2006年7月2日


『主への愛は罪の赦しの結果』 ルカ7:36-50

7:36 さて、あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。

7:37 すると、その町にひとりの罪深い女がいて、イエスがパリサイ人の家で食卓に着いておられることを知り、香油のはいった石膏のつぼを持って来て、

7:38 泣きながら、イエスのうしろで御足のそばに立ち、涙で御足をぬらし始め、髪の毛でぬぐい、御足に口づけして、香油を塗った。

7:39 イエスを招いたパリサイ人は、これを見て、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから。」と心ひそかに思っていた。

7:40 するとイエスは、彼に向かって、「シモン。あなたに言いたいことがあります。」と言われた。シモンは、「先生。お話しください。」と言った。

7:41 「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。

7:42 彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか。」

7:43 シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います。」と答えると、イエスは、「あなたの判断は当たっています。」と言われた。

7:44 そしてその女のほうを向いて、シモンに言われた。「この女を見ましたか。わたしがこの家にはいって来たとき、あなたは足を洗う水をくれなかったが、この女は、涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐってくれました。

7:45 あなたは、口づけしてくれなかったが、この女は、わたしがはいって来たときから足に口づけしてやめませんでした。

7:46 あなたは、わたしの頭に油を塗ってくれなかったが、この女は、わたしの足に香油を塗ってくれました。

7:47 だから、わたしは言うのです。『この女の多くの罪は赦されています。というのは、彼女はよけい愛したからです。しかし少ししか赦されない者は、少ししか愛しません。』」

7:48 そして女に、「あなたの罪は赦されています。」と言われた。

7:49 すると、いっしょに食卓にいた人たちは、心の中でこう言い始めた。「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう。」

7:50 しかし、イエスは女に言われた。「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい。」

 

  今朝の話は、やはりよく知られた話ですが、時々誤解している方がありますから、最初にいくつかの点を確かめておきたいと思います。

  まず37節に、「罪深い女」が出てきますが、この女はベタニヤのマリヤ、つまり、ラザロやマルタの兄弟とか、このあとの8章に出てくるマグダラのマリヤとは、別人であるということです。以前アメリカのテレビ番組で、マルタ、ラザロの兄弟のマリヤが罪ある女ばかりでなく、売春婦のように扱ってあるものを見てビックリしました。ヨハネ12:1-8にはるベタニヤのマリヤとこのテキストでは、食卓の雰囲気が全然違います。ヨハネ伝ではイエス様は温かく迎えられ、人々は尊敬し、感謝している感じがします。我々のテキストでは、迎えたパリサイ人はちょっと怪訝そうな雰囲気がします。また、ここはパリサイ人の家ですが、ヨハネ12章の並行記事のマタイ26:6では、らい病人シモンの家になっています。

またマグダラのマリヤについては、せっかく婦人の名誉のために、このテキストで匿名にしたのを、その直後の8章で、わざわざ名前を出すはずもないのですから、これも別人ですね。「悪霊を追い出していただいた」ということが、必ずしも不道徳に結びつくことはありません。

それから、テキストの40節のシモンについてですが、このシモンは、勿論イエス様の一番弟子のシモン・ペテロやもう一人の弟子、熱心党員シモンでもなく、イスカリオテのユダの父のシモンや、イエス様の代わりに十字架を担いだクレネ人シモン、先にも申しましたらい病人シモンなど、そのいずれでもありません。シモンと言う名は、この地方ではありふれた名前で、パリサイ人シモンであります。

さて今朝の説教のタイトルは『主への愛は赦しの結果』ですが、このタイトルはなかなか信仰に熱心になれないと考えている人たちには霊的示唆を与えると思います。実は私の悩みはなかなかアメリカ救われて日本に帰るクリスチャンが、日本の教会に結びつかないことです。私は正直、教えていることが違うのだろうかと思ったこともあります。しかし先月我が家のルークが台湾に行きましたが、すぐその翌週から、台北で英語の教会を見つけてそこに通っています。そればかりか、お世話になっているのは、台湾の方の家ですが、(そこの方は、私たちの知り合いですが、クリスチャンではありません。)そこの若奥さまに伝道しているのか、その奥さまが「私もクリスチャンになったほうがいいかも」などと私たちにメールをくれました。

