2006年7月16日


『子供のような信仰』 ルカ9:46-48

9:46 さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった。

9:47 しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ、

9:48 彼らに言われた。「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです。」

 実は充江先生がレストランの仕事を辞めて丁度一年になります。昨年までもそう生活は豊かではありませんでしたが、充江先生のレストランの仕事での収入がなくなってからの生活は、それはカツカツで、勿論今もそうですが、まったく将来私たちが自分史を書くことがあるなら、この時期のことはお金を回したという点では奇跡の年月とでも言いましょう。誤解しないで下さい、私たちは、別に悪いことをしてお金を回しているのではありません。しかしことにこういう大変な時に、私たちの教会の外から、献金で、あるいは融資で支援してくださった方々のことは、決して忘れてはいけないと思っています。ただそういう状況の中でも、ことに充江先生が、最近、日々の伝道者生活を喜んでいるのをお気づきの方もあると思います。

これまでカリフォルニアの星教会のメンバーは学生さんが多かったし、学生さんは卒業し、仕事に就き、献金が出来る頃になると帰国します。あるいはアメリカに残ってくれたけれど来なくなったという人もおります。また日本からの駐在で来る方々もいますが、駐在の方々は、やがて帰国します。伝道する対象が日本と比べれば少ない上、日本人はキリスト教会にあんまり興味を持たない、そして人の移動が激しい、ということは、つまりカリフォルニアの星教会は、なかなか人数的にも、経済的にも成長のしにくいタイプの教会みたいであります。ただ、そういう中でも、借金は返済し、ミニストリーは継続しているということはいささかの前進ではないでしょうか。

何故、私たちがそういう状況でも喜べるか、それはどういう信仰が、主に喜ばれる信仰かが分かっているからだと思います。ですから皆さんにもそれを知って頂きたいのです。どうしてかと申しますと、私たちの人生は、いつも順風満帆ではありません。しばしば困難がやってきます。その困難な時をいかに乗り切るかが、人生の鍵だと思うからです。

テキストの記事は、マタイ伝にも並行記事があります(マタイ18章)。マタイ伝の記事では、「天の御国では」と、天国での身分の格差のように読めますが、ルカ伝の、「自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった」と言う場合、これは,この地上における格差と捉えるべきでありましょう。そういう議論に対して、イエス様は、「このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です。あなたがたすべての中で一番小さい者が一番偉いのです」と言われたのです。

主はこの世の立場はどうであっても、主に対しての思いが、まっすぐな人を喜ばれます。ですから私たちは、主に喜ばれるために、その心の思いを、いつも主に対してまっすぐに保ちましょう。

まず最初に覚えていただきたいことは、人間の思いというのは年齢によって、つまり時間の経過に従ってサタン的な力に影響されやすいということです。

テキストでは「さて、弟子たちの間に、自分たちの中で、だれが一番偉いかという議論が持ち上がった」とありますが、ここの「持ち上がった」に該当する、エイセールセンという原語は(エイセルコマイ)、新改訳の欄外にもあるように、直訳すると「始まった」ということですが、エイスという語が、「−の中に」という意味であり、 エルコマイが「来る」という意味からもうかがえるように、「入ってくる」という意味なのであります。これは先にも申しましたように、この世のことであります。それまでに弟子達の中にこういう議論はなかったでありましょう。ところが彼らが弟子団に加わり、しばらく主と一緒に伝道の旅に出ておりますと、いつしかこういう議論が入ってきたのです。これは言うまでもなく、この世において、サタン的な力が働いているからであります。

このサタン的な力というのは、時間の経過と共に、非常に巧妙に働きますので注意が必要です。時間の経過と共に影響を受けるのならば、人間で言えば、年齢と共に、影響を受け易いということです。ところがいくら生まれたばかりの赤ちゃんでも、人間は罪の中に生まれておりますから、そのままでは必ず時間の経過と共に影響されてしまうのです。

私共のように精神的なことを扱う仕事についているものは、虚栄心や名誉欲に弱いものです。何故かなら経済的な豊かさの競争とか、この地上での出世という競争を、原則として捨てているからです。弟子達は、おそらくそういうことから、この名誉欲にかられたのでありましょう。

実は、少なくとも私たちにもそういうことがありました。私たちがここサンホゼで開拓を始めた1980年代というのは、いわゆる「教会成長」ということがしきりに言われた時代でした。そしてクリスチャンが少ない日本でも、いくつかの教会は、それなりに成長したのですが、どこの教会でも同じように成長するわけがありません。勢いそれなりに成長した教会や牧師から見れば、成長しない教会はダメな教会、ダメな牧師と見られたりし、またその頃から、「XX人以上の教会の牧師のセミナー」というようなセミナーももたれ始めました。牧師版ロータリー・クラブかライオンズ・クラブでありましょうか。牧師のセミナーに来る講師は、「ン千人教会の牧師」という宣伝ばかりでした。日本のちょっと成長した牧師の中には、「100人以上の教会を牧会している先生しかよばない」と高言する人もいたようです。こういう評価の仕方では、北海道や九州、あるいは東北や山陰というような、統計的にも、「いわゆる」大教会には発展しにくい地方都市に遣わされ、開拓や、開拓同然の働きをしている伝道者は不利です。けれど主は決して、そういう評価をなさらないということを知るべきです。

