2006年5月7日
「いつでもどこでも礼拝者」
インターネットの発達は、クリスチャン間の情報交換を非常に活発にしました。インターネットのない頃は、自分の教会以外の情報は、クリスチャン系の新聞とか、雑誌とか、ほんとにわずかなソースでしか分かりませんでした。ところが現在では、多くの教会がホーム・ページを持っていますから、実に簡単にそういう情報が手に入ります。しかしそういう教会が発信する情報は、教会の不利な情報は流さないでしょうから、深いところまでは分からないでしょう。ところが、ハンドリング・ネームを使っての、つまり匿名の書き込みが出来るサイトでは、実に自由に、単刀直入な意見やら批判がなされますから、教会や牧師にとってこのましくないことを隠すということが非常に難しくなります。そういうサイトで、案外良く見かけるのが、「什一献金」とか、献金に関する小言、いいえ、小言などと言ったものではなく、辛辣な批判であります。こういう形での教会や牧師批判は、申告な影をおとし、礼拝者の教会への足を鈍らせます。もっとも、自分がどう批判されているか、ご存じない先生や、教会もありますが、それはそれで幸いでしょう。
私が信徒の時代は勿論、インターネットなどありませんでしたし、おそらく大体のペンテコステ派とか福音派の信徒訓練は、NCC派よりは徹底していましたから、割合としては、什一献金は多くの人々が普通にしていました。日本では30人も会員がいるなら、教会は自立できるのが普通でした。極端な話は、「什一献金する人が十人いたら、教会は自立できる」と言われたものです。つまり十人の什一献金者が献金して、一人の牧師をサポートできるということからです。しかし実際は、牧師の給料だけでなく、教会にはさまざまな維持費や、伝道費、拡大費が必要ですから、十人で賄えるということはないでしょう。
日米を比較するなら、什一献金者の割合は、断然日本の方が高いでしょう。礼拝席上献金をする人の割合だって、日本の方が断然高いでしょう。私はアメリカに来て、献金袋が回ってきて、そこに全然献金しなくてパスしたことはまずないと思います。ところが、アメリカでは、パスする人はかなりいます。日本の教会にお伝えしますが、アメリカで救われたクリスチャンは、礼拝献金をしないでパスする人がけっこういます。日本のクリスチャンの質も、昔より今はドライになったそうですが、礼拝献金をしない人の率は、断然アメリカの方が高いでしょう。日本ではなぜそれが少ないかと言うと、教会がそれを教えるからだと思います。日本では、洗礼を受け、陪餐会員になって、什一献金(教会によっては、月定献金とか維持献金という)が出来ないで、来るたびごとにコイン献金で済ますという人はまずいないでしょう。献金をしないクリスチャンには、日本の牧師は教えるでしょうね。教えるということは、「ああ、そうですか。一応お話はうかがいました」と聞いただけでは済まされないピュレッシャーがあるのです。もっとも、最近の日本の教会も、そういうきつい指導はしない教会もたまにあるようです。
アメリカで育ったクリスチャンは、こういうプレッシャーは大嫌いですね。そして、アメリカで救われたクリスチャンが日本に帰って、そういうプレッシャーを行った教会に感じるなら、もう行かないケースが多いでしょう。しかし、日本は大体がそういう教会だから、つまりどこにも行く教会がなくなってやめる、・・・・・案外こう言う理由で信仰を落とすアメリカ帰りのクリスチャンも多いのではないかと思います。
「あれやっちゃいけない」「これこれをすべきだ」という指導、日本はアメリカより多いと思います。アメリカから帰ったクリスチャンは、そういう日本の文化(やり方)も、吟味して聖書的なら聞く耳を持ちたいものです。アメリカの方法が、全部正しいというわけがあるはずないのですから。どうしても自分のやり方が聖書的だと思うなら、別の教会を探しなさい。けれども礼拝者をやめることはしないようにしましょう。
