2006年8月6日


『真に富む者』 ルカ12:13-21

12:13 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。

12:14 すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」

12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

12:16 それから人々にたとえを話された。「ある金持ちの畑が豊作であった。

12:17 そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』

12:18 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。

12:19 そして、自分のたましいにこう言おう。「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」』

12:20 しかし神は彼に言われた。『愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか。』

12:21 自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです。」

先日、テレビを観ておりましたら、「株取引のセミナーがあるから参加しませんか」という宣伝がありました。その宣伝の中の成功例のひとつとして、なんと小学生が、お父さんから1000ドルを借り受け、それを元手にして株取引をし、今24000ドルになったということを話していました。しかし小学生が、コンピューターの前に座って株取引をしているというのは、どうも考えてしまいます。何かその年齢では、別にやることがあるようにも思います。けれども更に驚いたことがあります。その少年は 「この調子でもうけて、18歳になったらアーリー・リタイヤメントだ」 と言ったのです。まだ小学生ですよ。

原則として事業をして利潤を上げるのは、何も問題ありませんが、普通人間は富が増すごとに罪を犯しやすくなることも事実であります。富が増えるに従って、神を忘れる、あるいは貧しい人たちを思いやる気持ちが失せる、平安の源を、神ではなく、富に求めるようになるからです。これらは、すべて罪の根本的なものであって、まず殆ど例外なしに、富が増すに従って生ずるものなのです。

神は、我々が神に対して富む者をなることを願っておられます。ですから、一瞬にして無に帰するこの世の富に目を奪われるのではなく、神に目を留めるものとなるべきです。

私たちは、イエス様のパブリック・ミニストリーについて、ルカの福音書から御言葉を聞いております。ミニストリーですから、教えがあるのは当然で、ここでもまた、真に富むということは、どういうことかを譬を使って教えておられます。出鱈目な方法で、富んでも意味がありません。極端な例ですが、例えば北朝鮮では、国家をあげてセッセとニセドルを印刷したり、覚醒剤を製造してお金を得ているようです。こういうのは、出鱈目な儲け方です。女子高校生が、売春で月に100万を超える額を稼いだとか、ニュースは報じていました。これも出鱈目です。ホリエモンさんとか、村上さんとかいう人たちも、出鱈目の部類にはいるでしょう。

真に富むということは、神に対して富むことであります。テキストは、「自分のためにたくわえても、神の前に富まない者はこのとおりです」と、神の前に富まず、自分のために富むものの哀れを述べています。

創世記でアダムに宣告された呪いを、労働そのものに対する呪いと受け取るべきではありません。むしろそれは労働に伴う労苦や困難のことであり、また地が呪われたために人間が経験する欲求不満であります。労働そのものは神聖であります。パウロも、2テサロニケ3:10 で「私たちは、あなたがたのところにいたときにも、働きたくない者は食べるなと命じました」と言っています。神は、それぞれの人々のタラントに応じて、仕事をするように配慮なさっております。してみると仕事は、神の召命そのものであり、宗教改革者カルヴァンも、「一人一人の暮らしは、主によって配置された持ち場のようなものであって、これによって生涯の全行程を無思慮にさまよわなくてもよいようにされているのである」と言っています。持ち場(仕事)を離れるなら、彷徨うのですね。日本では、近年、フリーターと言いますか、アルイバイターといいますか、何になるというではなく、時間つぶしに、気ままにその日暮らしのお金を稼いでいる人たちがおりますが、私としてはこの傾向は何とかならないものかと思います。

このイエス様の譬に出てくる男はどうでしょう。テキストでは、「ある金持ちの畑が豊作であった。そこで彼は、心の中でこう言いながら考えた。『どうしよう。作物をたくわえておく場所がない。』 そして言った。『こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう。そして、自分のたましいにこう言おう。『たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ』」とあります。

  この人は、すでに金持ちなのですね。大地主だったのでしょうか?金持ちは、どうして金持ちか?その理由のひとつは、ケチだからです。前にも話しましたが、金持ちはまず自分に見返りがないもののために金を出すことがきわめて嫌いですね。つまりケチです。入ってきたものは出さないのですから、金持ちになるのです。皆さんの中で、将来結婚しようとしている人がいましたら、絶対ケチな人を相手にしないほうがいいですね。ケチと結婚すると不幸になります。入ってきたら、出す人、つまりシェアーする人が健全な人です。

