2006年9月10日


『感謝の源』 ルカ17:11-19

17:11 そのころイエスはエルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた。

17:12 ある村にはいると、十人のらい病人がイエスに出会った。彼らは遠く離れた所に立って、

17:13 声を張り上げて、「イエスさま、先生。どうぞあわれんでください。」と言った。

17:14 イエスはこれを見て、言われた。「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。」彼らは行く途中でいやされた。

17:15 そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、

17:16 イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった。

17:17 そこでイエスは言われた。「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。

17:18 神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか。」

17:19 それからその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです。」

 

 私たちキリスト教会の宣教というのは、生けるまことの神を礼拝する民を生み出すということです。ベイ・エーリヤの95%以上はUn-churched People だという報告もあります。ベイ・エーリヤだけではなく世界中にどれ位、主が愛してくださっていても、それが分からない、それ故感謝もしないし、礼拝もしないという人たちが、溢れているかということです。私たちは、彼らに伝道して行かねばならないのです。

今朝は、そういうなかなか主を認めない人々が多い社会にあって、ルカ17章にある、十人のライ病人が癒されたのに、その中のただ一人だけが、イエス様のもとに戻り感謝をささげた話から、たった一人でも真実な感謝は真実な神礼拝につながるというお話をしましょう。

癒して下さるのは主なる神であります。ですから感謝の源なる主に感謝を捧げることが、真実な礼拝につながるということを、まず念頭において、お話をお聞きください。

テキストによればイエス様は、「エルサレムに上られる途中、サマリヤとガリラヤの境を通られた」ようです。イスラエルの地図を頭の中で思い描ける人は、このまま読むと、イエス様が北から南のエルサレムに向かっておられるように読め、そうなら向かう順序としては「ガリラヤとサマリヤの境を通られた」と記すべきだという人もいますし、乱暴な人は、これを記したルカが、ガリラヤとサマリヤの位置を勘違いしたという人もいます。しかし語順の違いは、ルカの誤解だとも思われませんし、もしかしたら、本当にその境にそってヨルダン川を渡りペレヤに渡って、もう一度南のエリコからイスラエルに入る道を通ってエルサレムに入られたのかもしれません。事実、そういう道があるようです。とにかく場所としてはサマリヤ近郊の村でありましょう。そこで、「十人のらい病人がイエスに出会った」のであります。

これは当然ですが、ライ病人は誰もが癒されたいと願うでしょう。しかし当時であっても、それは感染性のある恐ろしい病だと知られていましたし、何より宗教的には汚れを意味し、人々に忌み嫌われておりましたから、彼らが他の人々になるべく迷惑にならないように、しかし何とか助けて欲しいと思う願いで、「彼らは遠く離れた所に立って」 叫んでいたのも理解できます。

まず、第一に識って頂きたいのは、このライ病人たちは、言葉を信じたということです。テキストは、「イエスはこれを見て、言われた。『行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい。』 彼らは行く途中でいやされた」 と言います。

病が癒される奇跡は、聖書の中にいくつか記されております。その中で、イエス様が直接手を触れられて癒されたケースがあります。ルカの福音書の中でも、5:13 には、イエス様がライ病人に触れて、癒されたことが記録されています。マルコ7章では、耳が聞こえない人の耳に指を差し入れ、癒されました。盲人を癒す際にも、触れておられます。(マルコ8:22)

一方、直接的にはイエス様に触れていただいていない、ただお願いした人がイエス様の言葉を信じただけというケースもあります。マタイ8章では、カペナウムの百人隊長の僕の癒しの場合、「ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは直りますから(8:8)」と言っております。そしてイエス様は、彼のその信仰をほめられ癒されました。ヨハネ4章では、王室の役人の子供が病気の時、イエス様は、「帰って行きなさい。あなたの息子は直っています(4:50)」と言われた、イエス様の言葉を信じて、子供が癒されています。

ライ病といえば、旧約聖書に有名なアラムのナアマン将軍の話があります。それはエリシャの時代でした。イスラエルから連れてきた娘の言葉で、イスラエルの神の人が癒して下さるという言葉をたよって、イスラエルにきます。ところが、そこでエリシャから「ヨルダン川に体を浸せ」と言われて、怒って帰ろうとしました。私はヨルダン川の全体を見たわけではありませんが、少なくともガリラヤ湖から死海へ流れ出るあたりのヨルダン川は、そう大して美しい川というイメージはありませんでした。ですから、ナアマン将軍が、「ダマスコの川、アマナやパルパルは、イスラエルのすべての川にまさっているではないか。これらの川で洗って、私がきよくなれないのだろうか(5:12)」と言って怒ったのも、分かる気がします。しかし僕たちの説得で、エリシャの言葉を信じてヨルダン川に身を浸すとライ病が癒されました(2列王5章)。