実は私は、初期の頃、献金について、まるで日本にいる時と同じように指導して、痛い目にあったことがあります。ですから、今は殆どの場合、「原則目標は収入の十分の一、しかし強いられてではなく信仰によって、いやいやではなく喜んで」と言うに留めております。しかし、事実これが一番聖書的だと思います。個人的には、受洗講座の時、一回は教えます。あとはまずありません。後に教えなければならない場合は、大体が献金が出来なくなった時ですから、その時に個人的に教えるなら、大方それはプレッシャーになるからです。アメリカで育ったのクリスチャンの多くは、なかなかそういう指導にはついていかれないと思います。
昔、日本でよく聞いたことに、「礼拝厳守」があります。これも気持ちは分かります。私自身は主日の教会を休んだことは、ミズーリで大雪の後、ものすごく寒い日があって、ボロカーのエンジンがかからず行かれなかった時一回だけだと思います。しかし新約時代の礼拝の時は、いつがいいということはありません。ウエストミンスター信仰告白21:6 によれば、時や場所には限定されません。どこでするからそれが優れているなどということはないのです。ですから、ある人たちが「教会は建物ではない。どこでだって礼拝できるから、会堂など必要ない」という主張はある面では真理でしょう。しかしこれは信仰者に対してであって、信仰のない人達はどう思うでしょう。教会とは、みすぼらしいところ、魅力のないところ、不便なところと思わないでしょうか?皆がいつまでも野原のテントの礼拝や、借家や、倉庫の礼拝を受け入れられるような信仰の人ばかりではないでしょう。つまり会堂を持つことは、自分達のためでもありますが、宣教のため、まだ信仰のない人達のためでもあります。我々も、よその教会を借りて、あるいは一般の家のリヴィング・ルームで礼拝を守ったことがあります。しかし、やはり今会堂があって、昔の礼拝場所が良かったとは決して思いません。
大体礼拝は、主の復活を記念して日曜の朝にもたれますが、これが特に優れているということは断じてありません。アメリカのエスニック教会は、よその教会を借りて礼拝を守ることが多いですから、アメリカ教会が礼拝をした後、つまり午後の礼拝が多いのです。アメリカ教会でも一度の礼拝に入りきれない場合は、何度にもわけてやります。日曜だけで足りない時は、土曜とか、金曜、あるいは月曜という礼拝のある教会を知っています。しかし礼拝を守り続けることは、大切です。
アメリカで救われた人たちに、ただ礼拝に来ないということで、日曜の朝の「礼拝厳守」などという言葉で迫ったら、かなりのクリスチャンが、「おめぇーんとこだけが教会じぇねぇよ」というわけで、その人は、簡単によそに行ってしまうでしょう。日本では、ひどいところになると、「日曜が休みじゃない仕事を選ぶべきではない」と指導する教会もあると聞きました。私も牧師ですから、そういう気持ちは分からないではありませんが、「それはムチャ」ということでしょう。現代人はキレやすく、忍耐が苦手な上、アメリカというお国柄、新生の体験が多少稀薄でも、洗礼を受けられるし、ほとんどなんの支障もなく礼拝に集うことができます。そういう環境でクリスチャンになった人が多いのです。「なんでも自由」が好きな国ですから、人々は強いられることがきらいなのですね。これを本当に「自由」と言っていいのかどうか分かりませんが、とにかくそういうことを、アメリカで救われたクリスチャンは学んでいるのです。
インターネットでは、日本の教会の体質を垣間見ることが出来ます。勿論、書き込んでいる人達のなかには、かなりの「くずれクリスチャン」もおりますから、アメリカから帰国するクリスチャンは、そういう人の話を、鵜呑みにしないほうがいいでしょう。ただ、どこに行っても、人に躓かず、いつでもどこでも礼拝者であってほしいと願います。また、日本の教会は、そういうクリスチャンを受け入れて欲しいと思います。