2006年6月4日

  『虚心坦懐』 ルカ4:14-30

4:14 イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた。すると、その評判が回り一帯に、くまなく広まった


 4:15 イエスは、彼らの会堂で教え、みなの人にあがめられた。

4:16 それから、イエスはご自分の育ったナザレに行き、いつものとおり安息日に会堂にはいり、朗読し
ようとして立たれた。

4:17 すると、預言者イザヤの書が手渡されたので、その書を開いて、こう書いてある所を見つけられた

4:18 「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注
がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるた
めに。しいたげられている人々を自由にし、

4:19 主の恵みの年を告げ知らせるために。」

4:20 イエスは書を巻き、係の者に渡してすわられた。会堂にいるみなの目がイエスに注がれた。

4:21 イエスは人々にこう言って話し始められた。「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いた
とおり実現しました。」

4:22 みなイエスをほめ、その口から出て来る恵みのことばに驚いた。そしてまた、「この人は、ヨセフの
子ではないか。」と彼らは言った。

4:23 イエスは言われた。「きっとあなたがたは、『医者よ。自分を直せ。』というたとえを引いて、カペナ
ウムで行なわれたと聞いていることを、あなたの郷里のここでもしてくれ、と言うでしょう。」

4:24 また、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓
迎されません。

4:25 わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大きき
んが起こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、

4:26 エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタにいたやもめ女にだけ遣わされたのです

4:27 また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がたくさんいたが、そのうちのだれもき
よめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました。」

4:28 これらのことを聞くと、会堂にいた人たちはみな、ひどく怒り、

4:29 立ち上がってイエスを町の外に追い出し、町が立っていた丘のがけのふちまで連れて行き、そこ
から投げ落とそうとした。

4:30 しかしイエスは、彼らの真中を通り抜けて、行ってしまわれた。

 

先週まで、イザヤ書から御言葉を開いて参りましたが、今週からしばらく、新約聖書ルカの福音書のイエスさま
のパブリック・ミニストリーを通しての個所から御言葉を聞いて参りましょう。

クリスチャンの持っている聖書の厚さをみて、日本の人は「そんな厚い本を読まなければならないのでは、私な
どとてもとてもキリスト教には不向きで・・・・」などとエクスキューズします。確かに殆ど教典らしい本のない仏教の
人たちにとっては、キリスト教は随分勉強が必要な宗教のように感じられるかもしれません。聖書が読めることは
素晴らしいことです。けれどもキリスト教の真髄と申しますか、聖書の真理を知るということは、必ずしも聖書が読
めなければならないと言うわけではないのです。また、沢山読んだからと言って、必ずしもその真髄が分かるとい
うわけでもないのです。結局、虚心坦懐、遜って考える、あるいは聞くという人々が分かるのです。

今朝のテキストはイエス様が、自分の故郷に行かれた時の出来事です。イエス様がお生まれになったのはユ
ダの地、ベツレヘムですが、そこでは誕生と、ほんの小さい頃の一時期を過ごされただけで、ヘロデ大王の危険
を避けてエジプトに逃れました。やがて幼子イエス様を狙うヘロデ大王が死んだので、生まれ故郷に帰れるかと
思ったのですが、まだアケラオというヘロデ大王の息子がいました。このアケラオは王の称号はありませんでした
が、父ヘロデのように非常に残忍な人でした。それで、夢で「ユダには戻るな」と戒められたので、ガリラヤのナザ
レと言う所に住んだのです。

ですからイエス様の場合、成長期はほとんどこのナザレでお過ごしになりました。つまりこの地方の人々は、だ
れでも大工ヨセフの息子イエス君を知っていたわけです。そして、成長なさってこのイエス君が、キリストとしての
仕事をするときが来たのです。ヨルダン川でヨハネから洗礼を受け、荒野で悪魔の試みを受け、ガリラヤ湖畔で
人々に説教し、病の者を御言葉の権威で癒されました。人々は驚きましたね。おそらくその評判は、ナザレまです
ぐに届いていたと思います。ナザレとガリラヤ湖畔までの距離は、20キロちょっとですから、少し足の丈夫な人な
ら半日で歩けます。

そういうわけで一番近くにいて、イエス様のことを一番よく知っているはずのナザレの人々が、イエス様がキリ
ストなら、一番早く祝福に与れるはずなのに、実はそうではないというのが今朝の話であります。

