2006年8月27日


『失われた銀貨の譬』 ルカ15:8-10

15:8 また、女の人が銀貨を十枚持っていて、もしその一枚をなくしたら、あかりをつけ、家を掃いて、見つけるまで念入りに捜さないでしょうか。

15:9 見つけたら、友だちや近所の女たちを呼び集めて、『なくした銀貨を見つけましたから、いっしょに喜んでください。』と言うでしょう。

15:10 あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです。」

六月の最初から、ルカの福音書に記されている、イエスさまの『公生涯』からの説教をきいております。今朝は、15章であります。15章には、イエス様がお語りになった三つの譬話がしるされております。最初のが99匹の羊を残しておいて、失われた一匹を捜しにいった羊飼いの話、二番目が失われた一枚の銀貨を捜して、ついに見つけた時の喜びの話、三番目が有名な『放蕩息子の譬』です。

このうち、最初のと、三番目は語られる機会が多い感じがしますので、今朝は二番目の失われた銀貨の譬から、御言葉をお分かちし、主を崇めたいと思います。

神は失われたものが、たった一人でも見つかることを願われます。そして不思議な導きで探しだされます。ですから、一人が見つかることを願い、見つかったら、喜ぶべきです。

結局、ここに三つの譬話が書かれていますが、どれもが一人の失われたものの回復が大いなる喜びであるというのが、主要なテーマであります。実にルカ15章は全体をこのテーマを教えるために費やしております。その失われた者とは私たち人間そのものであるということに気がつくことが大切です。このテキストの女の人は、10枚の銀貨を持っておりましたが一枚がなくなったのです。

この銀貨というのは、おそらく丁度ローマのデナリのように、普通の一日分の賃金に値するくらいの価値のあるものでしょう。どうやって持っていたか?もしかしたらそれをつないで首飾りのようにしていたか、あるいは小さな布に包んで持っていたのだろうか、それは分かりません。首飾りのようにしていたのなら、その鎖から一個が抜け落ちたか、包んであったのなら、その包みが解けて一枚がなくなったのか、どういう事情であれ、一枚がとにかくなくなったのです。

この婦人がどういう社会的なクラスの人だったかは分かりませんが、大方は貧しい階級の人であったでしょう。一枚の銀貨で大騒動するのですから。大体この地方のこの貧しい社会階級の人々の家というのは、さして大きくない家で、土間のままで、普通窓はなく、あっても非常に小さい物が一つあるだけです。ですから一旦コインが抜け落ちますと、部屋の中自体が、昼間でも薄暗いですし、小さい家には、あまりないとは言え、それでも所帯道具が土間に無造作に置いてありますから、見つけるのがなかなか困難です。

暗いものですから、明かりをつけるでしょう。埃の中に埋まってしまっているかもしれません。それでゆっくりと注意深く、ほうきを出して表面を拭ったのでしょうか、遂に見つけました。よかった!

失われた者が見つかるこの譬では、どうしてこうも繰り返し繰り返し、そのことが書かれているのか? 興味ある理解としては、この三つの譬は、三位一体の神の愛と熱心を表しているというものです。まず最初の99匹の羊を残して、一匹の羊を捜す羊飼いは、どう考えても「私は良い羊飼いです(ヨハネ10:11)」と言われた、子なるキリストを表していると理解できます。『放蕩息子の譬』の父親は、当然父なる神を表しております。するとこの失われた銀貨を捜す婦人は、残された聖霊さまを代表していると理解するのです。婦人は本来、あたりが柔らかく、辛抱強く捜します。まさに聖霊さまを代表してると理解してもよいでしょう。つまり父も子も聖霊も、三位一体の神が一人の魂の見つかることのために、懸命になっておられると言う意味です。

こういう理解が定評のある解説かどうかは分かりませんが、イエス様自身によって、示されることは、このテキストの最後の結論です。すなわち「ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです

イエス様がお語りになった三つの譬話で、失われたものを考えてみると、みな失われやすいものです。まず最初の羊ですが、これは失われやすい典型です。まずフラフラ行きます。いつか私は、ワトソンビルへ言ったとき、羊の群れを追っている人を見ましたので、聖書の話が実際にそうかと思って、車を停めてしばらく見ていました。現在でも馬に乗って羊を追っておりました。この時は、犬も一匹おりました。ところが、しばらく観察しておりますと、確かに一匹群れから外れる羊がおるのですね。ですからそれを馬に乗った羊飼いや、犬が群れへ戻すのです。ところが一匹を戻すと、また別の羊が群れからはなれて、一匹で草を食べ始めるのです。人間も同じで、どうも性懲りのないというのが人間の姿のようです。

三番目の譬の弟息子ですが、兄弟みんなまともなのに、どうしてこの子一人は、ダメなんだろうというケースはよくあります。ひどい時には、「本当に血がつながっているのかねえ」などと言われます。親にとっては、決して、「一人はだめでも、・・・・・まあ、いいか」とは思いません。むしろ、そういう問題の子の方が可愛いのですね。