テキストの十人は、「行きなさい。そして自分を祭司に見せなさい」と主が言われた時、「バカな」とは申しませんでした。むしろ言葉を信じたのでしょう。あるいは、少なくと「私はあなたが触れて、癒して下さるまでは叫び続けます」とは言いませんでした。そして主が言われたように、祭司に見せようとしたのです。しかし、これは大変なことです。それは完全に癒されている必要がありました。何故かなら、癒されていることを、祭司が確認すると、その人は、もう一度コミュイティーの中に入れてもらえるからです。どの時点で癒されたのか分かりませんが、「彼らは行く途中でいやされた。そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て」とありますから、祭司のところへ行って見せようと、その場を離れた時には、まだライ病はあったのでしょう。そして一人が「引き返して来」たのですから、確かに途中で癒され、途中でその癒しに気がついたのです。

言葉を信じるということは非常に大切です。この場合、言葉を信じるという意味はイエス様の言われた言葉を信じるということです。今日では、聖書の言葉を信じるとうことです。ヨハネは、「初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった」と記しておりますが、言葉を信じるということは、生ける神を信じることにつながるのです。

二番目に識って頂きたいのは、癒しは素晴らしいのですが、人々は現象にのみ捕らわれやすいということです。テキストでイエス様は、「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか」と言われます。

つまり癒された十人のうち、九人はその本当の癒し主なるイエス様のもとに来なかったということです。このライ病だった十人は、アラム(シリヤ人)のナアマンのように、言葉をかけられた時に、散々小言を言って腹を立てたという記録はありません。ナアマンの場合、僕たちがなだめてやっとヨルダン川に自らを浸して癒されましたが、この十人は、そのまま言われた通りに祭司に見せに行ったのでしょう。その意味では、このルカの記録にある彼らの方が信仰があるように見えます。先週話しました、不正な管理人の譬の話・・・・あの管理人にも感じられますが、人間は見えるところの一時的な解決に期待するということは、非常に大きいようですね。どうもこの九人は、癒されたという現象には感動したようですが、その癒しの源には関心があったようには思えません。

私はアッセンブリーの教職者として、イエス・キリストの癒しの力を信じますし、そのためにも祈りますが、世の中には癒しの奇跡だけを期待して、それで終わりという人たちがおりますから、気をつけなければならないと思います。我々のようなペンテコステ派とか、カリスマ派、あるいは聖潔派と呼ばれるグループの人たちが、癒しのために祈る時、キリスト教会でもある派の人たちは、「我々は、そういう現象というか、ご利益のようなことのためには祈らない」という人達がおります。これは我々の派の教会の中にも、現象に対して、過度に強調しすぎる人たちがいるので、彼らがそういう風に極端に警戒するのも分かる気がします。

癒しばかりではありません。たとえば経済の祝福のためでもそうです。一時、信仰があれば経済的に祝福されるというメッセージが流行したことがありました。サンノゼで、ある韓国人教会ですが、ここ20年ほど、繰り返し繰り返し「信仰を持てば、経済的に祝福されて、豊かにされる」というメッセージをしていた教会が、信徒が殆ど去って、いまつぶれそうにまで落ち込んでいるそうです。これはそうまで落ち込んでも、なおその教会に集っている、ある信徒からうかがったので、おそらく本当の話でしょう。この世的にお金持ちになりたければ、信仰よりも事業をすることなどを考えたほうがいいでしょう。お金持ちになれるという現象を、極度に強調するメッセージは、しばしば、人々が極度に貧しくて、教育もあまりない人たちが多い場合は、ひきつけることもありますが、その国の経済状況がだんだん改善されてきて、人々が自分で聖書を調べ(使徒17:11)る方法を知り、牧師の話すことを鵜呑みにするのではなく、信徒が自分でも聖書からチェックするようになってくると、受け入れられにくくなると思います。

十人の癒された人のうち、九人についてイエス様は、「十人いやされたのではないか。九人はどこにいるのか。神をあがめるために戻って来た者は、この外国人のほかには、だれもいないのか」と言われました。つまり九人は、おそらく外国人ではなくユダヤ人なのでしょう。

