2006年6月11日

  『人間をとる漁師』 ルカ5:1-11

5:1 群衆がイエスに押し迫るようにして神のことばを聞いたとき、イエスはゲネサレ湖の岸べに立っておられたが、

5:2 岸べに小舟が二そうあるのをご覧になった。漁師たちは、その舟から降りて網を洗っていた。

5:3 イエスは、そのうちの一つの、シモンの持ち舟にのり、陸から少し漕ぎ出すように頼まれた。そしてイエスはすわって、舟から群衆を教えられた。

5:4 話が終わると、シモンに、「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい。」と言われた。

5:5 するとシモンが答えて言った。「先生。私たちは、夜通し働きましたが、何一つとれませんでした。でもおことばどおり、網をおろしてみましょう。」

5:6 そして、そのとおりにすると、たくさんの魚がはいり、網は破れそうになった。

5:7 そこで別の舟にいた仲間の者たちに合図をして、助けに来てくれるように頼んだ。彼らがやって来て、そして魚を両方の舟いっぱいに上げたところ、二そうとも沈みそうになった。

5:8 これを見たシモン・ペテロは、イエスの足もとにひれ伏して、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから。」と言った。

5:9 それは、大漁のため、彼もいっしょにいたみなの者も、ひどく驚いたからである。

5:10 シモンの仲間であったゼベダイの子ヤコブやヨハネも同じであった。イエスはシモンにこう言われた。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです。」

5:11 彼らは、舟を陸に着けると、何もかも捨てて、イエスに従った。

 先週私が卒業したミズーリの神学校から、いつも受け取っている季刊誌が届きました。そこに私が学んだ説教学の先生の1987年に書かれた記事が掲載されていました。厳しい先生でしたが、とても懐かしくその記事を読みました。そこには、次のように記されています。

「使徒8章では、そこに非常に厳しい迫害があったことが記されています。何故これが起こったかは、それは人々の説教の故であります。それから、使徒以外は、全部散ってしまったのであります。そして外国にまで散った彼らがそれこそ世界中に説教したのであります。これは使徒たちではありません、信者の一団です。彼らの説教は今日説教者が高壇で話すような改まった形ではありませんでした。彼らのそれは、今日すべての敬虔なクリスチャンが携えている責任のある、というような類のものだったのです。私たちは非常に多くの場合、証詞をいたします。それは私たちの心の内に主がなさってくださったことに関する個人的な証詞でありましょう。これは大切なことであります。しかしこの使徒8章は、我々の前に、それ以上のことを提示しています。ここでクリスチャンたちは、キリストを通しての救いのみ業を告げております。ですから今日、すべてのクリスチャンは、福音と呼ばれる神からのメッセージを、明快にまた力を込めて、伝えていけるように備えるべきなのです。」 By Robert Rayburn, Covenant Vol.21, No. 2, p.3

私は最初、今朝のテキストから、召しに応じて献身者として、聖書学校に行って学ぶ者が起こるようにというアプローチで説教を準備しようとしました。私たちの日本の神学校は、近年、新しい校舎や寮が完成したのですが、学生が十数人しかいないそうです。ですから召しを受け、伝道者になる人がもっと必要だと感じて、そういう説教を考えたのです。しかしその説教の準備の間に、この記事を読んで、もう一度考えました、クリスチャンとは召された者ではないだろうか?それならば召された者の使命は何だろうと。

クリスチャンとはイエス様によって召し出された者たちです。すべての召しだされた者たちには、人を漁どるという使命があります。ですから、その召しにしたがって、何とかして福音を語るべきであります。

 人の罪が赦され、神の子とされ、永遠の命を頂くという、尊い福音は、驚くなかれ、罪人の手に委ねられているのです。テキストは有名な、ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネの、いわゆる漁師四人が召し出されたところであります。

まず、イエス様が「深みに漕ぎ出して、網をおろして魚をとりなさい」と言われています。ここでまず覚えていただきたいことの第一は、主がまず語りかけてくださるということです。

1ヨハネ4:19には「神がまず私たちを愛してくださったからです」とありますが、神の愛はいつも、神の側から提示されます。パウロはこの原則を実に明快に「私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます(ローマ5:8)」と説明しています。

誰としてまず自分から進んでイエス様を愛しましたなどと言える人はいません。誰かがイエス様のことを話したにちがいありません。「自分で聖書を読んだ」という人にしても、「それではその聖書はどういう風にして手に入れたのか」と問われるならどうでしょう?ギデオンという聖書を無料で配布する団体がありますが、あれは驚くべきミニストリーですね。 「自分で買った」という人もいるかも知れませんが、「誰があなたの言語で読めるようにしたのか」と問われたらどうでしょう?モンゴルで聖書翻訳をしている北村先生のために祈っていますが、日本語だって最初は宣教師たちの尽力で聖書が翻訳されたから、我々が読めるようになったのです。あなたがまずキリストから愛されたのです。主の方があなたに彼の愛を受けるようにチャレンジなさるのです。

