2006年6月25日
長い間、日本アッセンブリーにとっては愛すべき、ミセス・ニッパーが召され、お葬式がありまして、今週はすっかり、e-mail blessings の配信が遅くなりました。ミセス・ニッパーのお葬式の報告は、
http://www.calstarchristianchurch.org/news.html
を見てください。
『貧しい者は幸い』 ルカ6:20-27
6:20 イエスは目を上げて弟子たちを見つめながら、話しだされた。「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのものですから。
6:21 いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。
6:22 人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです。
6:23 その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです。彼らの先祖も、預言者たちをそのように扱ったのです。
6:24 しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。
6:25 いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。
6:26 みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです。
6:27 しかし、いま聞いているあなたがたに、わたしはこう言います。あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行ないなさい。
さて、私どもは最近ルカ伝からイエス様のパブリック・ミニストリーから、御言葉を聴いております。
今日のテキストはマタイ伝5章では『山上の説教』となっていますが、ここでは、『平地』となっています(v.17)。しかし、これは別の説教という意味ではなく、やはりマタイとルカの視点の違いなどであって、同じ場所での説教とみるべきでしょう。それでは『山上の説教』と『平地の説教』の違いをどういう風に理解するかですが、私は九州の阿蘇に行ったことがあります。いいところですね。あそこで説教すると、それは『山上の説教』でしょうか『平地の説教』でしょうか?阿蘇に行けば、あそこは阿蘇山という山ですから、やはり『登る』でしょう。実際に列車も登って行きます。あんまり急なので、スイッチバックといって、坂を上って行って止まり、今度は後ろに向かってという具合に、登って行きます。あそこは山です。しかし阿蘇で説教するのは、まるで『平地』でしょう。私もイエス様が説教なさったであろうと言われた山に行きました。勿論、阿蘇ほどの平地ではありませんが、「彼らとともに山を下り、平らな所にお立ちになった」というのは、分かる場所もあります。「お立ちにな」るには、やはり平らなところでしょうからね。
さて、その説教の内容ですが、両者では多少違っている書き方がしてあります。しかしヘブル・クリスチャンに宛てて書かれていると思われるマタイの福音書の記事よりむしろ、異邦人に宛てて書かれているといわれるこのルカの福音書の記事のほうが、むしろ異邦人である我々には強烈なメッセージといえる個所があります。
「貧しい者が幸いを得、天で報いを得ます。ですから、主のために進んで貧しくなりましょう」とステイトしますと、「エエッ、冗談じゃないわよ」と思われかもしれません。しかし、このステイトメントは真理であります。何故なら聖書がそう言っているからです。
まず、「貧しい者が幸いを得」るという点ですが、テキストは確かに、「貧しい者は幸いです」と言っています。また、「天で報いを受ける」ということですが、テキストは、「いま飢えている者は幸いです。あなたがたは、やがて飽くことができますから。いま泣いている者は幸いです。あなたがたは、いまに笑うようになりますから。人の子のために、人々があなたがたを憎むとき、また、あなたがたを除名し、はずかしめ、あなたがたの名をあしざまにけなすとき、あなたがたは幸いです」と言ったあと、「その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです」と教えています。
ここで注意していただきたいことは、マタイ伝のこの個所には、「心の貧しい者は幸いです(5:3)」と、「心の」がありますが、ルカ伝にはなく、ただ「貧しい者は」であります。そしてこのコンテキストから察するに、事実この世において、経済的にも貧しい者のように読めます。
