2006年8月13日
「A子さんのこと」
神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。 ローマ 8:31-32
以前、私は日本から学生さんが来ると、まず島田陽子さんが主演の『マイ・チャンピオン』という映画を観せたものでした。これは1960年代か70年代の話だったと思いますが、ミチコ・ゴーマンさんという女子マラソンの選手を扱った映画です。まだ留学などなかなか出来なかったころ、住み込みの手伝いをしながらアメリカに来た女性です。やることなすことすっかりダメで、もうすっかり気落ちしていたミチコさんに、イン(宿)のおばさんが言ったことは、「ミチコ、この国はなんでもウィナー(勝者)が好きなのよ。負けちゃだめよ。ボクシングでも、宝くじでも、なんでも、ウィナーにならないとダメなのよ」でした。それで彼女は、マラソンを始めて、女子マラソンの優勝者になり、素敵なアメリカ人の御主人も射とめ、一時女子マラソンの世界記録保持者にもなったという話です。事情はどういうことか分かりませんが、映画の島田さん演じるミチコさんには 「日本へは帰れない、何とかここでやっていかねば」という気迫に溢れていました。
それとは反対の話として私が、日本から来る学生さんに話したのは、もと横浜大洋にいた大橋というピッチャーです。大橋は、高校野球の作新学院時代、元巨人、江川の控えでした。江川といえば巨人の一時代を築いたピッチャーでした。江川が作新学院時代、大橋は素質のあるピッチャーでしたが、いつも控えで、ついにマウンドに立つことはありませんでした。そこで大橋は、「よしそれなら、プロの世界で必ず江川の鼻をあかしてやる」と思ったのですが、いつも二軍でついに一軍に這い上がることは出来ませんでした。そしてしばらくして故郷の栃木県に戻りました。その時、まだ巨人の現役だった江川が、「大橋は、ダメなら帰るところがあると思うから、あんまり野球に身が入らないのじゃないですか」と言ったのを、何かの記事で読みました。大橋は確か、宿屋の倅で、おそらくいつも、「ダメなら、親のあとを継いで、宿屋の主人になるさ」と思っていたのでしょうか。
A子さんと私たちの結びつき
先週私たち夫婦は、古い友人の林A子さんを訪問しました。A子さんのお父さんは日本人で戦前上海で商売をやっていました。若い頃から中国語が非常に堪能で、お母さんは結婚する前に、林さんが日本人だと分からないで、中国人だと思って結婚したそうです。お父さんの姓が林で、中国でも林はリンと言って普通の姓で、お母さんは中国人と結婚したと思ったら、日本人だったので驚いたそうです。上にお兄さんが二人、お姉さんが一人あり、A子さんは昭和29年生まれです。毛沢東の文化大革命時代は、本当にもう少しでお父さんも殺されるところだったようですが、生き延び、日中国交回復がなって、林さん一家は、全員日本に引き上げて来ました。A子さんは中国で漢方医の資格を持っていましたが、日本に26歳の時来て、夜間中学に入り、そこで日本語を学びました。そして日本で准看護師の資格まで取りましたが、いくらお父さんが日本国籍を持っているので日本人と言っても、やはり中国生まれの中国育ちのA子さんは、日本では住みづらかったのでしょうか、34歳の時、アメリカにやってきました。その頃、サンホゼに、陳さんというA子さんのオジサンがいました。陳さんの娘さんが、A子さんのお兄さんに嫁いでいたのです。陳さんは孤児で宣教師に育てられ、若い頃に信仰を持ちました。それから宣教師の勧めでムーディー聖書学院に行きました。ですから当時80歳でしたが、英語がとても達者でした。陳さんは、宣教師に育てられて、英語ができたので、中国にいた時は、それこそもう少しで殺されるところでした。「娘さんに会いに行く」と日本に来て、それ以来、故国中国には戻らず、アメリカに来ました。おそらく文化大革命の頃、相当ひどいめにあったので、もう中国に戻りたくなかったのだろうと思います。
A子さんの来た時の英語力は、非常の弱かったのです。それで大学に行く為に最初、英語の勉強のためだけにバークレーにある英語学校に入りましたが、サンホゼに住んでいた陳おじさんは心配して、サンホゼに来るように勧めました。この陳さんと私が知り合いだったので、A子さんは、私たちとコンタクトを持ちました。私は陳さんに頼まれて、A子さんを助けました。まず運転免許を取ることからです。私が運転を教えました。中国語の試験がありますから、学科はなんとかOKでしたが、運転の時、試験官の英語がなかなか聞けないのです。それで試験の前に、試験官に、「ゆっくり話してやってください」とお願いしたのは勿論ですが、私が運転席に座ったA子さんの肩越しに、英語で試験官にも聞こえるように祈りました。そうしたら70点が合格ラインのところを771点で合格しました。試験官は、”Your prayer worked.” と言いました。
グリーンカード取得への取り組み開始
今回会って、A子さんの話を聞いたところによれば、アメリカに永住するつもりで、弁護士に頼んで永住権(グリーンカード)の手続きを始めたのはこの頃、つまりかなり早い時期だったようです。と言うことは、はっきりとアメリカに永住するという目的意識をもってアメリカに来ているのですね。しかし先にも話したように、まず英語力の問題がありました。中国の漢方医の資格を持っていたのですが、中国人コミュニティーの大きなアメリカでは、漢方医はアメリカで資格を取らないと永住ヴィザを取るには有効になりません。丁度、日本のお医者さんが、日本の医師資格を持っていても、永住ヴィザを取るには有効にならないのと同じです。
