2006年7月23日
『最優先すべきもの』 ルカ10:38-42
10:38
さて、彼らが旅を続けているうち、イエスがある村にはいられると、マルタという女が喜んで家にお迎えした。
10:39
彼女にマリヤという妹がいたが、主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた。
10:40
ところが、マルタは、いろいろともてなしのために気が落ち着かず、みもとに来て言った。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください。」
10:41
主は答えて言われた。「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
10:42
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません。」
今朝の話は、クリスチャンになって間もない人には、当然新しい話でしょうが、少し信仰生活をした方なら「またあの話か?」と思う話ですね。つまりよく知られた話で。ですから信仰を持って3年位した方は、「そんな話がありましか?」などと言わないようにしましょう。
イエス様が、マルタとカリヤのところをお訪ねになりました。テキストにはそこがどこかとは書いてありませんが、ベタニヤという所です(ヨハネ11:1)。ベタニヤは、エルサレムからほんの3キロくらい、オリーブ山の東側だそうです。エルサレムという名前が有名ですから、まったく別の場所かと思いきや、今日の感覚では、まったくエルサレムの一部ですね。大体城壁に囲まれた旧エルサレムというのは、ほんの小さな区画で、その外にずっと新しい市街地が広がっているのです。
そこへ、イエス様が来られたのです。ところが、マリヤはイエス様のそばに腰を下ろして、イエス様の話を聞いていた、一方マルタは接待に忙しくしていたのです。そのうちにマルタはプッツン来て、「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください」と、叫んでしまいました。するとイエス様は、「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。 しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」と言われました。
ここから語られるメッセージの多くは、「優先順位」というアプローチが多いと思います。つまり、「マリヤはその良いほうを選んだのです」と言う点から、「人間にはいろいろやることがあるかも知れないが、その時その時にやらねばならない大切なことは多くはない、否、一つである。マリヤは、その大切なほうを選んだのだ」というアプローチです。
勿論そういうことなのですが、今朝は、ここで言われている「どうしても必要なこと」が、どれくらい大切なものかに焦点を当てて考えてみたいと思います。
神の言葉は永遠の命に関わっていますから、私達この神の言葉に関することを、最優先すべきです。
さてマリヤについてですが、新改訳では「妹」となっていますが、これは厳密に言えば推測の翻訳でしょうね。ヨハネ11章では、ラザロという兄弟もいます。大体の場合、彼は弟と紹介されています。これも厳密に言えば、推測です。ですからヨハネ伝では、「兄弟」と訳されています。アデルフェーと言う語も、アデルフォスという語も、英語のシスター、ブラザーのようにそれぞれ姉妹、兄弟という意味ではありますが、日本語のように、直ちに妹、弟と訳しません。ヨハネ11章では、「兄弟」と正確に訳していますが、ここではマリヤを「妹」と訳しています。しかし、まあ、おそらく色々な状況から妹だったと理解していいでしょう。
ここでマルタの行為を、つまらないことと評価するのは妥当ではありません。「彼らが旅を続けているうち」とあるのは、イエス様の一行ですから、イエス様と12人のお弟子さんです。そのあとは、殆どはイエス様が中心で、単数扱いですが、それは直ちに、ヨハネ4章のごとく、弟子達はどこかへ行っていたとか、遠慮してぞっと外にいたと理解すべきではないでしょう。ラザロの名前がありませんが、もしかしたらそこにいたかもしれません。これが単数で書かれているのは、イエス様がリーダーだったからでしょう。十分考えられることですが、それらの人々全部を数えると、マルタを含めたら総勢16人の食事を準備することになります。これはマルタにとっても大変なことです。マルタはマルタなりに、一生懸命やっていたのです。
これは余談ですが、礼拝のあとのランチの準備は、もう御言葉の時は終わっていますから、お客様はともかく、カリフォルニアの星教会の皆さんは手伝いましょう。
まず第一に、確認しておきたいことは、物事には優先順位があるということです。スーパーマンではありませんから、人間はあれもこれも一度にはできませんね。また人間の一生は、普通は79,80年, よくいって90年でしょう。その間にだって優先順位があります。結婚したばかりのご夫婦が、「そろそろお墓の準備をしておかないと」とは、普通は言わないでしょう。「そんなに急いでお墓なんて買って…・自分達の家を買うことを先に考えたほうがいいんじゃないの?」「いいえ、いいえ、急いでなどいません。ボチボチ買ってるだけですから」????
