2006年10月1日
『放蕩息子の話』 ルカ15:11-32
15:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
15:12 弟が父に、『おとうさん。私に財産の分け前を下さい。』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
15:21 息子は言った。『おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。それで、
15:26 しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、おとうさんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
15:28 すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
15:31 父は彼に言った。『おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」
今朝のお読みしました聖書の個所は、有名な『放蕩息子の話』です。このお話は、聖書については初心者に対して語られる場合が多いと思います。確かに、その通りで、初心者に対して素晴らしいメッセージを含んでおります。一方、すでにクリスチャンになって長い方は、もう何度もお聞きになったことがあると思います。しかしすでに何度も聞いた話でも、これからも何度も聞く必要があるのが聖書の話ですね。それは聖書というのは生活と信仰の基盤だからです。
人間という者は、弱い存在と申しますか、罪深い存在と申しますか、同じメッセージが何度も何度も語られても分からないことがあります。「酒を飲んで運転してはダメ」と何度いわれていることでしょう。「そのことはもう言われたから、言わなくてもいい」などとは決して言えません。教会ではどうでしょう? 「悔い改めなさい」というメッセージは、初心者だけへのメッセージでしょうか? もしそうなら、「我らの罪をも赦したまえ」とどうして、いつもいつも祈るのでしょうか?
事実、この放蕩息子の話には、すでにクリスチャンになっている方に対する含蓄のあるメッセージも含まれています。
さて、お話は、・・・(テキストによれば)
二人の息子を持つ、裕福な方がおりました。ところが弟のほうは、身代を分けてもらうと、それを持って町に行き、放蕩に身を持ち崩してしまいます。その頃飢饉が襲いました。彼は食べ物に窮し始め、ブタ飼いのところに身を寄せ、ブタの食べるいなご豆で腹をみたしほどになった時、食べ物が有り余り、雇い人も沢山いる父を思い出します。そして戻る決心をして、戻り始めました。まだ遠くにいたのに、父の方が走りよって、この放蕩息子を抱きしめました。息子は、「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません」と申しましたが、父はしもべに言いつけ、着るもの、指輪、履き物など、みな新しい素晴らしいものをつけさせ、お祝いをしたのです。
この放蕩息子には兄がおりました。兄は父に、放蕩で財産を使い果たした弟が帰ってきて、それを父が喜んで迎え、お祝いまでしたことが面白くありません。それで外でふてくされていると、父は、「おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか」と言います。
人の霊が生き返る時、それは父なる神の喜びとなるということを知ってください。
ここには二人の息子がおります。一方は放蕩に身を持ち崩した息子で、もう一方は、一見真面目そうな息子です。ところが、一見真面目そうなど言うのは、分かりませんね。犯罪に手を染める人たちに対するご近所の人たちのインタビューを聞きますと、「あいさつもするいい子でしたよ」とか、「立派な方だと思っていました」などと聞くことがしばしばあります。しかし、内にある罪とか暗さというのは、時々現れないこともあるのです。ですから、世の中の人たちは、「私はそう立派だとは思わないが、この放蕩息子ほど悪くはないと思う」といい、むしろ「私は、世間から後ろ指をさされるようなことはしていないし、そこそこに真面目にやっている」と思っている人が大半だと思います。
最初の息子、つまり弟ですが、この息子も父と一緒にいました。しかし自分で意志して父から離れて行きました。これは人間の姿ですね。創世記3章にもありますように、神と共にあった人間の祖アダムとエヴァは、神と共にあった時は、「それは非常によかった(創世記1:31)」のですが、自らの意志で、神に背を向けておかしくなりました。この息子は財産を分けてもらって、それから父の家を離れ、あたかももうすべては自分のもので自由という感じで、町に出て好き勝手に使った様子が、「放蕩して湯水のように財産を使ってしまった」という状態です。別に放蕩をしないとしても、神から受けた知識や、体力、特技、財産、何であれ自分のためだけに使うとき、滅びを招くことになります。自分で働いて、自分で稼いだお金だとしても、自分だけのものではありません。命を与え、健康を与えておられるのは神だからです。テキストでは、「遊女におぼれて(30節」」と言いますから、これは今日でいう、俗な言葉でいうなら、女道楽の不品行、不道徳で、買春とか援助とかいう、いわゆる遊びで性関係をもつことでありましょう。しかしそれが遊びであろうと、姦淫、不倫・・・・といった多少本気であろうとも、正当な結婚の外での性関係をもつことは、やってはいけないのです。それは財産をなくすばかりではなく、神の律法違反であり、人格破滅、家庭破滅の道であり、生涯がめちゃめちゃになる道です。
