2006年7月9日


『言葉による奇跡』 ルカ8:22-25

8:22 そのころのある日のこと、イエスは弟子たちといっしょに舟に乗り、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう。」と言われた。それで弟子たちは舟を出した。

8:23 舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった。

8:24 そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、「先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。」と言った。イエスは、起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた。すると風も波も治まり、なぎになった。

8:25 イエスは彼らに、「あなたがたの信仰はどこにあるのです。」と言われた。弟子たちは驚き恐れて互いに言った。「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう。」

 今朝のテキストは、イエス様が嵐を鎮められた個所であります。共観福音書(マタイ、マルコ、ルカ)の全部に、この記事はあります。日曜学校などでも必ず出てくる有名な話ですね。イエス様がガリラヤ湖を弟子達と渡っておられる時に、突然嵐が吹いてきた、しかしイエス様は眠っておられた、弟子達は船がひっくりかえって自分達が死んでしまうのではないかと心配になり、イエス様を起こしました。イエス様は、風と荒海をしかりつけられた、そうしたら湖が静かになったという話です。

  これは奇跡です。奇跡と言うのは、自然法則を超えた不思議な現象と言えるでしょう。特に明確な定義はありません。イエス様がなさった奇跡は、ご自身が救い主であることを分からせるためになさったことであって、個人的な栄誉のためになされたのではありません。

  ただ今日、奇跡はあるかというと、実はキリスト教会でもいろいろあって、「聖書啓示が完成している現在、奇跡はない」と教える教会もあるようです。そういう教会では、癒しのためにも祈らないと思います。私はこういう方たちは気の毒な方達だと思っております。奇跡は今日もあるに決まっています。病が癒される奇跡も、このテキストのように自然がコントロールされる奇跡も、死んだはずだった人が生き返るという奇跡さえも、・・・・(ここが大切なところですが)・・・主の御心ならば・・・・起こります。

  あなたは奇跡を期待しませんか?

  このテキストでは、嵐が治まったという点に、注目しがちですが、イエス様が、どのようにして嵐を治められたかに注目して頂きたいのです。

  イエス様の言葉には御心によって奇跡を起こす力があります。ですから、私たちは、信仰を持って、このイエス様の言葉にすがるべきであります。

昔、明日は遠足とか、運動会という時、テルテル坊主を作った・・・・・(というのは我々の時代位までか)・・・・ただカリフォルニアの気象予報士は、楽なものです。「今日は快晴でしょう、明日も快晴でしょう、あさっても快晴でしょう」と言っていればいいのですから。これが日本になると、なかなかそうは行きません。そのうちに、「本日は、晴れまたは曇り、所によって雨、一時強く降ることもあるでしょう」などと言わねばなりません。

ポイントは、自然というものはなかなか人間の力では支配出来ないということです。阪神・淡路大震災の時に、「揺れ、止まれ」、インドネシアの津波の時、「津波、戻れ」の一声でそれがなかったら、犠牲者は出なかったでしょう。農家の皆さんは、作付けの時期に、「ああ、雨が降ってくれたらなあ」と思うことがあります。一方、稲の収穫の時に秋の長雨では、「もうたいがいに晴れてくれないか」と思うこともあります。しかし、人間の力では、自然を支配することはできません。

テキストでは、イエス様が、「さあ、湖の向こう岸へ渡ろう」と言われましたが、これはガリラヤ湖のことです。がリラヤ湖のこちら側(と申しますのは、西側でしょう)から、向こうの岸(つまり東岸)に渡ろうとなさったのであります。その時に、突風が起こって、船が沈みそうになりました。ガリラヤ湖というのは、けっこうな大きさの湖で、南北大体20Km 東西12Kmで、旧約ではキンネレテの海などと呼ばれているのは、北の方が細く、南に行くと広くなっていて形がハープのような形をしているからと言われています。ヘブライ語のキンノール(ハープ)という語からの派生した名前でしょう。新約では、ゲネサレ湖(ルカ5:1)とか、テベリヤの湖(ヨハネ6:1)とも呼ばれています。死海からは、だいぶ北にあるのですが、ここでも海面下200m以上です。けれども淡水湖です。

