2006年9月24日


『小事に忠実であれ』 ルカ19:11-27

19:11 人々がこれらのことに耳を傾けているとき、イエスは、続けて一つのたとえを話された。それは、イエスがエルサレムに近づいておられ、そのため人々は神の国がすぐにでも現われるように思っていたからである。 :12 それで、イエスはこう言われた。「ある身分の高い人が、遠い国に行った。王位を受けて帰るためであった。 :13 彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え、彼らに言った。『私が帰るまで、これで商売しなさい。』 :14 しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った。 :15 さて、彼が王位を受けて帰って来たとき、金を与えておいたしもべたちがどんな商売をしたかを知ろうと思い、彼らを呼び出すように言いつけた。 :16 さて、最初の者が現われて言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました。』 :17 主人は彼に言った。『よくやった。良いしもべだ。あなたはほんの小さな事にも忠実だったから、十の町を支配する者になりなさい。』 :18 二番目の者が来て言った。『ご主人さま。あなたの一ミナで、五ミナをもうけました。』 :19 主人はこの者にも言った。『あなたも五つの町を治めなさい。』 :20 もうひとりが来て言った。『ご主人さま。さあ、ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました。 :21 あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから。』 :22 主人はそのしもべに言った。『悪いしもべだ。私はあなたのことばによって、あなたをさばこう。あなたは、私が預けなかったものを取り立て、蒔かなかったものを刈り取るきびしい人間だと知っていた、というのか。 :23 だったら、なぜ私の金を銀行に預けておかなかったのか。そうすれば私は帰って来たときに、それを利息といっしょに受け取れたはずだ。』 :24 そして、そばに立っていた者たちに言った。『その一ミナを彼から取り上げて、十ミナ持っている人にやりなさい。』 25 すると彼らは、『ご主人さま。その人は十ミナも持っています。』と言った。 26 彼は言った。『あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている者までも取り上げられるのです。 27 ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ。』」

 

今朝の話は、また譬話です。しかもこの譬話は、マタイ25章にある話によく似ています。けれども双方を読んでみれば、詳細は、いくつかの点で違っていることに気がつくと思います。

まず、マタイの方では、単に主人が単に旅に出かけていますが、ルカの場合は、はっきりと旅に出た方「身分の高い人」がとなっており、また「王位を受けて帰るため」という目的であることを告げています。また、マタイは、預けられたお金が違っていますが、ルカのミナの譬では、みな一ミナです。そして報償は、マタイでは、「私はあなたにたくさんの物を任せよう」と同じようにも見えますが、ルカでは、それぞれはっきり違います。

両方とも、忠実さを問われていますが、細かい点で両者は違います。それでは、イエス様が二つの話をお語りになったのかというと、それは分かりません。ただこのルカの場合の譬は、語られている王権を持って帰ってくるお方が、主イエス様を表していることは確かでしょうから、私たちクリスチャンの態度として、どうあるべきかを学ぶ点で非常に有益です。

私たちはそれぞれに主から与えられた一つの使命があります。ですから、その与えられた使命に忠実に励んで、報償をもらうべきです。

何故、私は一つの使命と申しましたかは、この譬では、「彼は自分の十人のしもべを呼んで、十ミナを与え」とありますが、これは16節で、「ご主人さま。あなたの一ミナで、十ミナをもうけました」とありますから、一人が一ミナずつもらったのです。先ほども申しましたが、マタイでは、5タラント、2タラント、1タラントと違います。タラントというのは、タレントさんと今日も言いますが、能力とか、技能とか、あるいは役割の違いとでも理解すればよいでしょう。ひとそれぞれにタラントが違います。一番明らかなのは、能力でいうなら誰もがハーヴァード大や東大に入れないですね。「努力すれば必ず東大に入るのは可能だ」というのはないでしょう。誰もがバリー・ボンズやイチローのようになれないですね。バリー・ボンズとイチローは、それぞれの役割があるのです。ボンズはホームラン・バッターで、イチローはリードオフマンで、塁に出ることが仕事です。5タラント、2タラント、1タラントというのは、そう理解したらいいのです。