 ほんの数少ない人ですが、日本でも立派に信仰生活を続けている方があるのですから、やはり私の教えたことが間違いではなかったと思うのです。礼拝に行くとか、献金をするとか、奉仕をするとか、伝道をするとか、それは主を愛することに関わってきます。そして主を愛するようになるには、如何に赦されているかということと大きく関わってくると思うのです。人がイエス様を愛するのは、自分の罪が赦されていると分かる結果です。ですから罪の赦しをしっかり自分のものにしましょう。

まず第一に、罪が赦されるには、自分の罪をどれくらい自覚しているかということを考えるべきです。テキストの最初に、「あるパリサイ人が、いっしょに食事をしたい、とイエスを招いたので、そのパリサイ人の家にはいって食卓に着かれた。すると、その町にひとりの罪深い女がいて」とあります。ここには「罪深い女」とパリサイ人がいます。この「罪深い女」のことを、ある人たちは売春婦であったと理解しますが、直ちに「売春婦」という風に決めつけるのは、公正ではないと思います。そういう事実がなくとも罪深い人もいたでしょうし、少なくともこの場面では、そういう評判はこの婦人の過去のことからでありましょう。例えば現在も不道徳にアクティヴなら、そういう人がパリサイ人の家に入ることは難しかったと思います。ただこの婦人は、イエス様の評判のことを聞きつけて自らやって来たのであって、このパリサイ人に招待されたわけではないのです。「香油のはいった石膏のつぼを持って来」たのですから、もうすでにイエス様に会う前から、それを注いでさえも自分の罪を赦してもらおうと思って準備して来たのでした。つまりシモンの家に来る時には、すでに自分の罪を認めていたのです。その罪が何であれ、また過去のことであれ、イエス様の前には時効などはありません。清算が済むまでは、自由になれないのです。この婦人は、真摯にそのことを思って、その解決の求めてイエス様のもとにやって来ました。

ところが、もう一人の人物のパリサイ人は、イエス様に対して、「この方がもし預言者なら、自分にさわっている女がだれで、どんな女であるか知っておられるはずだ。この女は罪深い者なのだから」と思ったりしましたし、「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう」とつぶやいた人たちの中に入っていた人でしょう。またこの婦人の評判を知っていて、どちらかと言うとイエス様を試すつもりで、この婦人を家の中に入れていたのでしょう。つまりシモンは、この婦人が思っていたように、自分も罪人で、イエス様が赦す権威を持っておられる方だなどとは、全く思っていない人のようでした。

教会にやってくる人は色々ですし、人々の教会に対するイメージも色々ですが、日本人のイメージとして、教会とは聖なるところであり、自分も聖められたいと願ってくる人は実際いると思います。そういう人たちは、もう来る前にすでに、自分のこれまでの所業が罪深いと感じております。

イエス様はこの時、パリサイ人シモンに譬話をなさいます。「ある金貸しから、ふたりの者が金を借りていた。ひとりは五百デナリ、ほかのひとりは五十デナリ借りていた。彼らは返すことができなかったので、金貸しはふたりとも赦してやった。では、ふたりのうちどちらがよけいに金貸しを愛するようになるでしょうか」と尋ねられます。シモンが、「よけいに赦してもらったほうだと思います」と答えると、「あなたの判断は正しい」と言われました。これはシモンが少し赦されたということではなく、彼自身が自分の罪に気がつかず、この婦人に対する憐れみのなさ、その傲慢な態度から、彼自身の罪は赦されていないことを表しているのです。

人間は神の前には全て罪人であるとういうことは聖書の教えですが、その罪がどれ位大きいかということはなかなか分からない人が多いと思います。例えば、お隣の家の柿を一個失敬したことでも、随分罪意識を指される人もおりますし、大泥棒をしても、「ヘヘン、上手くやった」と思って、罪意識など感じない人もいます。罪のないイエス様を十字架にかけても、「これは命令だから」と思っていたのがローマの兵隊で、「神に対して無礼な者の当然の報いだ」と思っていたのが、イスラエルの宗教的指導者でした。