さて、この突風が起こって、弟子達は何を考えたでしょう。テキストは、「弟子たちは水をかぶって危険になった。そこで、彼らは近寄って行ってイエスを起こし、『先生、先生。私たちはおぼれて死にそうです。』と言った」と言っています。つまり身の危険、命の危険を感じているのです。人間が特に奇跡を期待するのは、この命の危険を感じる時ではないかと思います。常識的には、もう絶対絶命の望みなしという時には、人間の想像では到底及びもつかない、超自然的な奇跡が起こるように期待するでしょう。

日本でも最近はホスピスと言う考え方がだいぶ受け入れられてきましたが、日本の病院という所は患者を長くおけばおく程儲かるシステムになっておりますから、なかなか退院させないことが多いと思います。しかしアメリカでは、日本よりは頻繁に症状を説明してホスピスに移行させる傾向が強いと思います。ただ一方では、それは患者にしても家族にしても、殆ど望みが絶たれたという意味であります。「もう現代の医学では手の施しようがありません。これ以上、管を差し込んで苦しませるより、残された日々のクォリティーをお考えになったほうがよいと思います」と言われたら、日本の多くの人は、ガックリくるでしょうね。

今から5年ほど前に召された妻の兄は、さすが信仰を持っていたので違いました。日本の病院は説明の仕方もなれていないのか、彼によればオドオドしてぶっきらぼうだったそうです。彼は、「もう手遅れ」と告げられた時、「ああ俺は死ぬのか」と思ったそうですが、別にショックもなかった、むしろそれでは残された時間を、懸命に伝道しようと考えたようです。あの時は、最初余命は3−4ヶ月と言われたのですが、実際はそれから17カ月生きました。召される4カ月位前まで、ビラを配り、宣伝カーを走らせ、懸命に伝道に励んでおりました。

「奇跡は起こらなかったのか」とお考えですか?60歳をまわったばかりの人が、自分の死を知っていて、これほど超然としていられるというのは、奇跡でしょう。勿論、彼は奇跡的な癒しを期待していました。しかし人間は必ず一度は死ぬものですから、この地上の命だけに目を留めていてはいけないのです。

何故、人は慌てふためくのか?テキストは、「舟で渡っている間にイエスはぐっすり眠ってしまわれた。ところが突風が湖に吹きおろして来たので、弟子たちは水をかぶって危険になった」と言います。イエス様が眠っておられたということが、問題ではないでしょう。仮に起きておられても、彼らは不安を感じ、騒ぎたてたでしょう。それは、弟子達がまだ本当には、イエス様がどなたかということが分かっていなかったからであります。イエス様は、ヨハネ1章によれば、天地万物の創造もなさり、初めから父なる神と共におられたお方、つまり全能の神なのです。ですからこれが仮に逆だったらどうでしょう。もし弟子達が、そのことをしっかり知っていたなら、弟子達の方が安心しきって眠っていてもおかしくありません。

いつかあるツアーでグランド・キャニオンに行きました。殆どの皆さんが眠っていました。実は運転をしていた私も少し眠くなりました。するとその中の、ある起きていた方が、「石原さん、ワシが代わって運転してやろう」と申し出てくださったので、お願いしました。代わった当初彼は、なれない様子で「オット、これがハンド・ブレーキか、ウィンカーは日本とは反対側にあるなあ」などと言いながら、車を動かしはじめました。実際は、そう長くやってもらったのではありませんでしたが、私も含めてみんな目を覚まして、黙って前を見て、神妙な面持ちでいました。とても寝られるという感じではありませんでした。

聖書の中でイエス様が奇跡をなさったのは、確かに困っている人や,悲しんでいる人を慰め助け、励ますためであったでしょう。けれども、大切なことは、彼が全能の父なる神とひとつであることを示すためでした。ヨハネ伝では、「わたしと父とは一つです(10:10)」と言っておられるように、イエス様自身がこの全能なる神であるということを人々に分からせるためでありました。ですから、同じヨハネ20:31でヨハネは、「これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるため、また、あなたがたが信じて、イエスの御名によっていのちを得るためである」と記しています。

弟子達にはイエス様に対する信仰がなかった。ですからイエス様は、「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と言われました。お金があると安心できる人は、お金に信仰があると言えるでしょう。お金がないと心配になる人は、聖霊さまが「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と言われるかもしれません。