お年寄りはお年寄りで、たとえば、70歳くらいのお年寄りが「これから予備校に入って、大学を目指す」「そりゃ、学問に年齢制限はないですが、ちょっと遅いんじゃないですか?若いころは何をなさっていたのですか?」「若い頃はやりたい放題、趣味もあったよ、長唄に都都逸、盆栽。学校の勉強は全くしなかったから、やっぱり年をとったら、勉強しないとねえ」 「それで大学へ入ってどうなさるのですか?」「アメフト部に入るのよ」「それで大学をを出たらどうなさるのですか?」「就職試験を受けるのよ」「どちらの会社でしょうか?」「天国の会社」…・・聖書には、「天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある(伝道3:1)」とあります。
1日の仕事でもそうです。これから汗流して作業しなければならない時に、シャワーを使ってさっぱりする人は、普通はいないでしょう。両方とも大事なことには違いない。けれどもその時に、何を優先すべきかということがありますね。ところが、何を優先すべきかということについては、しばしば人は気がつかない間違いをしております。
マリヤの選択は、イエス様から、「マリヤはその良いほうを選んだのです」と言われていますが、マリヤは本当に、イエス様の話を聴くことがそんなに大切だと分かって、それを選択したのでしょうか? いいえ、そうではないでしょう。マリヤが、それを選んだのは、全く聖霊様のお恵みです。皆さん方が、イエスさまを信じたのだって、これは聖霊様の導きです。これがこの世の優先順位とはちょっと違うところと思います。この世の優先順位は、間違うと結果を大体予想できますが、マリヤは良いほうを選択した時、つまりイエスさまの話を聞くという時、それがどれほど大切な選択だかは、分からなかったと思います。実は、それを知らせることが、イエス様の使命でもあったのです。
第二に、なぜそれがそんなに大切な選択だったか? それはイエスさまが父なる神と一体だからであります。テキストでは、マリヤは「主の足もとにすわって、みことばに聞き入っていた」のです。そしてそれは、「取り上げてはいけ」ないものだったのです。
ブッシュ大統領の名代で、誰かがあなたに会いに来ると分かったら、あなたはそれなりの準備と心構えをするでしょう。イエスさまと父なる神は一体なのであります。神が生きておられるお方であるということは、人々にはなかなか理解しがたいことでした。当時の人々でも、イエス様が、不思議な力を発揮なさるお方としては認めておりましたが、この方が、天地万物をお造りになった父なる神と一体であるとは、なかなか理解できなかったでしょう。ましてや生きておられる神が、粗末な人間の姿になられていることを理解できる人は、おりませんでした。今日でも、あの十字架にお架かりになった方が神であり、死なれた後、三日目に復活なさり、今も生きておられるということを、信じられる人は、全く聖霊様のお力が働いた人たちだけです。今日は聖霊さまの時代です。イエスさまは天にお帰りになり、父と子と一体なる聖霊様が聖書を通して働いておられます。ですから、聖書から語られる時、それは生ける神がお語りになっていると理解するのです。けれどもこれは、なかなかすべての人々には理解しがたいことですが。
ある時、ある中学生が、「日曜には教会学校に行きますから…」と言ったら、学校の先生が、「教会学校も大事かもしれないが、中学生になったのだから勉強が忙しいはずだ。ひとまず宗教に関する勉強は休んで受験勉強に励んだほうがいいのと違うか」と言われたそうです。決して悪気があってではありません。仕方がありません、この先生は、生ける神のことも、真の教育のことも分からないのですから。こういう先生は、日本ではごく普通の先生です。しかし、真に教育が分かる人は、「主を恐れることは、知識の初めである(箴言1:7)」という意味が分かるでしょう。19世紀イギリスが生んだ偉大な詩人、アルフレッド・テニスンは、「聖書を読むこと、その事が教育なのである」と申しております。
日本は教育の大切さを知っている国だと思います。しかし、教育の中心に生ける神がおいでにならない、神を恐れることを学んでいない、それが知識偏重の教育の問題です。