ルカでは、一ミナです。これはそれぞれの能力、役割をいかに使うかの自分に与えられた使命です。誰もが一ミナ、つまり一つの使命を持っていると理解するのです。神はあなたの人生に必ず目的を与えておられます。大事なことは、神が与えておられる目的を、祈って見出すことが大事ですね。「これがおれの生きる道」と言って、パチンコのプロとか、風俗営業会社の社長とか、大泥棒とか、そういう人生の歩み方は、まず主がよしとされないでしょうから、いくら「これが俺の生きる道」と息巻いても、ダメですね。ある人には、ある仕事をしながら、もう一つの仕事をするという生き方での使命を与えておられるかもしれません。とにかく、一ミナは使命と考えて頂いていいでしょう。

あなたは主にある、自分の使命を考えたことがおありでしょうか?私の知っている牧師さんですが、彼は大学では法学部を出た後、東京である会社に勤めていたとき、「この仕事は自分の仕事だろうか」と疑問を抱き始めました。一度しかない人生だけど、時間が過ぎていけば終っていく毎日に、どうも人生の意義を感じられなくなりました。そんな時、吸い込まれるように入った教会で、「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです(ヨハネ14:6)」という説教を聞いて、イエス様を信じました。そのうちにもっと直接人々を助ける仕事をしたいという思いを抱きました。そして再度、社会福祉学部入学しました。二部の大学を、二年かかって卒業すると、働いていた会社をやめて社会福祉に関する仕事を始めました。給料は、グーンと下がりました。それでもしばらくは仕事には満足していました。しかしばらくすると、どうも、主はこの仕事に召してはおられないと感じるようになりました。彼は、「主よ、あなたが私に与えておられる使命に従います。どうぞ教えてください」と祈っていると、「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう(マタイ4:19)」という御言葉に当りました。そして彼は伝道者になる決心をしたのです。

結局彼は、随分歳をとってから神学校に入りました。そして、神学校を卒業して、伝道者になりましたが、勿論給料は社会福祉の仕事をしていた時より、もっと安くなりました。それでも彼は、今、その仕事を本当に感謝と生きがいを持ってやっています。

ここでは、一ミナは、王になって帰ってくる方から与えられたと記されています。使命は主から頂くのです。

さて、一ミナずつ貰った人たちでも、その使い方はそれぞれですね。ポイントは、「一ミナで、十ミナをもうけました」とか、「一ミナで、五ミナをもうけました」ということです。つまり主にある使命というのは、なんらかの達成があるはずです。それが十ミナとか五ミナの儲けです。儲けは見えるところが違います。「違う」ということを頭に入れておいてください。「五ミナしか儲けなかったものは、使命に対して忠実でなかった」のではありません。

韓国の牧師さんから、10月21日にChurch on the Hill で国際キッズ・コンサートをやるから、私に日本代表で「子供を参加させてくれ。そのために賛美の練習に来させてくれ」という要請がありました。けれども、カリフォルニアの星教会には、そんなに子供がいないし、そういうスタッフもおりませんので、お断りしましたら、「開会の祈りだけでもいいから、来てくれ」と言われて行くことにしました。韓国と日本では、同じように一生懸命伝道しても、見えるところは、違うでしょう。カリフォルニアの星教会の働きなど、韓国人教会の働きを比べるなら、随分さびしいものです。けれども、いままでなかったものがあるようになったと考えたら、これは100%の増加です。現にこれまで5回、この国際キッズ・コンサートが開かれていますが、いままで日本の教会からは参加者が一度もなかったのです。ですから日本の国旗がひるがえったことはなかったのです。ところが今年は、それがなるのです。開会の祈りだけに参加するだけですから、1ミナをもらって1ミナを」も受けただけかもしれませんが、それが精一杯なら、ほめられるのです。

