2006年7月30日


『しきりに祈るなら』 ルカ11:1-13

11:1 さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」

11:2 そこでイエスは、彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ。御名があがめられますように。御国が来ますように。

11:3 私たちの日ごとの糧を毎日お与えください。

11:4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。』」

11:5 また、イエスはこう言われた。「あなたがたのうち、だれかに友だちがいるとして、真夜中にその人のところに行き、『君。パンを三つ貸してくれ。

11:6 友人が旅の途中、私のうちへ来たのだが、出してやるものがないのだ。』と言ったとします。

11:7 すると、彼は家の中からこう答えます。『めんどうをかけないでくれ。もう戸締まりもしてしまったし、子どもたちも私も寝ている。起きて、何かをやることはできない。』

11:8 あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう。

11:9 わたしは、あなたがたに言います。求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。

11:10 だれであっても、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます。

11:11 あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。

11:12 卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。

11:13 してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。」

 

日本語では、「ご多幸をお祈りしております」とか、「繁栄を祈ります」という言葉は、どちらかと言うと慣用語と申しますか、あまり注意して使われている感じはしないですね。と申しますのも、「・・・・お祈りしています」という語には、普通「・・・に」という祈る対象を表す補語を必要としますが、(つまり「神に祈ります」という具合です)日本語の慣用語での「祈ります」には、この祈る対象の補語がまずありません。言われた方も別に気にもしていないようです。

けれども、私の場合は「祈っています」と言った場合は、勿論、「天地万物の父なる神に」祈ります。別れ間際や、手紙の最後に、「祈っています」と言ったり、書いたりすることがありますが、私は「あとで祈る」となると忘れることがあるので、言ったり、書いたりしたら、即、短くても祈る習慣にしています。

ここでは、弟子達がイエス様に、祈りを習っています。

今朝は、祈りについて御言葉から学んで主を崇めましょう。

筋の通った祈りは父なる神に聞かれます。ですから、私どもはっ筋の通った祈りをしきりにすべきであります。

「筋が通った」と申しましたが、何が筋が通っているかの第一は、当然、誰に祈るかであります。日本の政治家などが、テレビで「天地神明に誓って・・・」などと言いますが、誓っている当人も、その「天地神明」については、分かっていないのですから、これは当てになりません。私たちが祈る時は、イエス様がテキストでもそう教えておられるのですから、「父よ」と、祈る対象が、「父なる神」でなければなりません。この個所は、いわゆる『主の祈り』であって、イエス様が弟子たちに、祈りの見本を教えられたところであります。マタイ伝6章にもありますが、両方とも、私たちが普通最後に言う、「イエス様のお名前で祈ります」がありません。というのは、祈りについても、聖書の一箇所だけでなく、全体を踏まえて理解することが大切だからです。ヨハ16:23 でイエス様は、「あなたがたが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります」と言われています。ですから、私たちは、イエス様のお名前で祈るのです。それから、呼びかける時、「イエスさま」とか、「聖霊さま」という人たちもおりますが、三位一体の神をきちんと理解した上で、時として「イエスさま」とか「聖霊さま」と言うのは」構わないですが、そういう風に呼びかける人たちは、時々三位一体の神に対する理解がナイーブで、そうしている場合がありますから、注意が必要です。基本的には、「父なる神に」、「イエス様のお名前を通して祈る」のです。つまり筋の通った祈りの基本原則は、「父なる神に」、「イエス・キリストの名によって祈る」祈りであります。

また私たちが祈る『主の祈り』には、「国と、力と、栄とは、永久までに、汝のものなればなり」という、いわば頌栄がありますが、これは後代に付け加えられたものでしょう。しかし、この頌栄は、祈りったあと、自然と出るたぐいの頌栄ですし、聖書の原則から外れているわけではありません。ですからそう胃負ってよいですし、なくなることはないでしょう。

それからマタイ伝のことを話しましたのでついでに話しますが、時々、「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる(マタイ6:8)」を引っ張り出してきて、「主は、祈らなくても、すでに我々の必要を御存知です」と言う人たちがおります。けれども、それは、この御言葉の前を見ると、「祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません」という部分を考えない乱暴な解釈です。なるほど異邦人の祈りは、祈る対象が違いますから、父なる神は、どれだけ祈ってもお喜びになりません。エリヤとバアルの預言者が祈り比べをしたことを思い出してください(1列王18章)。彼らは狂ったように、バアルの名を呼びました。それに対して、エリヤは主に、殆ど一言祈っただけです。それで天から火が下ったのです。

