2006年8月13日


『回心か滅びか』 ルカ12:54-13:5

12:54 群衆にもこう言われた。「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ。』と言い、事実そのとおりになります。

12:55 また南風が吹きだすと、『暑い日になるぞ。』と言い、事実そのとおりになります。

12:56 偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか。

12:57 また、なぜ自分から進んで、何が正しいかを判断しないのですか。

12:58 あなたを告訴する者といっしょに役人の前に行くときは、途中でも、熱心に彼と和解するよう努めなさい。そうでないと、その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます。

12:59 あなたに言います。最後の一レプタを支払うまでは、そこから決して出られないのです。」

13:1 ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである。

13:2 イエスは彼らに答えて言われた。「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。

13:3 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。

13:4 また、シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。

13:5 そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。」

実は昨晩、メキシコから戻りました。エルシャダイ教会では、久しぶりにスペイン語で説教して、いささか疲れました。今朝は、メキシコでやった説教のテーマに沿って、「悔い改め」ということについて考えてみたいと思います。

私たちの主日の礼拝では、「教会としての罪の告白」(Corporate confession of Sin)を致します。そして代々の聖徒と共に『使徒信条』を告白します。私たち人間は、誰もがアダムにおいて罪人であります。ここでいう罪は、「私は、あんな人のように酷い罪人ではない」とか、「悔い改めるというほどの罪だとは思わない」といった、たぐいのものではありません。「原罪」があるということを認めるということです。聖書で、「罪人は、滅びる」と言うとき、それはこの「原罪」をさしているのであって、麻原彰晃さんの罪とか、サダム・フセイン氏や金正日氏の罪は重いといった感じの罪ではないのです。

まず、罪を悔い改めないと滅びます。ですから私たちは、ただちに罪を悔い改めるべきだということを念頭にいれてください。

12章の後半から読みましたが、ルカ13章1−5節の話は、ルカにしか出ていません。まず、テキストは、「ちょうどそのとき、ある人たちがやって来て、イエスに報告した。ピラトがガリラヤ人たちの血をガリラヤ人たちのささげるいけにえに混ぜたというのである」と言います。

ガリラヤの人たちがエルサレムに巡礼に来ていたのでしょうか。彼らは、エルサレムで動物犠牲をささげようとしました。どうもその時、ピラトの命令でそのうちの誰かが殺されたようです。どういう理由であったのか分かりません。ですから、感覚として、犠牲にその人の血が混じったようです。その時、イエス様は、「そのガリラヤ人たちがそのような災難を受けたから、ほかのどのガリラヤ人よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか」と言われました。

ま、「シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか」とも言われましたが、これもルカだけが記録しています。シロアムの塔が倒れたと言うのは、何か土木工事か何かをしていた時の事故でしょう、18人もの犠牲者が出たようです。双方で、イエス様は、「よりも罪深い人たちだったとでも思うのですか」と言うことを話されています。罪があれば、悔い改め、和解することが賢明です。そうでないと、テキストにもあるように、「(告訴した)その人はあなたを裁判官のもとにひっぱって行きます。裁判官は執行人に引き渡し、執行人は牢に投げ込んでしまいます」ということになるからです。

何故、こういうことが書かれているかと申しますと、人間は『罪』と言う時、どうしても、先にも申しました、他人との比較や、自分自身の吟味で、悔い改めや、和解が必要かどうかを考える傾向があります。ガリラヤ人のことをイエス様に告げた人は、だからこの死んだガリラヤ人はよけいに罪深いとでも考えたのでしょうか?シロアムの池の事件についても、エルサレムの他の人々より罪が重かったから、そういう不幸に襲われたのだと考える人々がいたのでしょう。

ここで第一に知ってもらいたいことは、「誰が悔い改めるべきか」ということです。やはり、このことが人々には分かりにくいことのようです。人々は明らかにこの世において犯罪に組みした人は悔い改める必要があると考えるでしょう。それでは、この世的には、罪にならない人たちは、悔い改める必要がないのでしょうか?このガリラヤ人の事件では、それをイエス様に告げた人は、おそらく殺されたガリラヤ人は、殺されるだけの理由があったから、殺されたのだろう、つまり邪悪だったのだろう、そうでなければ、神は彼らが殺されるのを赦されるはずがない、と考えたのでしょう。

しかし、今日でもそうですが、どれだけ不条理で死ぬ人がいるのでしょう。最近、カンボジアのポルポト氏が亡くなったそうですが、あの方の非道でどれだけ多くのカンボジアの人たちが犠牲になったことでしょう。日本でもキリシタン時代は、多くの人々がキリシタンであるという理由だけで、その信仰を捨てないというだけで殺されたものでした。

パウロはローマ書3:23で 「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができ」ないということを教えておりますが、これはイエス様が、ここで「あなたがたも悔い改めないなら、」と言われる思想を、敷衍したものであります。

「某さんは罪深いから、悔い改めるべきである」という、自分の罪を考えない人々に、イエス様は「また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の目の中の梁には気がつかないのですか。兄弟に向かって、『あなたの目のちりを取らせてください。』などとどうして言うのですか。見なさい、自分の目には梁があるではありませんか。偽善者たち。まず自分の目から梁を取りのけなさい。そうすれば、はっきり見えて、兄弟の目からも、ちりを取り除くことができます(マタイ7:3-5)」と言っておられます。

またヨハネ8章の姦淫の現場で捕らえられた女を非難する人たちには、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい(ヨハネ8:7)」と言われました。

神の前に罪人であるということは、重いか軽いか、あるいは人があるかないかを判断できるような問題はないのです。人間は、先のパウロの言葉のように、「すべての人は、罪を犯した」ということを知るべきであります。つまり、すべての人が、悔い改めなければならないのです。