若い人でも、主から与えられた使命の仕事で、例えば一年で20万ドルくらい稼ぐ人がいるとします。我々の教会にも、そういう人が何人もいたらいいですね。教会には、献げる賜物のある人が必要です。そういう人が、「私は年に、10万ドルもあれば生活出来ますから、10万ドルは、献金します」と信仰を働かせてくれたら、カリフォルニアの星教会は、もっといろいろなミニストリーが出来ると思います。皆さん、タイスというのは、原則は十分の一ですが、新約に生きる私たちは、先週の説教のパリサイ人のように厳格に十分の一でなくても、十分の4でも、十分の7でもいいのですよ。

天国での報償は、地上での査定と違います。能力の差で決まるのではありません。使命を完遂する程度によって、決まるのです。ですから、主から与えられた使命に忠実に従って仕事をしていくなら、地上での卑しいと思われた働きでも、高い栄誉を頂いて、多くの責任を負わせられるのです。

ところが、ここに「しかし、その国民たちは、彼を憎んでいたので、あとから使いをやり、『この人に、私たちの王にはなってもらいたくありません。』と言った」と言う種類の人がおり、「ここにあなたの一ミナがございます。私はふろしきに包んでしまっておきました」という人がおります。

まず前者は、イエス様が神だと信じない人、彼が再び来たり給うことを信じない人たちであります。これは主に対する反逆者です。実に厳しいですが、こういう人は、「ただ、私が王になるのを望まなかったこの敵どもは、みなここに連れて来て、私の目の前で殺してしまえ」に該当する人たちで、殺されてしまうのです。

ふろしきに包んでしまっておいた人はどうでしょう。まず主が指名を与えておられるのに、主から使命を、「包んでお」くなら、使命が果たせません。

最近、シニアー・ホームの開設などの必要のために教会債の募集をしましたら、「2.5%の金利なんて、失礼ですが高すぎるのではありませんか?」というかえって奇妙がられる問い合わせを受けました。日本の銀行の金利はまだ1%以下だからです。けれども、アメリカでは、住宅ローンの長期金利でも、低いとはいえ現在6%位ですから、2.5% というのは我々としては、大変ありがたい金利ですね。牧師である私がサインしておりますから安全だと、信用して下さる方のみに引き受けていただいております。日本でも教会が会堂建設の時など借金することがありますね。たとえば自分たちの教会が借金をしなければならない時、殆どゼロ金利で銀行に寝かせておくというのは、お金の使用法としては、安全というより信仰的かどうか、疑問ではないでしょうか?

この人は、どういう根拠から、「あなたは計算の細かい、きびしい方ですから、恐ろしゅうございました。あなたはお預けにならなかったものをも取り立て、お蒔きにならなかったものをも刈り取る方ですから」と言ったのでしょう。クリスチャンの皆さんは、イエス様に、こんなことが言えますか?

ミナはあなたにも預けられているのです。「あなたはお預けにならなかった」などと、愚かなことを言っていないで、もっと真剣に、クリスチャンとしての使命を、祈って考えてみましょう。それが分かれば、とても、チンタラチンタラ生活していてはダメだということに、聖霊さまが気がつかせてくださるでしょう。「あなたがたに言うが、だれでも持っている者は、さらに与えられ、持たない者からは、持っている者までも取り上げられるのです

すべてクリスチャンとしての使命は、「福音を伝えること」と言っても、間違いであるはずがありません。「あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。そして、父、子、聖霊の御名によってバプテスマを授け、また、わたしがあなたがたに命じておいたすべてのことを守るように、彼らを教えなさい(マタイ28:19-20)」は、私たちすべてのクリスチャンに対する命令だからです。

主から与えられた使命に、忠実になりましょう。必ず王なる主イエスは戻って来られます。その時に、○○ミナ儲けましたと、言えるように励みましょう。

祈ります。