  今カリフォルニアでは、毎朝、肥満防止と、健康な食生活をするようにとの宣伝をやっています。あるアメリカの太った子供が、ピザを食べ、ジャック・イン・ザ・ボックスのタルのようなコークを飲んでいます。そして、そこへお医者さんグループがやって来ます。お母さんが、「問題があるのです」というと、彼らが「何処が問題ですか?」と尋ねます。するとお母さんが、そのピザを食べている子をゆびさすのです。お医者さんグループは、そのお家の冷蔵庫から不健康な食べ物全部ををかき出し、かわりに野菜や、果物を入れます。その子が「ちょっと待って、そのアイスクリーム、僕欲しいんだけど」と言うと、「こんなものより、オリジナル・ファースト・フードを食べな」とお医者さんの一人が、リンゴを投げて渡します。そして「もっと野菜とか、健康によいものを食べる生活をしましょう。そして運動をしましょう」となります。

  アメリカは、食生活でも、高カロリーなものを沢山、ただ食べるばかりです。車社会ですから、殆ど歩かない、つまり運動はなしです。それでまず殆どの人々が肥満、つまり健康的ではないのです。(これは私が言うのではなく、ブッシュ大統領も、アメリカ医学協会も言っているのです。)ところが、以前シドニー女子マラソンで優勝した、高橋尚子さんですが、彼女は寿司なら一度に60個くらい食べるそうです。しかし、毎日20キロも30キロも走って、全部脂肪を燃やしてしまうそうです。ですから肥らないとういうのです。入ったら、出すことが大切です。

  このお金持ちは、すでにお金持ちなのですから、豊作だったら、貧しい人々に分配するとかして、その富を自分ひとりのために、蔵にしまい込んで楽しもうなんて考えないほうが健全です。この自分ひとりで楽しむという根性がさもしいですね。しかし、彼はそれをしました。第一、まず作柄の場合、私は農家の出身ですから分かりますが、自然の恵みが作柄に大きく影響することを現実的に知っています。雨が降らなければ、作付けが出来ませんし、作物も実りません。雨が降りすぎても、育ちません。それでは気候がよくて、灌漑設備をしているカリフォルニアはどうかというと、それでも必ずしもいつも豊作というわけではありません。数年前、サンディエゴできゅうりを作っている方に聞きましたが、何が原因か、以前のように収穫が上がらなくなったと嘆いていました。思いがけない害虫がでたり、木が病気になったり、といったことが原因でしょう。カリフォルニアの星教会の庭の、桃の木も、毎年いっぱいなるのに、今年はひとつも実を結びませんでした。

  自然を支配して、成長させてくださるのは主であります。人が生かされているのでも、主の恵と憐れみなのです。これを忘れてはいけません。この人は、あたかも豊作を、自分に運がついていたとでも考えていたのでしょうか?すでに蔵があるのです。それを、「こうしよう。あの倉を取りこわして、もっと大きいのを建て、穀物や財産はみなそこにしまっておこう」と言うのです。豊作が悪いのでも、大きい蔵を建てるのが悪いのではありません。それを全部自分のためにしようとする根性が悪いのです。

  このちょっとあと、18章に富める役人の話があります。彼は、この世的に富んでいただけであります。その彼にイエス様が言われたのは、「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、あなたは天に宝を積むことになります。そのうえで、わたしについて来なさい(22節)」でした。つまり、そうするなら天において富む者になれるというのです。

 この世において富に目がいくことの問題は、この人が、自分の魂に、「たましいよ。これから先何年分もいっぱい物がためられた。さあ、安心して、食べて、飲んで、楽しめ。」と言うことであり、それに対して神が、「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われることであります。

先にも話しましたが、この世の富に目が行く人は、この世の富に、喜びや、安心の拠り所を見出す傾向があります。それは裏を返せば、主の元に来ない、主に拠り頼まないということです。

カリフォルニアで一番人が喜ぶ集まりは、フリー・ワイン・テイスティングだそうです。一方一番ボアリング(退屈)な、人気のない集まりはバイブル・スタディーだそうです。これは人間の罪性をよく表しています。この金持ちは、収穫させてくださったお方、この人を生かしておいて下さるお方が、神であることをすっかり忘れています。

その結果がどうでしょう。テキストは、「愚か者。おまえのたましいは、今夜おまえから取り去られる。そうしたら、おまえが用意した物は、いったいだれのものになるのか」であります。

