2006年6月4日

「主にあって喜べ、さんびは直き者にふさわしい」(口語訳33:1)

あれは私がアメリカでの神学校に入ったころですから今から25年位昔の話です。ある日のチャペルで、あるゲ
スト・スピカーが話しました。私は当時、ヘンな話ですがペンテコステ派とかカリスマ派にアレルギー感情を抱い
ておりました。アッセンブリーというペンテコステ派の教団出身でしたが、全然ペンテコステ的ではありませんで
した。私がアメリカに来たのは、すっかりガタガタになってしまっていた自分の神学をもう一度建て直すためでし
た。そうする以外に、説教者としてはとてもやって行けそうにはなかったからです。そうして私が選んだ神学校
は米国長老教会(PCA)の神学校でした。当然この神学校はカルヴァン主義長老派ですから、ペンテコステ派
とか、カリスマ派に対しては非常に厳しい態度をとる人が多かったのです。けれども私は、自分がペンテコステの
教理に対して好感を持っていたわけではなかったので、その教理やプラクティスが批判されても、別に「コンチク
ショー」とも思いませんでした。

その日のゲスト・スピーカーは、あるカリスマ派の説教者のことを話しました。

・・・・・私たちの教会のメンバーが、ある州のお友達を訪ねました。その方には小さな女の子があったので
すが、最近交通事故でその子が亡くなったので、その友人のことが気がかりで訪問したのでした。お葬式が終っ
てまだ何日も経っていない時に、彼女の牧師が彼女を訪問したのです。彼女は、その州ではカリスマ派の教会
のメンバーだったのです。ところがその時、彼女のカリスマ派の牧師は1テサロニケ5章を開いて、「いつも喜ん
でいなさいと書いてあるでしょう。すべてのことに感謝しなさいとも書いてありますね。ですから、喜びましょう。感
謝しましょう」とやったそうです。どういう感覚なのでしょう?こういう状況の時に、こういう聖句を引っ張り出して、
カウンセリングするとは・・・・・・人の気持ちというものが分からないのでしょうか?理解に苦しむなどというより、
憤りさえ覚えます。・・・・・・・

ゲスト・スピーカーはどちらかと言うと興奮気味に話しました。それを聞いていた私と言えば、「アーメン。そ
の通りだ。常識がないよなあ、まったくそのカリスマ派の説教者は。自分もああいうところから離れて正解だった
」などとうなづいていました。私がまだ日本にいた時、実はこれに似たようなカリスマ派のお葬式の話を聞いたこ
とがありました。その時も、「まったく付き合いきれないよ」などと考えたことを思い出しました。

最近私の友人のK先生の34歳になる息子さんが事故で亡くなりました。リバイバル新聞を購読している方
は、誰のことかお分かりと思います。余りにも若い死でした。こういう場合、親は勿論、近親者ですら、「石原先生
、xxさんが召されました」などと、アメリカにまで知らせてくれることはまずないので、先日届いたリバイバル新聞
の2ヶ月遅れの記事でも、「新・聞」になりました。実は4月23日の時点でも、この情報を知りえたのですが、その
時私は日本に行っていて、つい情報を得るのが遅くなりました。リバ新の記事で「二輪ロード・レーサー」の下に
、「故」とあって、びっくりしました。まったく、どんな慰めの言葉も見つかりませんでした。

記事を読んでからずっとK先生ご夫妻のことを考えていて、表題の御言葉が浮かんできました。しかしこの
御言葉は、愛する子息を亡くした親に対しては、先の長老派のゲスト・スピーカーが話したように、あまりにも 
Not Timely な感じがします。「よろこべ」? 「さんび」? 「ふさわしい」?

しかし、今の私はいくつかの理由で、こういう聖書のアプライが出来ます。

先の長老派のゲスト・スピーカーの話も一理ありますが、このカリスマ派の牧師の語っていたことは、聖書
の御言葉であるということです。聖書の言葉であるなら、語ることは正解です。そして、「いつも喜んでいなさい
。・・・・・すべての事について、感謝しなさい
」と言うのは、そのカリスマ派の牧師の解釈の通りに理解すべき
であります。人間的に考えたらとても無神経に思えるかもしれません。しかし、それが聖書です。ヨブはああいう
状況になっても、「私は裸で母の胎から出て来た。また、裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られ
る。主の御名はほむべきかな
(ヨブ1:21)」と申しました。ヨブは我々と同じ生身の人間です(実在に人ではない
という説もあるが、私たちはこれがこのとおりにあったと信じます。) けれども超人的です。信仰によって人間は
超人的になれるのです。

確かに語り方とその御言葉を受け止める側のことを知る必要はありましょう。あの長老派の説教者は、子供
を亡くした母親の信仰については殆ど述べませんでした。もしかしたらこの子供を亡くした母親は、信仰を持って
、「いつも喜んでいなさい。・・・・・すべての事について、感謝しなさい」を受け止めることが出来た人だった
かもしれません。きっと「絶えず祈」ってもいたのでしょう。同様に、表題の御言葉にしても、確かに人間としては
、とても喜べないでしょう。しかし「主によって」と記されています。

   私は故人のご両親が、聖書の御言葉を信仰を持って受け止めえる方たちだと分かっていますから、あのカ
リスマ派の牧師が話したような、この世的には常識的でない聖書のアプライもしたいと思います。

さんびはナオキものにふさわしい。