この時代のユダヤ人は、どうも見える現象に目を向ける傾向があったようです。メシヤなるイエス様が来られた時にも、彼らはメシヤをローマの圧制から救い出してくれるメシヤを期待していた向きがあります。ところがイエス様が来られた目的は、「失われた人を捜して救うため(ルカ19:10)」でした。ですからそれは、「お金がもうかる」などという目に見える現象での『救い』ではありませんでした。もしそういう観点なら、そこでザアカイは、財産の半分を失っていますし、不正な取立てをしている人には、公正に返済したのではなく、4倍にして返していますから、相当損をしているはずです。

現象に期待する人は、自分が期待しているような現象が起こらないと、「イエス様は、私の祈りに答えてくださらない」とか、「祈っても、私の祈りには答えてくださらない」と言って文句をいいがちです。そしてやがては去ってしまう人です。これは本物の信仰ではありませんね。

そこで最後に識ってほしいのは、癒してくださったのは主ですから、その感謝の源なる主に帰ってきて感謝するということです。テキストには「そのうちのひとりは、自分のいやされたことがわかると、大声で神をほめたたえながら引き返して来て、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリヤ人であった」とあります。

イエス様が歩いておられたのは、ガリラヤとサマリヤの境のあたりですから、当然サマリヤ人がいたでありましょう。またユダヤ人達は普通はサマリヤ人とお付き合いをしないのですが、ライ病という恐ろしい共通の病にかかっていたということは、民族の違いという垣根を取り払っていたようです。けれども癒された後の態度は、違いました。このサマリヤ人は、祭司に見せる前でも、癒されたことを知ると途中であってもまず、癒し主なる主の元に戻っているのです。

世の中にはいわゆる有名な癒しの伝道者がおりますが、そういう集会に行って癒されても、イエス様のところに来ないで、どちらかというとその伝道者に栄光を帰す、クリスチャンらしき人がおりますが、それは間違いです。それはどちらかと言うと癒しの伝道者の問題ではなく、癒された人の問題です。そういう人は、そういう癒しの伝道者の集会で癒されると、それまで行っていた教会を軽く考えたり、「恵まれるから」と称して、集会から集会へと渡り歩く傾向があります。これは癒してくださった、感謝の源なる主に「引き返して」いないのです。

確かに、サマリヤ人のためには、おそらくゲリジム山に聖所があり、そこに祭司がいたでしょうし、他のユダヤ人にとっては、祭司がいるのはエルサレムでしょうから、引き返すという事情は、距離的、時間的にも異なるでしょう。もしかしたら、ユダヤ人の中にも、祭司に見せる前に癒されたことが分かって、戻ってイエス様を捜した人がいたかもしれませんが、しかし九人が九人、全部イエス様を見つけられなかったというのはおかしいですね。九人は来なかったと見るほうが自然でしょう。

このサマリヤ人は戻って、イエス様に感謝を捧げています。ところがイエス様は、これを見て、「神をあがめるために戻って来た者は」と言っておられます。これは大切な言葉です。そこではサマリヤ人が感謝を捧げたことが、「神をあがめる」ことなっています。つまりサマリヤ人は神を礼拝しに戻ってきたのです。またイエス様は、ご自分を神として示しておられます。そしてこの行為をして、イエス様は、「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰が、あなたを直したのです」につながるのです。

実はライ病人の癒しの場合、14節の「彼らは行く途中でいやされた」などは、カサリゾーという語、すなわち「聖める」という語が用いられております。ほかの病気の場合は、「セラピューオー」と言う語が使われたりしています。しかしこの19節では、いわゆる救いにあたる「ソーゾー」という語が使われています。ですから、新改訳では、「直した」と訳していますが、ここは口語訳や新共同訳のように、「救った」と訳すほうが正解だと思います。つまりライ病の癒しも含めて、霊が救われたと理解するのです。

このライ病が癒されるという奇跡の現象を通して、一人の人がまことの神を礼拝するようになったのです。それは死んでいた霊が生かされたとでも言えるでしょう。見えなかった者が、見えるようにされたのです。

奇跡の現象は、こういうことが起こるので素晴らしいのですが、時として癒されたユダヤ人のように、感謝の源に戻ってこない場合があるので、気をつけなければなりません。今日の新約に生きる私たちは、仮にこういう現象を見ないとしても、ただ言葉を信じるだけで、生けるまことの神、イエス様を礼拝する民に変えられることが出来るのです。イエス様は、「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです(ヨハネ20:29)」と言われました。私たちは、誰一人イエス様を見ていませんが、信じて彼を礼拝しています。これこそ大いなる奇跡の現象でしょう。完全に死んでいた霊が、癒されたから、そうできるのです。どんな時にも、救主イエス様に感謝を捧げ、どうであれ、礼拝し続ける者でありましょう。

祈ります。