2006年6月11日

「献金は信仰のバロメーター」

すでに故人ですが、北米のマウント・ハーモン・クリスチャン修養会にも来られた、元日本キリスト教団議長・辻宣道先生の『信仰生活の処方箋』という中に、表題のような一文があります。この先生は、日本キリスト教団の牧師でしたが、元はホリネスですから一本筋金入りで、書かれることもかなり耳に痛いことを書かれています。だいたい『献金は信仰のバロメーター』などという章をみたら、「ウェー」と言う人たちがいると思います。(以下は、すべて 辻宣道・著『信仰生活の処方箋』日本基督教団出版局 1981年初版だが、引用は、1993年版によった。)

 

「献金をいくらしたらいいか悩む人がます。悩む必要はありません。聖書どおりにすればよいのです。収入の十分の一を目安にすればよいのです。」p.85

「概して信仰のあるひとはよく献金します。信仰のない人は献金しません。では献金の多い少ないでひとの信仰は計れるか。その通り。これを聞いておこりだすひとがいます。平気です。事実そのとおりなのですから。」p.85

「思えば献金とはふしぎな行為です。なぜかひとはこの一文のとくにもならぬ無償のわざに唯々諾々と従っていくのです。報いを求めずただ神の栄光のあらわれんがために献金がささげられる。会費ではありません。義務でもありません。しいていえば恵みに対する献身のしるし、感謝、信仰の証しです。その意味で献金は信仰のバロメーターです。」p.86

「だいぶまえ、ある婦人雑誌で家計簿の公開を募集したことがあります。その一つに応募したのは、ある(インテリの)クリスチャン主婦でした。彼女は実に模範的な家計簿を公開してくれました。ただ、献金の項を見たとき思わず顔が赤らみました。少ないのです。じつに少ない。それは一回のおやつていどのものでした。ある会合で話題になり、あたりはばからぬ僅少献金を公開する神経に(みな)ただ驚嘆しました。そしてこのていどにしか献金をかんがえぬインテリ女性のわきまえぶりに、ただあきれました。豊かでもの知りのタイプにこの種のひとが多いのです。そして貧しくぶきっちょな者が、気のきいたことをひとつも口にせず、黙々と教会をささえていく。教会とはまさに愚直な者が、まっ正直にささえているところです。この世の知者はすべてを知りつつ見て見ぬふりをしています。・・・・子どもたちに塾に通わせる費用。音楽会。お茶、お花、ピアノのレッスン、それにくらべてなぜ献金が低いのか。そのわけを知らせてほしいのです。」p.87-88

などなど。いかがでしょうか?かなり「きつぃ」と感じている読者がいるのではないかと思います。日米では、献金の仕方も多少違いを感じますが、しかし、あえて私も申しますのは、これは基本的には的をえていると思います。

アメリカでは、献金が所得税控除の対照になりますから、何とか自分が献げたようにするために、クレージーになる人がおります。年をとった母親の献金を、「母親は私が世話しているのだから、母親の献金の領収証の名前を自分の名前にかえてくれ」と言ってきたハレンチな人がおりました。その方も、自称クリスチャンでした。またこういうケースもありました。ある人たちは御存知のように、私は案外ハンディーマンで、車の運転、庭掃除は勿論、簡単な車の修理、大工、配管、電気工事、電化製品の修理など、さまざまな仕事が出来ます。あるとき、私からそういうサービスを受けて、「これは先生の教会への献金です」と言って小切手を書いた人がおりました。しかし「先生の教会への献金・・・・」を聞いた時には、その人の常識を疑いました。散々人を使っておいて、「先生の教会へ献金」はないと思いました。金額はプロに頼んだら、がっぽりチャージされるような額でしたが、「石原先生はプロじゃないから、そうも払う必要はない」と考えるのも問題ですが、(それならプロを頼んだらいいのに)そればかりか、その「低い労賃」を「献金として処理してくれ」はないと思いました。確かにそういう人は、辻先生の言われるように、インテリの金持ちの人でした。最近はIRS(国税局)もうるさくなって、そういうサービスや、見返りがあるものは献金とみなさないのですが、以前はそういうことがあまりはっきりしていなかったので、随分不本意ながら、領収証を切ったおぼえがあります。ヤッコさんたちは、そういう「献金」も、所得税控除の対象にして税申告をしたことでしょう。

また、辻先生は、「皮肉な現象がどこの教会にもあります。牧師が献金のトップをしめるのです。もちろん牧師は恵みに感謝し、捧げることに喜びを見出しているから平気です。しかし、もしトップの座を奪いとるひとがふたりまたは三人でもでてくれば、その教会は動き出し、活発になるのですが、現実はトップ奪還にほど遠いのです。」p.88

これもおかしなことですが、おそらく残念な真実でしょう。もし皆さん方が自信があるなら、ご自分の税申告のCharitable Offerings があるSchedule A を持ってきてください。私たち夫婦のそれを見せてあげます。そしてどちらが多いか比べてみましょう。私たちの金額より多い人が、23人現れてくれることを願っています。

「考えてみれば献金とは<祈り>かもしれません。いつも『われ何をなして、主にむくいし』という思いがあれば、ありにふれ、ことに寄せて主に献げることができます。その意味で私たちには身辺の整理が必要です。礼拝の時間をつくりだすための思いきった身辺整理、優先させるべきものとしからざるものとの分離、このようにして礼拝の時間は確保されます。おなじように献金をするためのくふうも必要です。よく考えると私たちにはむだが多いのです。いたずらな飲み食いに万金を投じながら、なぜか献金にそれを向けない。身辺を飾ることに大胆でありながら、主に献げることに小心である。よろしく身辺をかたづけ、時も財(たから)もあの一点にむけていく。それがたいせつです。」 p.89

プロの泥棒は勿論、悪い代議士、悪い官僚、悪どい会社、悪い、悪い、悪い、どんな悪い人でも、大体まずお金を手に入れようと思います。お金など、よく考えてみれば紙切れです。シュワちゃんの『ターミネーター』は、何か必要なものを得るために、お金で手に入るという発想はありませんでした。銃が欲しければ、ガン・ショップで、店の主人を射殺してでも持ってきました。バイクが欲しければ、人のものを実力で分捕りました。これは本物の悪党ですね。ところがこの世の多くの悪い人たちは、お金を不正で取って、それを使うときは、あたかもちゃんと払ったと、いい顔して使います。セコい悪党ですね。お金にだけは平伏する傾向があります。神が生きておられると信じているクリスチャンは、お金に対するスチュワードシップを、神中心に考えるでしょう。献金を誤魔化した人の話も聖書にでてきます。(使徒5章)これは愚かしい悪党のすることです。天から見ておられる主を意識して、主に喜ばれる献金者になりたいものです。