二番目に知って頂きたいことは、誰がその愛を受けとる資格があったかということです。これはもう全く神の側の選びだということです。イエス様が死なれたのは確かに全人類のためですが、それを受け取れる人が誰でありかは、全く神の側の選びですね。あなたがイエス様を信じるように選ばれたということについては、ただ感謝しましょう。

ペテロとアンデレ、ヤコブとヨハネ、彼らはガリラヤ湖畔にいた漁師でした。最初にも申しましたように、人に教えるなどというためなら優秀な人かと思いきや、「無学な、普通の人(使徒4:13)」だったのです。また遊女もおりましたし、罪人という意味の取税人もおりました。もっともパウロは優秀でした。けれども、ポイントは、人が見て、(人が見てというところに強調点) 愛が必要そうに思える人でも、主の愛の選びの中に入らない人もいるのですね。これは主権なる神のみ業であります。

三番目に知って欲しいのは、主が出会ってくださると、人は主を知り、罪を知るということです。テキストでペテロは、魚が沢山捕れた時、「どうもありがとうございました。長年我々はここで漁をやっておりますが、こんな時間にこんなに大漁は初めてです。お見受けしたところ、漁については玄人さんには見えませんが、どうして大漁になったのでしょうねえ?」などとは言っておりません。彼は、「主よ。私のような者から離れてください。私は、罪深い人間ですから」と申しました。

ここでペテロが、「主よ」と呼んだことは、単に「御主人さま」と言った感じだけでなく、イエス様に「超人間」を感じたからでした。旧約へブル語のギリシャ語七十人訳では、「主」は、「神」と同等に用いられています。同時に、彼自身が「罪深い人間」だと分かったのでした。どんな潔癖な人でも神の聖の前では、罪人です。パウロは「義人はいない。ひとりもいない。悟りのある人はいない。神を求める人はいない。すべての人が迷い出て、みな、ともに無益な者となった」と言い、「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ」ないと言っています。(ローマ3章)

主が声をかけられ、その主を認める(主に出会う)人は、主に超人間を感じ、また自分の罪深さを知るでしょう。

四番目に知っていただきたいのは、罪を認めるということは、主のみ前に遜ることですから、主のみ声には平伏するということです。テキストでは主イエス様が、「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです」と言われています。マタイ伝のここの並行記事には、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう(マタイ4:18)」となっています。そして、ただちに従っているのです。ゴタゴタ言いません。私の場合は、まだ肉がありまして、召しの声を聞いた時に、すぐに立ち上がったというわけではありませんが、彼らは殆どただち従いました。

私の小さい頃は、学校の先生になるという時、「でも、しか先生」という言葉が使われました。「先生にでもなろうか」「先生にしかなれない」ということです。しかし彼らは教師としての使命感を持ってその仕事を選んだと思いますが、あの時代は教師の待遇が非常に悪かったからだと思います。けれども現在は、待遇の面でも、休みが多いという点でも、非常に素敵な仕事のようです。この漁師達は、主の弟子になることについて、「漁師より、いい暮らしが出来るだろう」と考えたでしょうか?今日では、学校の先生の場合「人の教育にあたる」という崇高な使命感でなる人もいるでしょうが、「安定している」「休みが多い」「待遇がいい」などという目的でなる人もかなりいるでしょう。私は牧師になると決心した時、「いわゆる、いい暮らしが出来る」ということは、すべて献げました。

召し出されるということは、そういう人間的な計算を一切排除します。「ああ、よかった、私は伝道者に召されなくて・・・」と考えないでください。このテキストで、どこに漁師達が伝道者として召されたと書いてあるでしょう。ある人たちは。「ついて来なさい」と言われて、ついて行きましたが、ある者はその場に残っていた人もいるのです。しかし彼らもまた、クリスチャンとして召された者、すなわち主のお言葉には、何でも従う者達でありました。

Assembly of God というのは、神のアッセンブリーの意味ですが、Assembly はギリシャ語のエクレシアから来ており、神に召し出された人々の集まりを意味します。中国語では神召会と言います。日本でも神召と名のつく教会は多数あります。

何故神は、人を召されるのでしょう?これが最後に覚えていただきたいことです。それは、世界宣教のためです。テキストは、「これから後、あなたは人間をとるようになるのです」と言います。最初にも申しました、「人の罪が赦され、神の子とされ、永遠の命を頂くという、尊い福音は、驚くなかれ、罪人の手に委ねられているのです」と。

  私のセミナリーの時の先生の文にもありましたが、信仰者は誰もがなんらかの形で福音を語るという使命を帯びていると考えるべきであります。それは単なる証詞以上であります。