それで彼女はアメリカで看護師(RN)になる目標を立てました。けれどもその目標も、英語力に問題のあった彼女にとっては、非常に大きな関門でした。しかし「何とか」と願うと、道も開けるもので、ロスアンゼルスで中国語で看護師になる学校を見つけました。ですからそのために2年間はロスアンゼルスへ行き、さらに研修でテキサス州オースチンへ一年行き、待望のRN(看護師)になると、まず働けるH−1のヴィザを取りました。看護師になってからの彼女の働きぶりは、もうクレージーみたいだったです。病院勤務は、夜専門。夜のシフトの方が、給料がいいからです。しかし病院で、ヴィザを取ってもらうことが難しいと分かると、昼間は永住ヴィザを取ってもらうために、中国人のお医者さんのクリニックで働きました。余った時間は、私の家内も働いていたレストランでウェイトレスをしていたこともありました。病院と、クリニックの丁度間くらいのところに、小さなオフィスを借りて、そこで漢方の仕事や、美容セラピーの仕事もしていました。つまりいつも仕事場を三つくらい持っていたのです。いつ寝ているのかと思うほどでした。私たちがちょっとのぞくと、クライエントがいない時は、よくソファーでうたた寝をしていました。
家を買い、グリーンカード取得
今から4年前、「家を買いたいから、石原先生、不動産屋に一緒に行ってくれませんか。私、女だから、バカにされたり騙されたりしないように」と頼みに来ました。一緒に行ってあげるのは問題なかったのですが、「家を買う」と言ったことには、たまげました。だって、この頃、サンホゼの不動産の高騰はクレージーみたいだったからです。どうしてそんなお金が出来たのかと思いました。しかし彼女は、家を買いました。
今回、A子さんを訪問したのは、その家を見せてもらうこと、これまでのお証詞をうかがうという目的でした。今、やはり看護師を目指しているキャロルも同行しました。初めてお会いした時のA子さんは、まだ娘さんの雰囲気でしたが、さすがにあれから18年経過して、苦労の跡が分かります。そして彼女が、「実は、石原先生、私、グリーン・カード(永住ヴィザ)を取ったのは、まだ去年(2005年)なのよ。なんと17年もかかりました」と言ったときには、本当に驚いたばかりか、その執念に感動しました。私は、すっかり、もうグリーン・カードを持っていたのかと思いましたが、まだ昨年のことだと言ったからです。前から中国とか、フィリピンとか、そういう国の人たちが、あらゆる困難を乗り越えて、永住ヴィザを取るということを聞いていましたので、「さすがに、中国の人のガッツ」と申しましたら、「先生、それは違います。私にはイエス様が、いつもいて下さったから、負けそうになる時にも、くじけることはなかったのです」と言いました。 これは牧師である私が、「一本、マイッタ」、その通りです。
英語の問題も克服
看護師で永住ヴィザを取る場合は、必ずTOEFLで580点以上、それに英語の論文の試験にパスしなければならないそうです。TOEFLで580点と言うのは、相当な実力で普通アメリカの大学院などにも十分入れる点数です。それに英語の論文は、アメリカの大学の場合、英語はレベルとして 1Aとか、1Bが必ず要求されますが、A子さんの場合、中国語の看護学校へ行ったので、そういう勉強をしていませんでした。
H―1 の時はよかったのですが、永住ヴィザの時は、必ずそれが引っかかりました。実は、最後の7-8年くらいは、この英語の問題だけで、永住ヴィザがつっかえていたようです。弁護士さんも気の毒そうに、「A子さん、無理だよ。誰かアメリカ人と結婚したほうが早いよ」と勧めたそうです。日本の両親や、兄弟達も、「無理だよ、もう帰っておいで」と、何度も促したようです。しかしA子さんは諦めませんでした。A子さんは、「だって、先生、あの時、帰ったら、負けたと言う感じになるでしょう」と笑いながら話しました。そしてついに、TOEFLで580点を突破し、英語の論文もパスしたのです。昨年は、さらにキモセラピーの部署につく特別な看護師の『英語の試験』にもパスして、現在ガン患者の看護に携わっています。
主が、いつも一緒にいてくださる
私も多少彼女の家の買収に関わったので、前からその家に行ってみたいと思いましたが、A子さんがこれまであまりにも忙しくて、訪問できませんでした。しかし、今回そのA子さんが、「先生、今はもう週三日しか働いていないから、来て下さい。もう、前みたいにはがむしゃらに働くことはしないの」と言うのです。12時間の勤務を週三日やっているそうです。そしてそのお家に行っておどろきました。ベッドルームが四つもある豪邸で、女性の一人暮らしと言うこともありますが、とてもきれいにしてあるばかりか、家の中には、古美術品、高価な家具がいっぱいでした。簡単に、「先生、私昨年の収入は14万ドルでした」と言い、「先生たち、ご馳走してあげます。私の車で行きましょう」と乗せてくれた車は、レクサスでした。私は、さんざん親のすねをかじったりして、ちょっと金持ちになったからと言って、贅沢をして、こういう暮らしをする人には、おそらく怪訝な顔をすると思いますが、A子さんなら、まったく妥当だと思いました。彼女は、英語の教会に忠実に参加している、熱心なクリスチャンです。アメリカにやって来たその頃から、A子さんのことを知っています。ガッツで生きたのではなく、確かにA子さんの言うとおり、「主が、いつも一緒にいてくださったので、くじけることがなかったのです」が真理でしょう。キャロルを見て、微笑みながらですが「私も結婚して、子供を育てたかったわ」と言いました。でも、残された生涯は、そういう証詞をもって霊の子供を産むことに、勤しんでもらいたいと思います。