イエス様が奇跡をなさる時は、言葉をお用いになります。テキストは、「起き上がって、風と荒波とをしかりつけられた」とあります。マルコ伝では、この個所でイエス様は「黙れ、静まれ4:39)」と叱りつけられたと書いてあります。「すると風も波も治まり、なぎになった」のです。言葉があったのです。皆さん方は、こういう現象を見ると、「ホー」と言ってびっくりなさるかも知れません。しかし、ここで大切なことは、先にも申しましたようにイエス様は、創造に関らわれた全能の神ですから、自然をコントロールすることなどわけないことなのです。創世記1章の創造記事でも知られるように、神は「光あれ」とか言葉で、創造をなさいました。

今日神は、聖書の言葉でお語りになります。そして信仰の言葉で、奇跡を行われます。それは主に対する祈りでもありましょう。オーラル・ロバーツ先生、ビニー・ヒン先生など沢山の癒しの伝道者がおります。御心ならば祈って、奇跡が起こるということもありましょう。しかし、覚えていただきたい最も祝福に満ちた言葉による奇跡は、癒しや、不思議と言った現象が助けになったとしても、イエス・キリストが神であると告白する奇跡であります。この時、弟子たちは「風も水も、お命じになれば従うとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」と言ってます。この「どういう方なのだろう」という驚きの言葉は、マタイ、マルコ、ルカの全部が伝えています。実は、この事を知る奇跡のほうが、すごいのです。何故かと申しますと、この奇跡がおこると、肉体の死はもはや何も意味もなさないからです。病が癒される奇跡が起こることは、すばらしいことです。経済的に困っている人に、奇跡的にお金が与えられることも素晴らしい。お金ではないですが、聖書は、水が葡萄酒になった奇跡が記録されています(ヨハネ2章)。彼らも婚宴の席に葡萄酒が足りなくて困っていたのです。

ただポイントは、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです(ヨハネ20:29」です。見えないけれども確かに生きておられる神を、御言葉を通して見出す奇跡は、最高の奇跡です。

私たちのファミリー・ドクターは台湾出身の方ですが、日本で医学トレーニングを受けた方です。気さくないい先生ですが、私たちが「先生も、クリスチャンになりませんか」と言うと、そのチャレンジには返事をにごします。私たちの教会には、今、O先生が集ってくださっています。彼は東大医学部卒です。恐らく日本で一番頭のいいトップ100人の中の一人で、実証の世界を極めると言う点では、世界でも最先端で学んだ方です。

「イエス・キリストは十字架で死なれたけれども、三日目に復活なさいました」「今も生きておられます」「この方を救い主と信じるなら、私たちには永遠の命が与えられます。つまりたとえ死んでも、また生きるのです」・・・こういう言葉は、みな聖書にある言葉です。そしてその言葉を、この世界では科学の最先端を行くインティチュションで学ばれたO先生も信じたのです。これが奇跡でなくてなんでしょう。実は、正直な話、この信仰ともつという奇跡は、理性的な頭のよしあしで決まるものではありません。聖霊様と共に働く、聖書の言葉の圧倒的な力で、「信じる」と言う奇跡が起こるのです。

病の癒しの奇跡も、経済的な救いの奇跡も、どんな奇跡でも、御心にかなった奇跡は起きるのです。どうぞ期待してください。スティーブ・マーチンという人の『リープ・オブ・フェイス』という映画がありました。インチキくさい旅回りの伝道者が、足の悪い青年のを癒したり、雨が降らなくて困っていたカンザスの農民の祈りに答えて、雨を降らせたりする映画です。正直な話、どんな極悪な人、不道徳な人によってでも、聖書が語られる時は、それで奇跡が起こりうるのです。それは神の言葉に力があって、神の言葉が奇跡を起こすからです。

奇跡を必要となさっていませんか?期待してください。全能の主に信仰を持って、期待してください。御心ならば、癒しも不思議もおこります。しかし、その背後で働いておられるイエス様が分かり、このイエス様が全能の神であると信じるという奇跡に勝る奇跡はありません。

聖書の言葉の奇跡を期待しましょう。

いのります。