この世にあっては品行方正との評判の人でも、ある時ある日、聖霊様のお助けで、自分がイエス様を認めなかったことがどれ程大きな罪であったか、そしてその罪がイエス様を十字架に架けたのだと悟る人もおります。何度も話しますが、三浦綾子さんの『塩狩峠』に出てくる長野さんは、そういう意味では非常に潔癖なひとでした。しかし神の前には罪人であったことを知ったのです。

神の前には、人は誰もが大きな罪人であることを知ることは大切です。何故かと申しますと、その時、罪の赦しは、もうそこに来ているからです。これが第二に知っていただきたいことです。私は、「人がイエス様を愛するのは、自分の罪が赦されている結果です」と申し上げました。私たちは赦されるために、主を愛するのではありません。何故かと申しますと、この個所の、「赦されています(アフェオーンタイ)」は完了時制で、女の「愛した(エーガペーセン)」は、過去時制つまり彼女が「愛した」時には、すでに「赦されている」のです。ですから、イエス様を愛する、つまり神を愛するということは、赦されているという確信の結果であります。実はイエス様は、遜って罪を認める者は、とっくに赦しておられます。

皆さん方が、主を愛して礼拝し、主の肢体なる教会を愛して、それは伝道し、献金し、さまざまな奉仕をする時、赦されたいからするのですか?本当にそういう形の主の愛し方が、罪の赦しのためだったら、相当私たちは苦行しなければならないと思います。しかし、主はそういう愛し方を要求なさいません。あくまで人間の側の自主的な意志からの愛し方を願われます。この婦人は、主から「赦されるために、これこれをせよ」と言われてはいないのです。

お客さんが来た時に、足を洗う水を出すのは普通のマナーです (創世記18:4)。口づけするのも普通の習慣です(創世記29:13)。高価な香油でなくとも、比較的安いオリーブ油を塗ることも普通のマナーです(詩篇23:5)。しかし、罪を自覚していないので、赦されているという確信もないパリサイ人は、感謝も喜びもないので、そのどれもしませんでした。一方マリヤは、罪を悲しんでいたでしょう。イエス様は、「悲しむ者は幸いです。その人は慰められるからです(マタイ5:4)」と言われました。この女は水の代りに「涙でわたしの足をぬらし、髪の毛でぬぐ」い、「足に口づけしてやめませんでした」とあります。また、安いオリーブ油でなく、主の「足に(高価な)香油を塗っ」たのです。彼女は決して、「自分は罰せられるだろうか」とオドオドしながら、イエスさまに接しているようには感じられません。涙の中にも、平安が満ち満ちております。婦人は自分の罪を深く認めていたので、主はすでに赦しておられました。しかし、48節で「あなたの罪は赦されています」と、この婦人にその赦しの確かな保障を与えられたのです。

あのルカ23章で、イエス様と共に十字架に架かった強盗の一人は、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください(23:42)」申しました。これが罪を認めた者の姿です。罪を認めると、ただちにイエス様は、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と宣言なさいました。この強盗はこの時死にましたが、もっと早くに神を恐れ、神の前に自分が罪人であることを認めていたら、この世と悪を愛することをせず、主を愛したでありましょう。しかし、最期に至ってその罪を知り、その罪を赦されたことは、それを知らずに死んだもう一人の強盗とは、永遠の祝福においては雲泥の差であります。

イエス様は、「罪を赦したりするこの人は、いったいだれだろう」などとモゴモゴ言っている人がいたので、この婦人のことを気にかえて、「あなたの信仰が、あなたを救ったのです。安心して行きなさい」と言われました。こうしてみると信仰というものは、極めて単純です。自分の罪深さを認め、主にすがるというだけです。そうすると、この婦人のような主を愛するという行動になってくるのです。

あなたは、この世、罪や悪を愛するべきではありません。主イエス様を愛するべきです。そのためには、現在であり、過去であれ、すべての罪を認め、それを主のもとに持って行く決心をすることです。何故かなら、罪を認めると、自然にそれが主を愛する行動になるからです。主はとっくに赦してくださっています。

主の前に、信仰に燃え、主を愛し、主に仕えるようになるにはどうしたらよいか、ヒントが与えられたでしょうか?罪を深く認め、その罪を赦されることです。そのために主に向かうことです。

 

祈りましょう。