  ・・・・・ここで単純な説教学の講義をしましょう。・・・・・

まず、仮にAさんが、「私には悩みがありました。でも『すべて重荷を負って・・・・』の御言葉を聞いて、私もイエス様に祈りました。そうしたら、スーっと重荷が軽くなったばかりか、嬉しさがこみ上げてきました。本当にイエス様がおられると分かりました。それでイエス様を信じました。ハレルヤ」と言ったとしましょう。これはお証詞です。ところがAさんが、そう言った原因が、Bさんの次の言葉にあったらどうでしょう。すなわち「ねえ、Aさん。あなたには悩みがあるんでしょう?聖書には『すべて重荷を負って苦労をしている者は・・・・』って書いてあるわよ。ねえ、だからさ、イエス様に祈ってみたらどう?」です。これは説教です。Bさんは、聖書の御言葉を使っています。それをAさんの問題に適用させています。更には「ねえ、イエス様に祈ってみたらどう?」とチャレンジしています。Bさんのは、立派な説教です。

この程度の説教なら、だれにでも出来るはずです。しかも、この程度の説教でも、軽く見てはいけません、語られる言葉は神の言葉ですから、聖霊様が働くと、人が救われるのです。これは高壇で語られるようなフォーマルな説教ではないかも知れませんが、立派な説教です。あなたに出来ないとお考えですか?

私の出身教会は、愛知県豊橋です。私の信徒時代の方でもう故人の方ですが、Sさんという婦人がいました。以前はキリスト教など大嫌いの人でした。しかしあの時代には珍しく離婚なさっていて、女手一つの子育てはなかなか大変でした。豊橋から、お隣の豊川に、お裁縫の裁断を習いに行っている時に、その裁断の先生が、Gさんというクリスチャンでした。非常に聖書をよく読んでいた穏やかな方で、裁断を教える傍ら、「Sさん、エスさまはですねえ」としばしば、イエス様の話をしたのです。「先生、いやったいねえ。エスさまはいいですから、裁断を教えてくださいな」とSさんは言いました。そして教えられたひとつが、先の「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」だったのです。Sさんは、Sさんから新約聖書をもらいました。鈴木さんはとても勝気な方で、「後藤さんが、そんなに勧めるキリスト教とはどんなものか」と、その聖書を一気に読みました。聖霊様がその魂に触れました。そして彼女は救われたのです。

キリスト教は、「鰯の頭も信心から」と言った、馬鹿げたものではありません。誰かが聖書を語らなければならないのです。そのタスクは、決して専心伝道者だけであるはずがありません。現在、『ハーヴェスト・タイム』というテレビ番組に中川先生と出ているヨハンナさんと言う人がいます。彼女のお父さんは宣教師でした。ヨハンナさんはハーフで背が高く、メチャ美人で、プロポーションのいい人で、ファッション・モデルになりました。しかし彼女は、「絶対ヌードにはならない」という鉄則で、ファッション・モデルの仕事をしました。お金を出すからといわれても、この鉄則は崩しませんでした。彼女は、私はファッション界に遣わされた宣教師と言っていました。その後、確かイギリスの方と結婚して、神学校にも行ったはずです。

大阪のある教会の週報を見たら、『献身者の群れ・○○教会』と書いてありました。クリスチャンは、全員がクリスチャンとして召されたもの達であり、あなたでなければリーチ出来ない人たちがいるはずです。あなたが、その、専心伝道者である私の行けないような所に遣わされている宣教師なのです。

福音を語るということで、人々が救われるという価値を、もっと認識すべきです。聖書は確かに「罪から来る報酬は死です」と言います。「しかし、神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです(ローマ6:23)」と言います。罪が「永遠の死」の原因であります。勿論、人間は誰もが死にますが、信じる者はまたよみがえり永遠に生きるのです。しかし永遠の死には、もう復活のチャンスはありません。ですから私どもはこの永遠の死からは絶対に逃れるべきであります。つまり、永遠の命を受けること、また永遠の死に遭わないことのために、私どもはイエス・キリストの福音を伝えるのであります。

聖書は、「みことばを宣べ伝えなさい。時が良くても悪くてもしっかりやりなさい2テモテ4:2)」と言います。これは全クリスチャンに対するタスクであります。イエス様は、「この御国の福音は全世界に宣べ伝えられて、すべての国民にあかしされ、それから、終わりの日が来ます(マタイ24:14)」と言われました。「こわがらなくてもよい。これから後、あなたは人間をとるようになるのです」という主からのお言葉は、あなたがイエス様を信じた時に、主が語られたと理解しましょう。あなたが召されていることは、疑いありません。召しに従って、福音を語るべきであります。

祈りましょう。