2006年9月3日
『不正な管理人』 ルカ16:1-13
16:1 イエスは、弟子たちにも、こういう話をされた。「ある金持ちにひとりの管理人がいた。この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された。
16:2 主人は、彼を呼んで言った。『おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい。』
16:3 管理人は心の中で言った。『主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし。
16:4 ああ、わかった。こうしよう。こうしておけば、いつ管理の仕事をやめさせられても、人がその家に私を迎えてくれるだろう。』
16:5 そこで彼は、主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、
16:6 その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った。
16:7 それから、別の人に、『さて、あなたは、いくら借りがありますか。』と言うと、『小麦百コル。』と言った。彼は、『さあ、あなたの証文だ。八十と書きなさい。』と言った。
16:8 この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた。
16:9 そこで、わたしはあなたがたに言いますが、不正の富で、自分のために友をつくりなさい。そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです。
16:10 小さい事に忠実な人は、大きい事にも忠実であり、小さい事に不忠実な人は、大きい事にも不忠実です。
16:11 ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。
16:12 また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう。
16:13 しもべは、ふたりの主人に仕えることはできません。一方を憎んで他方を愛したり、または一方を重んじて他方を軽んじたりするからです。あなたがたは、神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。」
この日曜日は、私たちのサンホゼでのミニストリーの、21年目の記念日です。主が、よくこの21年間守り支え、成長させてくださったかと感謝せずにはいられません。
さて、先週に引き続いて私たちは、イエス様の公生涯で、主がお語りになった譬話を学んで主を崇めたいと思います。
実は、今朝の譬話も、ルカだけが記している譬話であります。皆さん、すでにこの話をお読みになっていると思います。正直な話、私はこれまでこの譬話の説教を避けてきました。実際、これまでにこの個所をテキストにしてお話した覚えはないと思います。何故避けてきたかと申しますと、どうもよく分からなかったからです。今週は16章だったので、私はラザロと金持ちの話をテキストに選ぶことも出来ました。しかし、ラザロと金持ちの話は何度もやっていますし、いつまでもこの不正な管理人の譬話を避けているわけには参りませんので、自分の理解で、「こういうことなのだろう」と言える範囲でお話ししようかと思って準備を始めたのですが、準備していく段階で、主はこういうこと教えようとなさっているのかとも思いました。
しかしこの譬話は、どうにもわかりづらいのですね。いつか私がわれわれの教会のM姉に、キアヌ・リーブズの『Walk in the cloud 』という映画を、恋愛する人には必須の映画だと紹介したら、彼女はそれを観て、笑いながら「話が単純すぎて」と申しました。私は、元来単純なストーリーのが好きで、映画でも『マトリックス』のような、ちょっとストーリーが込み入ったものはダメなのですね。『タイタニック』なども、長い映画でしたが、ストーリーが非常に単純・明快で、好きな映画のひとつです。
正直な話、私はこの譬話については、「イエス様、申し訳ありません。あなたの譬話は、難しすぎます。それで、いまひとつクリヤーとは言えないまま、語らねばなりませんが、どうぞ聞く人達に、しもべが語ることで、聖霊さまの特別なお力で、真理を悟る手がかりを与えてあげてください」という祈り心でお話しを準備しました。『ちいろば先生』こと、榎本保郎先生も、このテキストの解説で、「解釈が非常にむずかしい」と、言われています。その他、ある註解者の説の中には、この内容はおかしい、つまりそれは加筆されているからだというのもありましたから、説教者でこの個所を難しいと感じている人は、私だけではないようです。
大体の註解者は、「不正に対してでなく、終末の切迫した時に、人はこれほど必死になるだろうか。この管理人は出来うる限りのチャンスを利用した、その巧妙さを学ぶべきである、またそこに焦点をあてて読むべきである」 といった解説でした。しかしそれにしても私のような単純者は、この日本語の聖書を読んだだけでは、主に対して不敬虔にも、「どうしても終末の切迫した状況を教えるためなら、こんな不正を働いた管理人を例に出さずとも、不正をしない人でも結局終末を迎える訳ですから、もうちょっと正直な人を例にすれば良かったじゃありませんか」と、申し上げてしまいがちです。しかし、これは聖書ですから、私のような凡人には分かりづらい話であっても、奥深い真理が必ずあるはずです。
