時の南ユダ王国の様子は、実は今日のアメリカとか日本になぞらえることが出来ると思いませんか?ことに日本人は、なかなかイエス様のもとには来ません。悟りが遅いことでは、当時のイスラエル民族といい勝負です。しかし、霊がカラカラという人で満ち満ちています。いやはや大変な時代です。

最初にも言いましたようにイザヤ書も前半39章までは、全体として厳しいメッセージでも、実は後半40章からは、慰めが多いですね。そこで第二に覚えたいのは、そういう時代にあって、何がジョーク的かということです。まず、1節「ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。さあ、穀物を買って食べよ。さあ、金を払わないで、穀物を買い、代価を払わないで、ぶどう酒と乳を買え」とは、どういうことでしょう?金を払わないのです。それで「水、穀物、ぶどう酒と乳」を買えというのです。つまり無代価で買えということです。

水ひとつ考えただけでも、これは大変なことです。中近東では水は貴重で、牛乳や酒のように、売買されたものです。それを「無代価で買え」つまり、タダでもらって来いということです。

僕にとってはサンタナ・ローとか、ヴァーリー・フェアーは一番近くて、一番遠いショッピング・モールですが、あそこで手当たり次第、「サンキュー」と言って品物を持って来られたらこれは楽しいでしょうね。ですからこういう風に語るイザヤの呼びかけはまるでジョークのようです。

教会のファイナンスは、相変わらずの火の車ですから、ただ一言「サンキュー」で好きな物、大切なものが手に入るなら、これは本当に有り難いです。まあそういう経済状況でしたから、今年の結婚記念日はレストランに行きませんでした。しかしイザヤを通して主は、「なぜ、あなたがたは、食糧にもならない物のために金を払い、腹を満たさない物のために労するのか。わたしに聞き従い、良い物を食べよ」と言われているのに接しますと、何も豪華なレストランに行ってお金を払うことはないと思ってしまいます。そういうわけで、今年は、妻の手料理で結婚記念日のディナーを済ませたのですが、これがやはり何と言っても僕には一番おいしい、ステーキなディナーでした。

ジョーク的に聞こえるのは例えば、金のなくて渇いている者が、無代価で大切なものを手に入れられること、それが、ただ、「出てくること」と「聞き従うこと」だけで、可能になることです。

信仰生活というのは、私も知っていますが、タイプがありますね。ジョークがないタイプの信仰というのもあります。日曜学校でも、「日曜学校の約束は、朝夕神に祈りをし、父と母とに従って、たばこも吸わず、酒飲まず。ダンス映画に遠ざかり、人を愛してけんかせず、盗み、賭け事戒めて、いつもまことを口にする。それを守って世の中の子供と違う業をなし、よい事するは、イエス様の、喜びなさる御業です」と、現在でもそう歌って子供たちを教えている教会があります。私は、それが問題だとは申しませんが、ただ、随分堅い感じはしますね。

大人のクリスチャンでも、緊張しっぱなしでは、疲れてしまいます。クリスチャン生活も遊び心があると、楽しいと思います。イエス様は弟子たちに教える時に、しばしばたとえ話をされました。あれは一種のジョークですよ。大体例えば、「天の御国は、からし種(マタイ13章)」であるわけがないです、「のようなもの」という言い方の一種の遊び心で真理を教えておられるわけです。これをセミナリーの組織進学の授業のように「天国とは・・・」と教えられたのでは、息が詰まるし、肩がこります。

我々の教団は、どちらかと言えばきよめ派ですから、私の牧師仲間には非常にオカタイ方達がおいでになるのですね。それに比べて、僕らは夫婦揃ってクリスチャン家庭出身ではありませんし、元が庶民ですから、どうしても角が取れているのですね(取れすぎないことを祈りますが)。 僕たちに関して言えば夫婦円満のためにジョークや遊び心がよく使われますね。

大体キリスト教そのものは、世の中の人々から考えればジョークだらけですよ。処女が赤ちゃんを産んだとか、死んだ人がよみがえったとか。

そこで最後に知っていただきたいことは、僕らにとって一番大切なものは、ジョークのように聞こえますが、実は真理であり、実際にタダで与えられるものだということです。これが、新約聖書の福音の真理です。テキストでは受け取るために、「出てくること」と、その話に「聞き従う」ことを告げています。

イエス様は、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます(マタイ11:28)」と言われます。パウロは「もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われる(ローマ10:9)」と言います。これは、世の中の人にとっては、「ご冗談でしょう」になります。クリスチャンと呼ばれる人々にも、「祈っただけでは、オマンマは食えないでしょう?」とか、「祈っても、この節、車のガスは満タンにならないでしょう?(余談ですが、最近ガソリン価格は高いですね)」と言います。僕は、そういう人に、「ジョークだと思っても、その通りに信じて祈ってごらんなさい」と申し上げます。

大体、人の疲れは、実際に食べ物がない、ステキな人が現れない、仕事がない、と言った現実的なものから来ることが多いのです。これを現実的に解決するには、食べるためには、額に汗して働くのですが、体が弱くて働けない場合は余計に悩みます。ステキな人に会えない場合は、整形手術という手、相手がお金に弱そうなら、なんとかお金を儲ける、などなど、しかしなかなか思うようにはいかないので、悩みます。仕事を見つけるには、やはりいい学校を出ていないと、・・・・と思ってみても、実力がない、とか勉強が苦手という人はいるのですね。それで悩むのです。現実的ななやみに対して、現実的に、つまり全部タダで、受け取れるというのです。

1節に「ああ」とありますが、これはヘブル語では、「ホーイ」と言う強い喚起を示す言葉です。「ああ」より、「ホーイ」のほうが、「ホイ、ホイ」みたいで、ジョーク的ですね。

何故、現実的にタダなのかは、有名な53章の苦難の僕によって、代価が払われていると理解することが可能でしょう。(53:5,12)「しかし、彼は、私たちのそむきの罪のために刺し通され、私たちの咎のために砕かれた。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼の打ち傷によって、私たちはいやされた」 のです。

イエス様のところに、来てごらんなさい。なんでもタダにちがいありません。先日も家内と話しましたが、サンホゼの住宅事情を考えるとき、よくもまあ、こんなところにハーフ・エーカーもある会堂が与えられたものだと主を崇めました。

星野富弘さんにしても、三浦綾子さんにしても、普通なら絶対結婚相手が現れることはなかったでしょう。彼らがイエス様に聞き従った結果、結婚相手が現れたのです。しかもとびきり素敵な相手です。

私など仕事がないといって、苦労したことありません。生涯好きな仕事をしていけることはまったく感謝です。本当に、イエス様のところに出てきて、聞き従うことは、面白いです。

植木等さんの歌では、「みろよ青い空、白い雲」では上を見上げること、「みろよ波の果て、水平線」では、遠くを見ること、「みろよ燃えている、 あかね雲」では、その燃えるような色を見ることで、感動するのです。あなたが、見える現実の世界や目先のことに囚われず、上の、遠くの、またありきたりではないカラーのお方に感動し、出てきて聞き従う時、神はあなたの困難を全部タダで、克服し、満たし、あるいは幸いを与えて下さるのです。そしてその方は、実は遠くにおられるのではなく、あなたのそばにおいでになるのです。テキストは、「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに、呼び求めよ」と言います。

ジョーク?いいえ、真理です。

祈りましょう。