ですから小さいお子様をお持ちの親達よ、よくお聞き下さい、学校の勉強が忙しいから、教会学校を休ませるなどというのは本末転倒です。教会学校では、生ける神の御言葉を学ぶのです。神を恐れる人間になるようになることが大切です。神を恐れない人々は、「お釈迦様でも気がつくめぇ」と言って悪を行ないます。お釈迦様は生きておられないので、気がつかれないでしょうが、神は、生ける神です。その全てを覚えておられて裁かれます。勿論、教会学校に送っておけば良いと言うわけではありません。家庭でも生ける真の神に関する知識を教えることが大切です。御言葉を教えることなしに、生ける神なる聖霊様がその魂の内に働きかけるということはありません。生ける神は、「わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵を千代にまで施すからである(出エジプト20:6)」と言われましたが、あなたが恵を、子々孫々にまで伝えたいと思うなら、どうぞ生ける神の御言葉を通して、生ける神と関係を保たせるようにこころがけてください。
第三に、ここが大切なポイントです。神の言葉は、私達人間の永遠の命に関わっているから、優先すべきだということです。
まず詩篇89:28で神は、「わたしの恵を、彼のために永遠に保とう。わたしの契約は、彼に対して真実である」と言って、神が子イエス様を通して恵を永遠に注ぎ、イエス様を通して契約が真実に履行されることを伝えます。ヨハネ10:28でイエス様は、「わたしは彼らに永遠のいのちを与えます」と言われました。これはイエス様の声を聞き分けた人達に対してです。
イエスさまは、毅然とですが優しくマルタに諭されています、「マルタ、マルタ。あなたは、いろいろなことを心配して、気を使っています。
しかし、どうしても必要なことはわずかです。いや、一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです。彼女からそれを取り上げてはいけません」と。
イエスさまの御言葉を聴くということは、永遠の命に関係しています。お医者さんが、手術後の薬のこと、やっていけないこと、やっていいことなどを話そうとしています。「そんなことはどうでもいいですから、治った人には私の方を手伝わせてください」とは、言わないですね。
イエスさまは、公生涯の初めに、サタンの誘惑に遭われた時、「人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる」という申命記8:3の御言葉をお用いになりました。実に不思議なことですが、父と子なるイエス様は一体ですから、イエス様の言葉は神の言葉であって、それが私達に永遠の命を約束しているのです。ヨハネ3:16には、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちをもつためである」とありますが、これはイエスさまが直接的にはニコデモに、普遍的には私達にお話になった、約束であります。「ひとり子」というのは、イエスさまです。「お与えになった」というのは、イエス様が私たちのために十字架に架かられたということです。その十字架にかかられたイエス様を「信じる者が」、「永遠のいのち」を持つという約束です。
これを聴こうとする人がいる時、「宗教の話は…」と愚かなことを言わないほうが賢明です。「宗教の話」は、命には関係しないでしょうが、イエスさまのお語りになる言葉は、生ける神の言葉であって、私達の永遠の命に関わるからです。
ですから、イエスさまの話を聴こうとする人々の思いをとどめる力、聴く場所に行こうとするのととどめる力、話してくれる人を、来させないようにする力など、それらはサタン的な力とでも言えましょう。マルタは決して悪気があって言ったのではありません。しかし、この永遠の命に関わるイエスさまの話をさておいて、優先することなどありません。
この時はともかく、今日では、イエスさまはすでに死んで復活し、ご自身が神であることを証明しておられます。生ける真の神のみ言葉の約束を信じて、まず永遠の命を自分のものにしましょう。イエスさまは、永遠の命のことなど考えず、財産をためることに一生懸命になっていた愚かな人に言われました、「愚か者。おまえのたましいは今夜おまえから取り去られる。そうしたらおまえが用意したものは、いったいだれのものになるのか」と(ルカ12章)。主の下さる永遠の命のことなど、そっちのけで、お金儲けや、快楽や、ふしだらな生活、怠惰な日々を送っている人達がおります。この世の快適な暮らしや、地位や名誉を求めることにせいを出している人もおります。優先順位が違うのです。その魂が取り去られる時、主の教えられた最優先事項を思い出すに違いありませんが、その時にはもう遅いのです。その時というのは、人間は生身ですから、いつか分かりません。ですから、生きている間に最優先事項を最優先させましょう。それはイエスさまが主であると知ること、そして主の御言葉の約束から永遠の命をいただくことです。
祈ります。