ですから「父なる神」が、「あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる」といわれるのは、異邦人のような偶像の神にではなく、天の父なる神に対する確固たる信仰であります。この信仰に立っての祈りなら、何度も同じことを繰り返して祈ってよいに決まっています。そうでなければ、どうしてこのあとに、「しきりに祈ること」の重要さが教えられている意味がありません。プロテスタント諸教派の中にも、伝統的に祈りの熱心な教派とそうでない教派があります。我々のようなペンテコステ派は、大体前者です。私たちは異言でも祈りますから、それをさして、「同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです」などと意地悪を言われることがあります。けれども繰り返しですが、それは「異邦人のように」であって、私たちペンテコステ派は、異邦人のようには祈っているのではありません。大体、一度だけチョロっと祈って、もうそれで祈りはOKだなんて、イエス様があれだけ熱心に祈られたこととも調和しません。

「主の祈り」は、祈りの基本中の基本です。だからと言って、この基本の祈りだけでよいというものではありません。これを暗唱することは大切ですが、昔は、これを暗唱すればそれで卒業となってしまって、歴史的にもまったく心が伴わないことが多かったのです。韓国のチョー先生が、かつて『主の祈り』を基本にした、一時間の祈りというものを奨励していましたが、あれは幸いでした。チョー先生も言っておられましたが、やはり5分や10分の祈りで、それでおしまいというのはどうかと思います。

さて、そうしてみますと、筋の通った祈りというのは、「父なる神に」対する祈りであるばかりか、熱心にしつこいくらいに祈ることとも言えます。

テキストは、次のように言います。「あなたがたに言いますが、彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう

これは、驚くべき執拗さです。まずここでは、この人は、その友達の家には、パンのストックがあると確信していたと思います。あるかどうか分からないのに、訪ねるなどというのはナンセンスです。やっと出てきたのに、「いや、悪いなあ、パンはちょうど切らしているんだ」と言われたら、目的は達せられないのですから。

これはよく聞くことですが、私たちの父なる神は豊かな方です。私たちの父なる神は、なんでもお出来になる方であります。私たちの父なる神は、すべてを知り給うお方です。しかも私たちに、この父なる神に対する信仰があれば、彼を「友」と呼ぶことも、「アバ父よ」と呼ぶことも出来る近さのお方なのであります。ですから、「夜だから、たたき起こすのは失礼ではないか」と考える必要はないのです。早天で祈っても、真夜中、徹夜で祈っても、「主に気の毒だから」などと思わなくてよいのです。

しかも考えていただきたいのは、この人が、パンを求めているのは、自分のためでなく、主として、その訪ねてきた友人の故であります。ヤコブ4:3には「願っても受けられないのは、自分の快楽のために使おうとして、悪い動機で願うからです」とあります。自分の快楽や、自分の名誉が下心にある祈りは問題ですが、その動機が主の前に純粋な祈りならば、どれだけしきりに求めてもよいのです。

「祈り」というものは何らかの行動を呼び起こします。昔、何かの本に出ていた話ですが、リンゴが欲しい時、リンゴの木の下に行ってひざまずき、「主よ、どうぞ私にリンゴを下さいとは祈らないでしょう。立ち上がって、リンゴをもぎるでしょう」とありました。「主よ、夫を救ってください」という祈りなら、何とか夫に福音を伝えることをするでしょう。宣教師のために祈れば、「今、彼らは困っていないか。献金を送ろうか」とか、何かの行動になってくるでしょう。「子供が信仰深く、神と人に愛される人間に育ちますように」と祈りながら、殴るは蹴るは、挙げ句の果てに殺してしまうなどということは出来ないはずです。

信仰の祈りというものは、真実な人生であります。真実な人生は、真実な者に向かって懸命であります。チンタラ、チンタラの人生、あるいは主のことなど知らんふりで、この世の楽しみばかり求める人生でも一生は終わります。しかし、それは決して主の喜ばれる人生ではありません。

この人は、執拗に主にくらいついています。この姿勢が大切であります。

さて、そのように執拗にくらいついていくと、どうなるでしょう。聖書は、「彼は友だちだからということで起きて何かを与えることはしないにしても、あくまで頼み続けるなら、そのためには起き上がって、必要な物を与えるでしょう」と言います。

これは、実際そうです。この世の理屈ではなく、信仰の理屈ですと、本当に願っているようになるのです。裏を返せば、願わなければならないということです。この真理と申しますか、この現実は、いたるところで実証されています。聖歌706に、『エリコの城をかこみ』という、霊の戦いの歌があります。あの5節は、「もうだめだという時に、悪魔はすぐつけこむ。信じ抜かば、勝利を得ん。祈り抜け、祈り抜け」と歌います。「どうせ、だめだから」「ダメに決まっている」というのは、そう言う、不信仰という信仰なのです。人間生身の動物ですし、弱い存在ですから、そう思うのは仕方がありません。しかし、それを口に出すのは、大体の場合、問題でしょうね。

何故かと申しますと、テキストのその次を見てください。そこに「あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」とあります。