これは事実そういう意味です。マタイ伝でも、イエス様は、「あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません(6:24)」とか、「金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい(19:24))」と言われ、聖書は金持ちになりたがる人に対して、強烈なブレーキをかけています。例えばパウロは、1テモテ6:9で「金持ちになりたがる人たちは、誘惑とわなと、また人を滅びと破滅に投げ入れる、愚かで、有害な多くの欲とに陥ります」と教えます。ルカのこの箇所の記述は、貧しい者のすべてが幸いであるという意図ではないにせよ、この世の富を追及する生き方に対して厳しい警報を鳴らしているように読めます。
最近、現代のマネー・ゲームの寵児二人が、相次いで逮捕されました。彼らはひたすら金持ちになることを願った人たちでありましょう。御存知のように、ホリモンこと堀江貴文氏と、村上世彰氏であります。お二人とも東大などという有名な大学へ行った方々ですが、何とつまらない人生を送っているのかと思います。この傾向は、もうどこの大学へ行ったかには関係ありません。
もっとも大切な戒めは何でしょう」と尋ねた律法学者に、イエス様が何とお答えになったでしょう? 「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。
『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです」です。
堀江氏は、「金儲けするには、こんな大学などにいても仕方がない」と考えたのか、東大を途中でやめました。村上氏は、「金儲けをするには、役人などやってられない」と通産省をやめました。彼らが、『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』で神を愛し、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』を実践していけばよかったのですが、まず彼らは肉の力でがんばる人たちですから、その心の内に神がおられない、それで神を愛せない、肉の力は肉ですから自分を肥やすことしか考えない。それで、彼らが大切にしようと考えるのは自分と、せいぜい限られた株主や投資家だけです。それに引っかかったのが、福井とういう日銀総裁です。日銀総裁まで、仕事はそっちのけでマネー・ゲームをやっておられたというのでは、なんとも情けない話です。1000万投資して、1200万儲かったそうです。繰り返しですが、どうにもこの儲けようという病気にかかるのは、どこの大学をでているか、どういう地位にあるかは、関係ないみたいです。
これはクリスチャンと言われる人々も同じです。誤解しないように、儲けることは悪いことではありませんが、儲けたお金を自分だけのものにすることを考えないで、どんどんイエス様のために使って自分は貧しくなることです。大丈夫です、クリスチャンで儲けることの上手な人は、それをイエス様のために使うと、また入ってくるからです。
私の聖書学校時代の同級生の渡辺さつき先生は、ちょっと前までサクラメントでレストランを経営していました。非常に成功をおさめ、彼女が買ったというお家にも行きました。それはびっくりするような大きな家でした。しかし家もレストランもきれいに売り払って、今回阿蘇に教会を建てました。御主人の雄一先生は、神田外国語大で英語の先生という、いいポジションを持っていました。それもイエス様のために全部捨てて、今奥様と二人で阿蘇で伝道です。現在は失業手当で生活中です。
私はどうも、ビジネスは下手ですね。儲けることはあまり上手ではありません。だから現実的にも貧しいです。ただお金がないということで貧しいからといって、霊の世界で貧しいということにはつながりません。むしろ豊かだと思っています。ですから現実的には、経済的にも貧しさに向かう人は幸いだと思います。
例えばこういうことです。例えばある人が、家のローンの返済のために、慎ましやかに暮らして毎月コツコツと2000ドル払っているとします。夫婦が苦労しながら、ローンを返済している姿、いいですねえ。ミレーの『晩鐘』という絵があります。若い農夫の夫婦が一日の終わりに祈りを捧げています。とても彼らはお金持ちには見えません。こつこつと働き、信仰深く生活している夫婦に、誰かが宝くじの券をくれたとします。絶対当らないと思っていたら、大当たりで100万ドルが入ってくることになりました。税金を引いてもまだ70万ドルは手元に残るとしましょう。什一を7万ドル献げるなら、残りで家のローンは十分完済できます。多くの世の中の人はそうするか、あるいはその63万ドルは『自分のことのために』使うでしょう。これが神に対してケチというものです。どうせ当てにしていなかった、もらった宝くじでしょう、私なら最初から無かったと思って、スパっと全額献げてしまうでしょうね。だから私は、お金持ちにはならないのです。聖書には「貧しい者は、不幸です」とは書いてありません。ところが「金持ち」「富を貪る者」については、その行く末が不幸であるという個所は何箇所かあります。何故かというと、この世の富というのは、心を主から離れさせる傾向があるからです。