そしてお金です。これは取られる場合もありますが、アクシデントで無くなる場合も多いですね。そして日本人の場合には、このお金というものに関しては非常にきっちり捜しますね。私の友人で、銀行に勤めた人に聞いたのですが、一日の最後にどうしても、1000円足りないと言うような場合、これはなかなか帰れなかったそうです。一日に何億か、何十億か知りませんが、途方もないお金が動く銀行で、「たかが1000円のことで」とは言わないそうです。昔はコンピューターではありませんから、ソロバンをはじいて計算のしなおしをするのだそうです。すると1000円というような単位のミスだと、見つかるそうです。ところが一円足りないという場合もあるそうです。銀行員が皆で何時間も計算しても一円足りないとき、上司が自分のポケットから一円をだして、「これで帳尻を合わせておけ」と言うのだそうです。この場合は、一円が惜しいからではなく、行員間の信頼と、銀行の信用のためにするのでしょうが、みんな仕事を終えて早く帰りたいでしょうから、その上司の出した一円はありがたいでしょうね。

「自分は捜されてはいないだろう」と考えることはおろかです。この婦人の無くしたお金は、原語ではドラクマとなっております。1ドラクマは、先にも申しましたように、1デナリと同じ位です。これが普通の人の労賃ですから、お金持ちの人には大した額ではないとしても、庶民、貧しい階級の人たちにとっては大切なお金で、無くしたとなれば、「骨折り損のくたびれ儲け」になります。ですから捜すでしょうね。「99匹もいるのだから、一匹くらいいなくなったって」、「俺なんか、放蕩息子だから愛されてはいないだろう、期待されてはいないだろう」「一枚の銀貨くらい、ちょっとは残念と思われるかも知れないが、諦められるだろう」・・・・・と思うのは早計です。神は、決してあなたを捜すことを諦める方ではありません。忘れる方ではありません。

この失われた銀貨の譬で、先ほど婦人が聖霊さまを代表しているという理解があると申し上げましたが、ここの譬はそのことをよく説明していると多います。この失われた銀貨というものは、自分からは声を発せない存在です。羊は群れから離れますと、おそらく助けを求めて鳴くでしょう。放蕩息子は、財産を使い果たし何もなくなった時、自分の惨めさを感じて、悲嘆したでしょう。双方とも神から離れた者の悲しさがよく出ています。その神から離れた者の声を、あるいは思いを、羊飼いは、あるいは父なる神は、超自然的にお知りになっています。ところがこの失われた銀貨は、まったく声を出しません。思いも抱きません。しかし確かに失われているのです。どうやって見つかるのでしょう?まさに、ゼカリヤ4:6に「権力によらず、能力によらず、わたしの霊によって」とありますが、これです。またイエス様は、ヨハネ3:8 で 「風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです」と言われましたが、聖霊さまのお力で見つけられるのです。そのプロセスは、不思議です。理解できませんね。

またこの譬話は、カルヴァンの言うところの、完全堕落と言う教理をよく説明していると思います。失われた銀貨は、自分ではまったく何もできない、また自分が見つけられるために、何も力を発揮できない、つまり人間は、完全に堕落しているのです。救われるためには、あるいは見つけ出されるのは、まったく神の恵以外にないのです。

テキストでは、「あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」と言います。天使という存在については、これは疑いなく、「ある」と言うべきでしょう。神の聖い天使たちは、罪人の救いにおおいに関心があります。この父なる神と共にいるところの天使については、福音書ではマタイ18:10, 25:31、ルカ2:10-14などに記されています。また使徒たちも、パウリは1コリント13:1 で、ペテロは1ペテロ1:12 で、また使徒ヨハネは、黙示録3:5, 5:11, あるいは14:10で、言及しています。

何故、今日この天使に関する言及に意味あるのでしょう?それは今日では、一人の人が見つけられ、一人の人が救いに預かったことを、本来は神と共にある教会の人々が、それほど喜ばない傾向があるからです。

アメリカ映画などを観ますと、死にそうだった子供が助けられたというシーンでは、映画館でもスタンディング・オベーションで拍手が起こります。日本人の場合は、「ああ、そう、良かったね」くらいの場合が多いですね。教会ではどうでしょう?一人が救われたといっても、軽く「ああ、よかったね」くらいの教会が多いのですね。ことに会員数が多い教会は、「今月の受洗者は何人?」「エエッ、たった12人かあ。ちょっとすくないなあ。これじゃあ今年は、現状維持もおぼつかいぜ」などと言う会話がなされることがあります。一人の人が救われたことが、このテキストにあるように、「神の御使いたちに喜びがわき起こるのです」になっていないのですね。

天使は確かに、神と共にあるのです。神の思いは天使につながっているのです。私たちの思いも、神の思いになるべきですね。どうであれ、この譬話の主要なポイントは、神が、失われた、すなわち罪人を、捜されるということ、そしてたった一人でも、〈悔い改めるなら〉見つけられるなら、大いなる喜びがあるということです。

あなたが、神のもとにないなら、あなたは失われた銀貨です。自分の力では絶対見つけられることは出来ません。神は今も必死に捜しておられます。今日、教会においでになったこと、あるいはこの説教を、読んでおられるというのは、神の聖き御霊さまが、あなたを発見に導かれたのでしょう。天において、天使たちのおおいなる喜びの声が上がることでしょう。見つけられた人は、ただ感謝しましょう。

教会は、この世の尺度で、一人の人が救われたことを、大して喜ばないなどという、愚かさを改めるべきです。一人が、救われたら、大いに喜び、お祝いしましょう。

祈ります。