今朝の説教では、虚心坦懐、遜って考えてみたら、イエス様がキリストであると分かるということを覚えてくださ
い。ですから、今おかれている自分の立場、またこのイエス様の言葉、あるいは彼が何をなさったかを、虚心坦懐
、素直に考えて見てください。そうするなら、救い主イエス様を認めざるをえないはずです。その時にあなたにも変
化が現れるということを覚えましょう。

実は聖書学校を卒業して30年以上、サンホゼに来てからでも20年以上になるのですが、どうしてこんなに素晴
らしい福音に人々は気がつかないのだろうかと、本当に頭を抱えるのであります。あれがいいだろう、これがいい
だろうと、さまざまな形で福音を提示するのですが、どうも人々はなかなかイエス様がキリストであるということに
気付きません。端から、「ああ、キリスト教ね、関係ないわ」という感じの方が多いようです。

まず第一に考えたいのは、なぜキリストが私が考えるように、人々にとっても大切なのかということです。いえ
、「人々にとって」などという他人行儀な話ではなく、「あなたにとって」、つまりあなた自身にとっては、「私にとっ
て」大切かということです。

テキストでは、イエス様がイザヤ書を読んでおられます。「わたしの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい
人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだから。主はわたしを遣わされた。捕われ人には
赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために。しいたげられている人々を自由にし、主の恵みの年
を告げ知らせるために
v.18-19)」

言ってみれば、この年に恵みの年が始まりました。輝かしい年なのです。なにゆえ? このテキストには「わた
しの上に主の御霊がおられる。主が、貧しい人々に福音を伝えるようにと、わたしに油を注がれたのだか
」の、「油注がれた」人というのは、「メシヤ」で、ギリシャ語では「キリスト」「救い主」という意味です。そのキリ
ストは、「捕われ人には赦免を、盲人には目の開かれることを告げるために」来られたのです。

イザヤ書61章では「心の傷ついた者をいやすために、わたしを遣わされた」とあり、つまり内面が自由にさ
れるということであります。フィジカルな必要に対しても救い主、心の問題に関しても救い主であります。

虚心坦懐、こういう方がおいでになったということは、素晴らしいことだと思いませんか?若い人には。「虚心坦
懐」などという言葉は、分かりづらいかもしれませんのが、これは心になんのわだかまりもなく、というような意味
です。「そんな馬鹿な話があるものか」とか「そんな人がいるものか」と考えるのではなく、「そういうお方がおいで
になったら、確かに素晴らしいなあ」と思いませんかという意味です。

虚心坦懐ということを、自分自身にもあてはめて考えてみてください。「あなたの心は傷ついていませんか?」
ということです。おそらく、殆どの人々が、重荷を抱いている筈です。虚心坦懐に考えたら、私たちの周りには、胸
の痛むことだらけです。

そこで第二に考えて頂きたいのは、そうなら何故、人は、虚心坦懐に、「イエス様は素晴らしい」「そのキリスト
、救い主が必要です」と言えないのかということです。それは自分の考えの方が正しい、すなわち自分に対しても
、キリストに対しても、その思うところ、虚心坦懐、素直になれないからであります。

テキストでナザレの人々は「この人は、ヨセフの子ではないか」とイエス様を低く見たというか、軽く見ていま
す。虚心坦懐にイエス様のことを考えたら、決してそういう風に軽く考えられないはずです。すでにガリラヤ湖畔で
なされた癒しなどの奇跡の話は、伝わっていたでしょう。人々がキリストを必要としていたことは言うまでもありま
せん。しかし、ナザレの人々にとっては、「なんだあいつは、大工ヨセフの倅ではないか」という軽い気持ちだった
のでしょう。

皆さんでも同じです。誰もが虚心坦懐に、自分のことを探ってみれば、心の重荷を持っている筈です。

「何もありません」などと言う人々は、愛や憐れみの心のない人と言えましょう。だってそうでしょう、仮に自分で
は悩みがなくても、家族に病気で苦しんでいる人がいないか、貧しくて困っている人がいないか、・・・・これはもう
必ずどこかにあるに決まっています。仮に強弁を奮って、「ない」と言うとしても、それではそういう人たちは、イラ
クやアフガニスタン、あるいはアフリカの多くの子供達、最近また大地震のあったインドネシアの人々に対して胸
が痛まないでしょうか。あるいはもっと近くでは、北朝鮮に拉致されている人々に対して、胸が痛まないでしょうか。