このサンタクレラ・ヴァレーに生きる皆さんにとっても同じです。ここはハイテクの町ですから、高身長かどうかはともかく、高学歴、高収入の人が多いですね。そしてロスアルトスヒルやサラトガ界隈に邸宅を持ち、メルセデスとかBMWに、あるいはせめてレクサスに乗りたいと願う人は多いでしょう。これは収入や暮らし向きにおいての競争です。実は、これがサタンが入り込んできている実情なのです。それは、そういう競争の方に目が行っている人たちは、なかなか主のもとに来ないからです。また、こういう競争では、まず時間給で働いている人たち、貧しいブルー・カラー・クラスの人、離婚した人、仕事のない人、病気の人などは、「生きている」という存在そのものからさえ除外されてしまいます。つまりカヤの外ということです。

弟子達はあちこちの伝道から戻ってきたところですから、それぞれの伝道成績を比べることとなったのでしょう。現在、テレビでは司馬遼太郎原作の『功名が辻』というドラマをやっています。戦国時代では、戦でどれだけ手柄(功名)を上げられるかが、出世の鍵であったようです。その功名というのは、敵方のクビをいくつ挙げたかによるようです。まったく野蛮な時代があったものです。人は、時間の経過とともにサタンの影響を受け、誤った競争に巻き込まれていくのです。イエス様の弟子達は、どういう功名で、競っていたのでしょうか。愚かしいことです。それは競うことではないのですね。

第二に覚えてもらいたいことは、それに反して、生まれてから時間が経っていない子供は、往々にして主に対して心が真っ直ぐだということです。

テキストは、「しかしイエスは、彼らの心の中の考えを知っておられて、ひとりの子どもの手を取り、自分のそばに立たせ」と言います。

今日の子供は、「知らない人とは、話してはいけない」「知らない人について行ってはいけない」と教えられています。昨今の危険な状況ではいたし方ありません。しかし元来、子供というのは無垢ですから、「お譲ちゃん、可愛いねえ。お家は何処。オジサンもそちらへ行くから送ってあげよう」と言われるなら、その親切を素直に受け入れて乗るのです。私の子供の頃なら、自動車に乗っけてあげるといわれたら、まず誰の車でも100%乗ったことでしょう。

この個所でも、イエス様とこの子供は果たして知り合いであったかどうか? 恐らく、この子にとって、イエス様はストレンジャーだったでしょう。しかし、まずこの子はイエス様に手を取らせています。今日、ストレンジャーが子供の手を取るなら、防犯ブザーが鳴るでしょう。そしてイエス様は、この子を「自分のそばに立たせ」ておられます。周りにいる弟子達にしても、この子にとってはストレンジャーでしょう。しかしこの時、特に子供がオドオドしている様子は描かれていません。日曜学校のフィギュアーに描かれている絵では、子供が実にイエス様を信頼し、一緒にいることが楽しそうに描かれています。あれは絵なのですが、実際そういうことだったのでしょう。

先月の月例のコネクションの手紙で、教会債を募集しました。それはこの十月までという有期の債務があったからです。その額は60万円でした。30万円は教会内での献金で、5月に返済出来ました。あと有期の債務の残りは30万でした。世の中の、億というお金を動かす人たちや、いわゆるン千人教会にとっては、「なんだ、それポッキリか」ですが、私たちにとっては、非常に大きな返済でした。それがある 奇特な方によって捧げられ無事に返済し終わりました。そしてその返済が出来たことを心底喜びました。本当に「ハレルヤ」です。

実は、これが教会成長についても言えるのですね。先にあげたような地方では、一人の回心者が出ると、大喜びしますが、あるン千人教会では、「今年の受洗者はたった80人か?少ないなあ・・・」と言って、さほど感動しない傾向があるでしょう。つまりそこにはこの世の功名や、名誉が働いているからです。そうではないのです。この子供は、イエス様に手を取られ、イエス様のそばにいられることを、大喜びしているのです。最初に、「特に充江先生が、最近喜んでいる」と申し上げたのは、この点が私たちには納得出来るからです。教会のサイズではないのだということが、納得できるからです。