第二に知って頂きたいことは、こういう自分のことは棚にあげておいて、不幸に遭った人のことをとやかく言うような人は、とかく何時悔い改めるかを知らないですね。

テキストには、「あなたがたは、西に雲が起こるのを見るとすぐに、『にわか雨が来るぞ。』と言い、事実そのとおりになります。また南風が吹きだすと、『暑い日になるぞ。』と言い、事実そのとおりになります。偽善者たち。あなたがたは地や空の現象を見分けることを知りながら、どうして今のこの時代を見分けることができないのですか」とあります。

この個所は、福音というものは、「またいつか」と思っていると、神の国に入れる人と入れない人が区別される時が来ることを教えています。すなわち福音が伝えられるということは、すべての人々が決断を迫られているということです。

天気予報を聞けば、対策をするのに時間がありますが、罪の悔い改めというものは、「今」が一番確実で、明日とか、xx年後、年を取ってからなどということは出来ません。だいたい、そういうことを言う人は、まだ自分が罪人だということが分かっていませんから、そういうことが言えるのですね。本当に、自分が神の前に罪人だと分かるなら、その罪のためにイエス様が十字架に架かってくださったということが、至福の祝福だということも分かるでしょうし、そのイエス様を信じて、罪を赦されたいと心から願うでしょう。

クリスチャンと呼ばれる人たちの中にも、時々「ああしまった。もうちょっとやりたいことをやって、死ぬ直前に悔い改めたらよかった」などと言う人がおります。分かっていないのですね。そういう人は、そういうバカな思いも含めて、もう一度悔い改める必要があります。

人間は必ずいつか、死ぬのです。この人間の死は、天気予報で、気温を予想したり、台風の進路を予想したりするように大体読める時もありますが、全く突然の地震のような時もあります。ですから前にも話しましたが、交通事故や脳卒中はいやですね。ハートアタックもだめ、第一「おまえのおかげでいい人生だった」と妻に言うチャンスが無いですからね。ガンはいい病気です。ジワジワと死んでいけるガンになったら喜びましょう。とにかく生きている今という時が、一番確実な時に違いありません。だいたい、悔い改めは、死が近づいたらお天気対策のように出来るかというと、そうではないのです。もう死ぬと自分でも感じていても、悲しい話ですが、悔い改めない人も沢山いるのです。

大体、罪を悔い改めるということは、誰かに対して、悔い改めるのですから、その誰かが分からなければ、なりません。悔い改めるには、その罪の性質も分からなければなりまぜん。「後になって」などと言っていたら、結局チャンスを逃すでしょう。イエス様は、「どうして今のこの時代を見分けることができないのですか」と言われます。一刻の猶予もないということです。

最後に知ってもらいたいのは、どうしてそんなに悔い改めることが大切なのか、何のために悔い改めるのか、ということです。テキストでイエス様は、「シロアムの塔が倒れ落ちて死んだあの十八人は、エルサレムに住んでいるだれよりも罪深い人たちだったとでも思うのですか。そうではない。わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます」と言われます。先にも申しましたように、これはシロアムの池で、工事でもしていた人でしょう。塔が倒れて死んだのですから、これは事故でしょう。ですから人々は、これが罪の結果とは思わなかったでしょう。しかし滅んだのです。

皆さんよく御存知の ヨハネ3:16 には、「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」とあります。ここにも、「滅び」という語があります。ルカの私たちのテキストと同じ、アポルーミという語が使われています。このヨハネの文脈では、信じる者が受けるものは、永遠のいのちであります。となればそれを受けない人たちは、「永遠の滅び」になるのです。事実聖書で言う「滅び」と言うのは、一時的な滅びではありません。永遠の滅びです。受験に失敗した、結婚に失敗した、事業に失敗して破産した、これを滅びというなら、こういう滅び方でも、出来れば、ないほうがいいですが、仮にあってもまだ絶望ではありません。しかし、永遠の滅びは絶望的です。まったく望みから断たれます。

「人間は死ねば誰でも同じだ。みんなおしまいだ」と何の根拠もなく、知っているかのように言う人がおりますが、クリスチャンが死後のことを話す時は、死んで復活してくださった方の権威で言うのです。イエス様は、「そこで、わたしの友であるあなたがたに言います。からだを殺しても、あとはそれ以上何もできない人間たちを恐れてはいけません。恐れなければならない方を、あなたがたに教えてあげましょう。殺したあとで、ゲヘナに投げ込む権威を持っておられる方を恐れなさい。そうです。あなたがたに言います。この方を恐れなさい(ルカ12:4-5)」と言われました。悔い改め福音を信じるなら、永遠の命ですが、悔い改めないなら、永遠の滅びです。「死んだら終わり」ではなく、死んだあと、永遠に滅びるのです。

悔い改めないで、地上でわずかなまがいもの幸せを楽しんだとしても、永遠の滅びになるとするなら、これは恐ろしいことです。また悔い改めず和解しないなら、まがいものの幸せすらいただけません。「ごめんね」と言えば、その後うまく続くのに、その「ごめんね」が言えないものですから、決定的にダメになることがあります。

悔い改めることは、平和と喜びと、感謝と、希望と、永遠の命、神の国への鍵です。あなたは、回心と滅びと、どちらをとりますか?相変わらず、多くの人々が、「私は、そんな罪人と呼ばれるような、悪い人間だと思わない」とか言って、素直に悔い改めません。イエス様は「滅びに至る門は大きく、その道は広いからです。そして、そこからはいって行く者が多いのです(マタイ7:13)」と言われました。滅びを選ばず、悔い改めて永遠の命を頂いてください。悔い改めるなら、「神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます(1ヨハネ1:9)」 それは明日、来年、xx年後、死ぬ前といったものではありません。一番確実な時は、今です。

祈りましょう。