  もし「全然痛まない、関係ない」という人がいたら、それは人間の罪を顕著に表している例でしょう、そういう人
たちは泣く者と共に、泣けないのですね。(ローマ12:15} この人間の姿を見ることも、本来の神の心がちょっとも
分かる人なら、悲しいのです。私たちの周りには、心の重荷が一杯です。そればかりではありません。そのため
にメシヤが来られたのですが、決して素直に「主よ、助けてください」と言えない、それはこの世の中の人々にとっ
ては、簡単には、イエス様が旧約聖書で預言されていたメシヤで、預言の通りに十字架にかけられたばかりでは
なく、死んで復活なさった神だということを受け入れたくない心が支配しているからです。これが、神に対抗すると
いう罪であります。

犯罪者が一番楽になるのは、自分のやったことを虚心坦懐に認めて、(法律に従って罪を認めるのではありま
せん。聖書と聖霊さまの光に照らして認めるという意味です。罪を犯しても黙っていれば分からないこともあるか
ら。)罪の償いをすることです。

「武士は食わねど高楊枝」が日本人の品格として優れていることもありましょうが、私たちは、「アバ。父よ」と呼
べるお方を持っているのですから、強情を張らずに、辛い時には、「辛いです」、困ってる時には、「困っています」
と虚心坦懐に主に申し上げましょう。イエス様は、キリスト、救い主なのですから。

ナザレの人々は、虚心坦懐にイエス様を認めることをしませんでした。するとどうなったのでしょう。これは最後
に覚えていただきたいことですが、それは変わらないということです。変わりたくない人は、自分を主張して、「あ
れは大工ヨセフの子ではないか」と思ったナザレの人々のように思ったらいいのです。しかし虚心坦懐、それが
あなたの願いでしょうか?

イエス様は、「まことに、あなたがたに告げます。預言者はだれでも、自分の郷里では歓迎されません。
わたしが言うのは真実のことです。エリヤの時代に、三年六か月の間天が閉じて、全国に大ききんが起
こったとき、イスラエルにもやもめは多くいたが、エリヤはだれのところにも遣わされず、シドンのサレプタ
にいたやもめ女にだけ遣わされたのです。また、預言者エリシャのときに、イスラエルには、らい病人がた
くさんいたが、そのうちのだれもきよめられないで、シリヤ人ナアマンだけがきよめられました
」と言われま
した。シドンにしても、シリヤにしても、これは異邦であります。これは、神は頑なな魂のところよりも、柔らかい素
直な魂のところに来られること、そしてそういう人たちを助け、癒されることを表しています。

イエス様はルカ18:16-17で、「子どもたちをわたしのところに来させなさい。止めてはいけません。神の国
は、このような者たちのものです。まことに、あなたがたに告げます。子どものように神の国を受け入れる
者でなければ、決してそこに、はいることはできません
」と言われました。普通、子供は、虚心坦懐、素直です
。普通子供は「素晴らしいものは素晴らしい」と、すぐに認めます。

20周年の記念誌にも記しましたが、I 君と言う高校生のことを忘れるおとはできません。彼は、ただサンホゼに
来たい、まずいモンテヴィスタ高校の寮の食事ではなく、充江先生の日本食が食べたいというだけで、来ていた
かに感じました。まったく私の説教などどうでもいいという感じがしました。ところがある時突然、I 君が、「先生、
僕も信じたら変われるでしょうか?」と尋ねてきたのです。私は「勿論」と言いました。そうしたら、「それでは僕も
信じます」と言うのです。聖霊様が働いてくださったという感動を、今でも思い起こすことができます。 自分自身
の性格が嫌だという人は、案外いますね。そういうことはあんまり口には出しませんが、虚心坦懐、考えてみると
、「変わりたい」と思う人はいると思います。聖書は、「だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造ら
れた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました
(2コリント5:17)」と言います。新しく造
り変えられるのです。キリストのもとに来て、キリストが内に住んでくださるなら、それが可能になります。

日本に帰ってから、I 君からは何年も連絡がありませんでしたが、私たちのホーム・ページを見て、連絡をくれ
ました。「あの頃は、先生、ごめんなさい」と言いました、今、六本木の某ホテルのカウンターで働いているそうで
す。 I 君は、確かにかわりました。

聖霊さまが、あなたを虚心坦懐にしてくださって、素直に自分の貧しさ、困難さ、醜さ、自我の強さを認め、イエ
スさまがキリスト、救い主であることを、認めることが出来るように祈ります。その時、あなたにも必ず変化がおと
ずれます。

祈りましょう。