弟子達はどうかというと、自分達はあんなにも主と近くいたにも拘らず、そういう次元ではない、この地上での名誉のことで、議論しているのです。

普通、生まれてから時間の経っていない子供はそういうこの世の名誉や、この世の損得を考えません。すでに何度か話しましたが、私たちが結婚した当初、私たちは岐阜県下で開拓伝道をしておりました。まだ20代の若い伝道者夫婦のところにやってくる大人はなく、子供だけが話を聞いてくれました。「イエス様を信じて、天国に行きたい人は」と声をかけると、彼らは100%手を挙げたものです。子供は、普通素直なのです。(現在の子供は、なかなかこうはいかない。)ただ現在の日曜学校で、わずかいる生徒でも、献金の時になると、「お母さん、お母さん、献金ちょうだい」と言ってもらって、喜んで献げます。これが子供の特徴なのです。主は、それを喜ばれるのです。大人は、しばしば惜しみ惜しみ出したり、あるいは出さないで、自分のために使いたいと思います。

クリスチャンでも、新しく生まれた当時は、普通主に仕えることに一生懸命です。ところが時間が経ってまいりますと、知らないうちにサタンに入り込まれて、この弟子達に似た、この地上の名誉に望みをおくようになるのですね。それは一方では、主から離れていくということなのです。

そこで最後に結論的に覚えていただきたいことは、いつも主に喜ばれるために、その心を主に対してまっすぐにせよということです。

信仰がなくては、神に喜ばれることはできません(ヘブル11:6)」と言うのは、いつも真理です。「信仰」という原語は「ピスティス」と申しまして、これは「信頼」とも同じ語であります。主に対する信頼があれば、それで十全であります。お金は大切なものですが、お金に信頼する必要はありません。名誉は主から頂く時には素晴らしいものですが、地上の名誉は、信仰にとってはかえて邪魔になることがあります。クリスチャンにも、そういうこの世的な思いが入ってきますから、いつも教会に通って、主にある交わりを保って信仰を磨くということは非常に大切ですね。

テキストは、「だれでも、このような子どもを、わたしの名のゆえに受け入れる者は、わたしを受け入れる者です。また、わたしを受け入れる者は、わたしを遣わされた方を受け入れる者です」と言います。勿論子供の中には、強情な子もいます。献金でも、「すれば損だ」と考える子もいましょう。「あるいはお母さんから献金にと100円もらえば、50円だけして50円は自分の懐に入れる子もいましょう。大人になれば、もっと顕著です。まず主のもとに行くことをしたがりません。献金でチャレンジを受けるクリスチャンは沢山います。礼拝に行かないで、自分の好きなことのために時間を費やすクリスチャンも沢山います。そして時間が経っていくと、そう簡単に子供のようにはなれなくなるのです。

しかし子供は、まるで主を信頼し、手を取られるなら、そのまま委ね、そのそばに立たせられるなら、そのままにされ、しかも主と共にあることを本当に喜んでいます。財産も地位も名誉もありません。こういう子供を受け入れよと主は言われるのです。「受け入れよ」ということは、そういう信仰にも似た行動に同意し、それを自分のものとせよという意味に理解してよいとおもいます。このマナーは戦国時代の功名取り的に言うなら、なんの得にもならないことです。しかしそれをすることが主に喜ばれる信仰です。何故なら、そういう人は、「私」すなわちイエス様を受け入れる者であり、イエス様を受け入れる者は、「わたしを遣わされた方」すなわち、「天の父なる神」を受け入れる者だから、と言われるのです。

自分を高くする者は、普通世の中の、貧しく、弱い、卑しいとされている人たちと付き合うことは恥と考える傾向があります。自らを卑しいと考える者は、そういう人たちと交わり、そういう人たちに仕えることをよろこびとします。これが主に対して、まっすぐな信仰です。

実は、日本で百人の会員を数える教会というのは、大きな教会の部類に入りますが、そういう教会の先生方の中でも、いく人かの先生は、教会の規模でいうならまるで格違いの私と、全くフランクに付き合って下さいます。その中には、高壇で説教までさせて下さいます。全くこういう先生方や、教会には頭が下がります。ですから、私はもうちょっとお金があったら、日本の教会の中でも苦労している地方の小さな伝道所の若い先生を、招きたいと思います。アメリカのある伝道者に以前、「来てもらえないか」と尋ねたら、すぐさま「どれくらい人数がいる」と言った人がいました。明らかに「どれくらい献金が期待できるか」という思惑が見えました。いっぺんに来て欲しくなくなりました。

貧しい、体が弱い、仕事がない、安月給、ブルー・カラー、離婚、別居、犯罪歴がある、と言ったことはこの世ではハンディーがあるにせよ、主に喜ばれ、主によって「一番偉い」とされるには、そういうハンディーは、全く関係ありません。子供のように、100%の信頼をもって、主の元に行き、どんな状況であっても、主にくっついてはなれない信仰を持っていることが、主によって、「一番偉い」とされる信仰者です。

地上の名誉や世的な良い暮らし向きは、そういう信仰からあなたの心を離すことはあっても、それが信仰を育むことはないでしょう。目を、子供に向けましょう。財産も名誉も何もない、それでいて、主に手を取られるままに動き、主が言われる通りに、主の傍らに立つ子供の信仰です。それが、主から「一番偉い」と言われる信仰です。

祈りましょう。