今の時代は、自分の子供にひどい仕打ちをする、悪徳な親がおりますが、常識的には、悪い親でも、自分の子供には優しくするものです。そういう罪にまみれた親でも、子供には良いことをするなら、罪にはまったく関係のない、人間の創造者の父なる神は、それ以上のことをしてくださると期待してよいということです。そして、「聖霊」を下さるのです。マタイ伝では、この個所は「良いもの」となっています(7:11)。事実、祈ったら良いものが与えられます。ただ、祈ったら必ず、それが御心で、その通りになるかというと、そうでもない時があります。映画『塩狩峠』で、不二子さんは、永野さんが結婚のための結納の日に、突然殉職した時、「御心がなるって、つらいことですね」と申します。そして、その最後で信夫の母に「不二子さんは、信夫の信仰を受け継いで生きていくと言われました」と言わせております。人生には困難がありますが、どんな困難が打ち寄せても、決して揺るがない確固たる信仰は、まさに与えられた聖霊によります。これが、祈りによって与えられる賜物です。信仰を持っても、2−3年でなくなってしまうのが日本のクリスチャンだそうですが、その理由の一つは、祈りの不足ではないかと思います。神は、もっと、もっとあなたという生きた霊を持った魂と、親密にお交わりしたいと願っておられるのです。もっともっと祈るべきです。

またこの個所は、私たち聖霊教団には非常なサポートとなる御言葉です。聖霊のバプテスマを求めていた人たちは、熱心に祈っていたのです。(使徒1-2章) この聖霊が良いものでないわけがありません。実に、この弟子達の熱心な祈りの結果、聖霊が与えられ、その力が、世界伝道へと広がっていったからです。聖霊のバプテスマというものは、普通、しきりに求めて祈らないと与えられないものです。病人が「治りたい」という願いを持つのと同じように、聖霊のバプテスマも、「欲しいのです」という願いを持って、熱心に祈ることが大切です。

祈ったら、どうのようにして、その祈りが答えられるか? あなたは、そのメカニズムをお知りになりたいと思いますか?それは考えれば考えるほど、神秘でしょう。イエス様が盲目の人の目を開けられた話がヨハネ9章にあります。律法学者達は、いかにして目が開かれたのか、このかつての盲人に尋ねます。するとかれは、「もうお話ししたのですが、あなたがたは聞いてくれませんでした。なぜもう一度聞こうとするのです。あなたがたも、あの方の弟子になりたいのですか9:27)」と言います。

何年か前、この教会にも来たことがある、シージャー(Seizure 脳卒中的発作)の病歴のある、S君という青年がいました。ハーヴァート大病院で成功率60%位の手術を受けるために、ボストンに行きました。ハーヴァート病院では、教授陣も忙しいスケジュールですから、いい加減な検査でシージャーと診断された人が送られてくるはずがありません。カリフォルニアでも何度も検査を受けて、間違いなくシージャーだったので、ハーヴァート病院へ送られたのです。そして、唯一の助かる可能性がその手術だったのです。しかし、失敗すれば、半身不随で、喋れなくなるといわれていました。ボストンでもう一度術前の検査を受けました。ところがどうしたことでしょう。シージャーの異常が全部消えていたのです。あの時は私たちも、本当にビックリしました。ボストンにはお母さんが付いていきましたが、懸命に奇跡が起こるように、断食して祈ったそうです。まさに奇跡です。そのメカニズムは、説明のしようがありません。

カリフォルニアの星教会が、ここまで来たのも、私たち夫婦は、奇跡の部類に入ると思っています。21年前、私たちがここに来た時には、何もありませんでした。それが今、おそらくミリオン以上の資産価値をもつ会堂を持っています。私たちは、開拓の初めから、「必ず自分達の会堂を持つ」というヴィジョンから目を離すことなく、祈り続けました。主が、よいもので満たしてくださったのです。

祈ってみることです。執拗に、長く祈ってみることです。それで祈りが叶えられたら、「ハレルヤ」と叫びましょう。ただ時々、人は自分が願った通りにならない時、「神は私の祈りを聞いてくださらない」と申します。けれどもその前に、「御心がなるように」と祈っているではなりませんか。御心がなります。祈ることで、人は信仰者として、整えられるのです。

最後に大事なことです。昔、もう故人ですがアシュラムという祈りの運動をなさっていた榎本先生という方が何かに書いておられました。この先生が属しておられた日本キリスト教団に(この教団は、個教会はともかく、全体として祈祷にはあまり熱心な教団という評判はありませんでした)、祈祷対策委員会とかいうような委員会が出来て、会合をもったそうです。そして結論として、「祈らねばならない」と結論して散会したそうです。この話を聞いた榎本先生(この先生は、よく祈る先生でした)は、苦笑しながら「祈りは話し合ったりすることではなく、することです」と書いておられました。その通りです。今朝の話をただ聞くだけでなく、あなたの必要に応じて、熱心に祈ってごらんなさい。チョロチョロと2−3分だけ祈るのではなく、長く執拗に祈ってみてください。そしてその結果があらわれたら、お証詞してください。全能の父なる神に期待して、懸命にしつこく祈ることです。主は、必ず良いもので、満たしてくださいます。

祈りましょう。