この前の節と、この節に 「たましい」 と訳されている語があります。これは原語ではプシュケーと言う語が使われています。私ども個人は、一人一人、霊と魂と肉体とで形成されています。ところが生まれながらの人間は、霊は初めから死んでおります。そういう人間が、魂まで取られてしまっては、霊が救われるすべがなくなってしまいます。なぜかと言いますと、このプシュケーという語は、「生命」とも訳しうる語だからです。

実際、こういう例はあるものです。大金持ちになったとたんに、交通事故に遭って死んでしまったとか、大金を手にしたとたん、病気でポックリ逝ってしまったとか。何年か前、東京都下のとある町だったと記憶していますが、老人が一人さびしく死んで、何ヶ月も発見されないでいたそうですが、フトンの下には、何千万かのお金があったそうです。お金が、魂を喜ばせ、魂に安心を与えると勘違いしてはいけません。そういう喜びや、安心はまやかしです。そして、プシュケーが取られるものですから、プニューマ、つまり霊が生きるチャンスは、永遠になくなるのです。みな、この世の富のせいであります。どれだけ、稼いでも、一人で使える額は、しれています。湯水のように使っても、楽しいのは一時的、すぐに空しさがやってくるでしょう。

富というものは、神の前に正しく使わないと、決して祝福は来ないようになっているのです。私など、20歳の時に、「これが私の生きる道」と主からの召命を頂いたので、貧しかろうがなんだろうが、本当に喜んでこの仕事をやらさせていただいております。お金が儲かったので、アーリー・リタイヤメント? 「あほか?」と思います。神の前に富むの意味の分からない人は、愚かです。

それでは、どういう風にしたらいいのか、イエス様の 「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』 これがたいせつな第一の戒めです。 『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです(マタイ22:37-40)」という御言葉をたよりに、この金持ちのことを考えて見ましょう。まず、何はともあれ、神である主を愛すべきです。それにはイエス様を信じる信仰が必要です。主を愛するなら、最低限、富の十分の一は、神にお返しするのが筋です。確かにこれは律法ではありません。けれども、本当に、神を愛しているなら、収穫に対して、しかるべき行動が伴うはずです。私は、いくら羊羹が好きだといっても、それを誰かから貰ったら、「誰にも知られないように、そっと隠しておいて、あとでそっと少しずつ食べよう」とは考えません。まず、少なくと一緒にいる家内に、教会でなら、皆さんにシェアーするでしょうね。もっとも、皆さんが善意で、「先生、お好きなんでしょう? 全部いただいてください」と言われるなら、これは別ですが。

「いいえ、私も神を愛しています。そして献金もしています」と言われる人がいます。こういう例話はどうでしょう? 人間が一年で食べる米は、日本人の場合、夫婦で年5俵もあれば十分過ぎます。(私はどうしても農家出身で、米は俵で数えるクセなのですね。1俵は60キロです。) 例えば、金持ちのクリスチャン地主夫婦がいたとします。この地主が、5人家族の小作に米を作らせて、米が百俵取れたとします。(1)大きな収納庫を作って、小作には1俵だけ与えて、あと残りは全部そこへ入れる地主もいるでしょう。(2)2俵を教会に献品して、小作に1俵やって、あとは前からある収納庫へ入れる人もいます。(3)沢山収穫があったと主に感謝して 教会に50俵献げ、自分達は自分たちの食べる分として5俵いただき、小作は家族が多いし、貧しいので、特別に20俵与えて、残りの25俵は、不作だった地方の人たちに送ったとします。 (2)のタイプの人と、(1)のタイプの人と、どれ位違うでしょう?(2)のタイプの生活をしていて、神を愛しているなどと言わない方がいいでしょう。ところが、普通、(2)のタイプのクリスチャンでも、あまり指導されることはありません。それは、この手のクリスチャンは「豊作で百俵もとれたのだったら、十俵くらいは献げましょう」と指導されれば、もうその教会に来なくなってしまうからです。

お金や、富に信頼を置いている人たちに対して主は、先ほどのお金持ちの役人に言われたように、「あなたの持ち物を全部売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい」とでも言われます。ルカ19章のザアカイの話を思い出してください。あの時、ザアカイは、「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します19:8)」と言いました。これが、もしザアカイが、シブシブ 「財産の十分の一を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、返します」と言ったら、主は「きょう、救いがこの家に来ました(19:9)」と言われたかどうか、疑問です。本質的には額の問題ではありませんが、イエス様は「あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです(マタイ6:21)」と言われました。この世の富が宝になってはいけないのです。そうではなく、神に、期待し、信頼し、神にある平安を求めましょう。そうして、神の前に、富む者となりましょう。

祈ります。