昨年秋、私たちの教会で訓練生をやっていた伏見さんという方がいました。彼はここ何年か超貧乏暮らしをしています。この世では絶対、彼のようにろくに仕事もない人の所に行きたがる婦人はいないのです。それがどうでしょう、とびっきり一流の花嫁をつかんだのです。何故か、伏見さんは、もう主に頼るしか道はないと知ったし、ですから、そのように生きようとしたからです。奥さまだって同じです、自ら進んで、喜んで伏見さんと貧しくなることを覚悟で彼のもとに来たのです。やっぱり信仰のある方は、この世の人たちと見る目が違うのですね。
貧しさに向かう人は幸いなのです。聖書には「貧しい者は、不幸です」とは書いてありません。ところが「金持ち」「富を貪る者」については、その行く末が不幸であるという個所は何箇所かあります。
何故かというと、この世の富というのは、心を主から離れさせる傾向があるからです。
ただ貧しければ何でもいいのかと言うと、勿論そうではありません。貧しいので必死に、根性を働かせて貧困からあえぎ抜け出そうとする、そういう姿ではありません。そういう人は実際に貧困から抜け出ることが出来ることがありますが、イエス様がおいでにならなので霊的豊かさがないのですね。ですから、いったん貧しさから抜け出ると、もう普通の守銭奴と同じです。そうではなく、むしろ霊的世界の豊かさを求めて、物質的欲求を超越して、自分がこの世的に貧しいということすら、気にならないというような人の姿であります。
聖書は、「その日には、喜びなさい。おどり上がって喜びなさい。天ではあなたがたの報いは大きいからです」と申します。クリスチャンでも、どうにもこの点で理解できない人が多いのです。私はアメリカの牧師会に参りますが、正直なところ牧師仲間にも首をかしげたくなるような話をする人がおります。こういう牧師のもとで養われる信徒は気の毒だと思います。例えば、最近買った新車の自慢とか、老後に備えて年金の準備を万全にしているかどうかとか、聞くに堪えられない話です。車は快適に走れば良いのです。老後は、ソーシャル・セキュリティーがあれば大丈夫です。病気になればメディケアーがあります。アメリカは素晴らしいシステムが整っております。生きているうちは、一生懸命主のために伝道したらいいのです。
詩篇90:10には「私たちの齢は七十年。健やかであっても八十年」とあります。まあ120歳まで生きると思っている人もおりますので、多少誤差はあるにせよ、地上の人生は限定人生です。私たちが地上で慎ましやかに生きることの目的は、比類なき大きな「その日の喜び」「天での報い」のためであります。天国での永遠の喜び、比類ない報いに比べたら、地上の金持ちなど比較の対象にすらなりません。
パウロは、2テモテ4:7-8で「私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現われを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです」と言います。こういう風に言える信仰生涯が理想的です。信仰は取りあえず持ったけど、ケチで献金は苦手という人がおります。クリスチャンにケチは似合わない。クリスチャンの方で、未婚の方は、献金の出来ないようなケチな人と結婚すると、とんでもないことになりますから注意しましょう。面白いですか?でも真理ですよ。
経済的に貧しいクリスチャンは不幸でしょうか?とんでもない。平安と感謝、足るを知る満足感で満たされている、そういうクリスチャンは沢山います。地上のお金持ちはどうかというと、不安、いつでも不足感、どれだけあっても有難み感なし、しばしば家庭はメチャメチャ、極め付きが逮捕、あるいは日銀総裁のポジションすらお払い箱になりそうという不名誉、そして主に喜ばれないですから、ふんだりけったりです。
テキストは「しかし、富んでいるあなたがたは、哀れな者です。慰めを、すでに受けているからです。いま食べ飽きているあなたがたは、哀れな者です。やがて、飢えるようになるからです。いま笑っているあなたがたは、哀れな者です。やがて悲しみ泣くようになるからです。みなの人にほめられるときは、あなたがたは哀れな者です。彼らの先祖は、にせ預言者たちをそのように扱ったからです」と言います。
まさに、「貧しい者は幸いです。神の国はあなたがたのもの」だからです。イエス様でも、自ら貧しくなられたのです。主イエス様に信頼して、自らは進んで貧しくなる工夫をしましょう。必ず慰められ、祝福を受けます。
祈りましょう。