しかし、何故私が分かりづらいと思うかですが、まず主人に不正が疑われて、この管理人は「主人にこの管理の仕事を取り上げられるが、さてどうしよう。土を掘るには力がないし、こじきをするのは恥ずかしいし」と言います。単純な私は、「ああ、そうだな。だから不正なことはしてはいけない。それを、クビになってから肉体労働は嫌だとか、こじきは恥ずかしいだなんてよく言うよ。蒔いたものを刈り取ったんだ(ガラテヤ6:7)」と思うでしょう。
ところがこの管理人は、不正を取り繕うために、「主人の債務者たちをひとりひとり呼んで、まず最初の者に、『私の主人に、いくら借りがありますか。』と言うと、その人は、『油百バテ。』と言った。すると彼は、『さあ、あなたの証文だ。すぐにすわって五十と書きなさい。』と言った」とあります。この後の人にも同様にします。けれども主は、「あなたがたが暗やみで言ったことが、明るみで聞かれ、家の中でささやいたことが、屋上で言い広められます(ルカ12:3)」と言われましたから、ウソはやがてばれると私は考えます。ところが8節で、「この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがないものなので、主人は、不正な管理人がこうも抜けめなくやったのをほめた」とあります。ここへ来ると、「あれあれ、まてよ」と頭を抱えます。この節の前の部分、「この世の子らは、自分たちの世のことについては、光の子らよりも抜けめがない」というのは分かります。しかし、「不正な管理人が〈この世の子らのように〉こうも抜けめなくやったのをほめた」というのは、考え込んでしまいます。この管理人の御主人は、こういう風にうまくやる人をほめました。しかしこれが、「申し訳ありませんでした。会計を誤魔化しておりました。もう二度と不正はいたしません。この歳になってから、行くところもありません。肉体労働をするには弱すぎます。後生ですからお赦し下さい」と正直に告白した人は、クビになるのでしょうか?この個所は、この御主人(クリオス)を誰ととるか?聖書を読んだだけでは、この管理人の御主人に感じられますが、主イエスさまだという説もあります。
9節は、明らかに主の言葉ですが、どうにもそのまま日本語聖書を読んだだけでは、分かりづらいので、「読んだだけで分かる」と言われる尾山訳で、ここを調べますと、「よく聞いておきなさい。この世の富を正しくつかって、自分のために信仰の友を作ることです。そうすれば、この世の生を終えた時、あなたがたは、永遠の住まいで、その友達と一緒に過ごすことができるでしょう」になっています。尾山訳では、「不正の富」が、「この世の富」になっており、さらに「正しく使って」と訳を補っております。これは確かに理解しやすいです。英語の聖書でも、worldly wealth というような語がつかわれており「不正の富」という感じではありません。
ただ、11-12節では「ですから、あなたがたが不正の富に忠実でなかったら、だれがあなたがたに、まことの富を任せるでしょう。また、あなたがたが他人のものに忠実でなかったら、だれがあなたがたに、あなたがたのものを持たせるでしょう」とあります。この「不正の富」を、worldly
wealth に従って、「この世の富」と読めば、この世の富に対して忠実な者とならねばならないと感じます。そうすると、テキストの管理人の証文を書き換えて自分の不正を隠そうとする行為は、果たして、忠実だったのだろうかとまた疑問に感じてしまいます。
榊原先生という定評のあるルカの註解を書いている先生は、9節の「友をつくりなさい」というところの、「彼ら」の三人称男性複数動詞は、神の摂理的導きを表すので、これはこの世の友達の意味ではなく、「神が迎える」のユダヤ教的婉曲話法だとの理解です。
こういう風に理解すると、これは「難しい」などと言ってはいられない、神に迎えられるかどうかに関る重要な譬になります。
ですから分かりづらい点はともかく、はっきりしていることを申し上げたいと思います。まず第一に、ここでは不正がほめられているのではありません。「利口なやり方」とか、「抜け目のないやり方」と訳されていますが、「思慮深い」という訳の理解もありました。その自分のポジションを必死に守ろうとするために、(それが不正であっても)あらゆる可能な方法を使っているところがほめられているのです。
第二に、この譬は、主が9節で、「そうしておけば、富がなくなったとき、彼らはあなたがたを、永遠の住まいに迎えるのです」と言っておられるように、永遠の住まいに入れるかどうかというコンテキストで語られています。ですから、単純に会社で自分のクビがつながるかどうかと言う問題ではないのです。ホリエモン君の裁判が始まりますが、ああいう状況になったからと言って、彼の230億からある財産を不正にばらまいて、無罪を勝ち取ることがほめられると言う意味ではないと思います。と申しますのは、ホリエモン君の場合は、永遠の住まいなど知ったことではなく、この世の自分の財産と自分の名誉と立場を守りたいから、必死になっているだけだからです。
これは終末に対して必死になりなさいという観点からの譬話ですから、実際の話ではありません。
ここからは、私の持っているどの註解書にも書かれていなかったことです。私が思いますに、この管理人は、必死に悔い改めております、それを主人は、「巧妙にやっている」とほめたのでありましょう。
と申しますのは、この管理人は、主人のお金を不正に使ったのです。おそらくは、主人は地主か、裕福な人だったので、人々にモノを貸していました。「油百バテ」とか、「小麦百コル」と言った感じです。これをこの管理人は事件発覚後、それぞれ50バテ、20コル減らしております。これはどちらも、500デナリ分<500日の労賃位)くらいのようです。この主人の財産の管理をしていて、この人は、不正をして、自分のために使ったのでしょうか。とにかく、油を貸した人には、100バテを50バテに、小麦を貸した人には100コルを80コルにまけてやっています。これは明らかに、この債務者には喜ばれることでしょう。何故なら、こんな不正な証文の書き換えは、またばれるに決まっているからです。
とにかく本来は、自分のものではない主人のお金をこの管理人は乱費していました。その結果、だれかから告げ口されたのか、主人の知るところとなり、「おまえについてこんなことを聞いたが、何ということをしてくれたのだ。もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい」となるのです。この管理人が、そのあと債務者に証文を書き直させているところをみると、それが事実であったようです。
ところが、これまでのこの管理人の仕業は、主人のお金の乱費ですが、主人に問題を指摘されてからの彼の行動は、やぶれかぶれでもっと御主人の財産をいただこうとするより、その後の自分の身の振り方のための作業に必死になっております。そこには、これ以上不正で、主人の財産を自分のために使おうとする姿はありまぜん。本来不正の取り返しは、全部弁償してもつくことではありません。もしかしたら、とても直ちに弁償できなかったかもしれません。例えば、「ええい、もうやぶれかぶれだ」と言って、債務者に、「50バテにしてやるから、80コルにしてやるから、直ちに貸しているものをもってこい」と怒鳴って、それを持ってこさせてずらかるということも出来たかもしれません。しかし、そういう目的で証文を書きなおさせているのではありません。債務者にあとで助けてもらうためです。この債務者達に、それまで自分は横柄な態度でいたのでしょう。しかし、態度が変わっています。この債務者達の心をひこうとしています。この債務者達に対して態度を変えることは大切です。これを、悔い改めていると見るのです。
本来、人間の罪の場合は、絶対に取り返しがつかないものなのです。そのために可能なカヴァーの仕方は、罪を認めることと、そのためにどうにかしようとすることです。この管理人は、その非を認めて、今、何とか生き延びる道を模索している、そのためにその、われわれが考えたら、到底受け入れ難い手を使っていると理解すれば、納得がいきます。それが、「抜け目のない」方法だったのです。
この管理人は、お金(財)に目がくらんで主人のものを不正に奪いました。これは今日にもよくあることです。仮に正当に働いて得たお金であっても、最終的にはすべて、主に属するのです。それを自分だけのものにして、主のことを考えないのが罪の表れです。しかし、それは「この管理人が主人の財産を乱費している、という訴えが出された」という聖霊さまの声で明らかになり、「もう管理を任せておくことはできないから、会計の報告を出しなさい」という主の声で、罪が指摘されます。ここで、あなたが永遠の住まいに移されたいと思うなら、主に対して必死にそれまでのやり方を改め、別の道を模索すべきですね。そのあわせ方は、実にうまい方法ですが、「イエス様、ごめんなさい。赦してください。お願いします」と、イエス様の十字架をお願いして、不正を帳消しにしてもらうという手です。
以前、私は、「人間は罪人ですが、イエス様の前に悔い改めれば赦してもらえる」ということを、ある方に話したら、その方は、「そんなデタラメなことが通るわけがない」と言われました。本来なら、この管理人がやったようなやり方で、一見絶対うまく行くはずがないように見えるのですが、この十字架の前に悔い改めるという手を使うと、主ご自身が、「抜けめなくやったのをほめ」て下さり、絶対にうまく行き、永遠の住まいが約束されるのです。
永遠の住まいのために、この世におけるバランスの帳尻を合わせることに、もっと必死になりましょう。そうでないと、永遠の滅びになってしまいます。ですからそれには、イエス・キリストの十字架という手を使うことです。これは、「そんなんでいいの?」と思うかも知れません。私も、この譬話を読んだ時、「そんなんでいいの。それが抜け目のない方法なの」と思いました。しかし、そんなんでいいのです。それが抜け目のない、(思慮深い)方法なのです。絶対に確かです。
あなたの行動を期待します。
祈りましょう。