さてこの放蕩息子ですが、お金が亡くなった頃に、飢饉がやってきました。今日でも、遊んでいた時は気付かなかったけど、しばらくしてエイズに感染していることが分かったとか、不倫が発覚して、大騒ぎになり離婚騒動になったとか、笑うに笑えない事態になることがあります。この息子は、ブタ飼いのところに身を寄せたのです。そしてブタの食べるいなご豆を食べなければならないほど落ちぶれたのです。そういう状態になった時、父を思い出しました。父を思い出したのはよかった。恵み、憐れみですね。
今日でも、放蕩が原因ばかりではありませんが、道にはずれたことをして、惨憺たる状況に陥る人がおります。しかしそういう人のすべてがキリスト教会に導かれ、イエス様の救いにあずかるわけではありません。この息子のように、「立って、父のところに行って、こう言おう」という思いを抱く人は限られているのです。そういう風に導かれて、イエス様のもとに来る人は、主権をお持ちのイエス様の憐れみであり、恵みであります。
息子が、父の家に向かって歩き出した時、「まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした」のです。これは父が、外れた息子が、こういう風に変化するのを、いかに待っておられるかの現われです。父なる神は、人が悔い改めに向かうなら、どれだけでも赦すお方です。
この『放蕩息子』の話には、十字架が出てこないと言われます。確かに悔い改めたら、それでストレートに神に行けると言うわけではありません。そこにはイエス様の十字架という、人の罪のための身代わりがあるから、行けるのであります。「悔い改め」は、まず自分が神に背を向け背いてしまったことを悔いあければなりません。そしてそのために積極的に、十字架にかかったイエス様のほうに向かうという「改め」が必要です。
世の中には自分のやったことを悔いる人はおりますが、それからイエス様のほうに進んで、考え方を改めることをしないで、何度も同じ過ちを繰り返す愚かな人がおります。聖書全体を考えずに、ただ一つの譬だけでは、聖書の真理の核心が分からないことがあります。遠くの父なる神と、離れていた人間が、父のもとに戻るためには、イエス・キリストの十字架があったことを覚えましょう。
こうして、この息子が戻り、「おとうさん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません」と言うと、もうすっかり彼は受け入れられており、「急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから」になるのです。宴会も始まりました。これは死んでいた霊が生き返ったのです。ですから、父の元にもどること、そして霊が生かされることが大切です。
二番目に、家で父と一緒にいた、上の息子のことを考えてみましょう。この息子が父にとって、いつも父と一緒にいたからと言って、良い息子であったというわけではありません。それは弟が帰ってきた時、父があまりにも大きなお祝いをした時、「ご覧なさい。長年の間、私はおとうさんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか」と、父に文句を言っていることからも分かります。実は、この息子の霊も死んでいる、あるいは死にそうなくらいに弱っていると言えましょう。
現代のキリスト教会には、教会にきている、一応洗礼はうけた、と言う人でも、なかなか生活が変わらない人がいるように思います。この『放蕩息子の話』では、兄は弟に対する父の大きなお祝いにクレームをつけております。おそらくこの兄は、父が失った弟息子のために、長い間苦しみながら帰還を祈り、待ちわびていた時、「あんな奴、どこかでくたばればいい」とか、「もう二度と顔を見せて欲しくない」とか、あるいはまるで忘れてしまっていたでしょう。つまり上の息子は、父と心がひとつになっていなかったようですね。霊の命は、父なる神から来るのですが、その父と一緒になっていないで、自分の肉の力だけで生きていて、霊は生きていないのです。
この長男は、「おこって、家にはいろうともしなかった」ようです。父が出てきた時、父に、怒るのではなく、「父上、私は最初、あの弟が戻ってきた時、父上があんなにお祝いなさったので腹を立てました。しかしそのうちに、何処からともなく、「そうだ弟は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから祝うのは当然だ、という声が聞こえてきました。私はその通りだと思いました。可愛い私の弟が帰ってきたのですから、共に喜びの宴に加わればよかったのに、父上に対して腹を立てました。このご無礼をお赦しください」とでも言えば、ダブル・セレブレーションだったでしょう。
アメリカでは、四半期ごとに出す報告書に、決心者xx人、受洗者xx人のほかに、Recommitment xx人と報告する個所があります。これは日本ではおおくないでしょうが、アメリカでは非常に多いようです。
スミストンというところのリバイバルは、一時有名になりました。私は、そこのスティーブ・グレイ先生の作った「Return to the Lord」という歌が好きですが、まさにそういう一度はクリスチャンだったのですが、それからすっかりこの世の歩みをしていた人に対する、語りかけに歌です。クリスチャンのような顔をしているが、実は心が主と一緒になっていないのです。
一度もイエス様を信じたことのない人は、この弟のような状態であることを知るべきです。あなたはこの弟のように身を持ち崩しているのではないにせよ、自分を喜ばせるためばかりに生きているのは、問題です。それはやがて程度の差こそあれ、虚しさとなって現れます。我に返って、父のもとに戻る決心をしましょう。イエス様がすでに十字架で、あなたの罪のために死んでくださっております。悔い改めて、イエス様を救い主と信じるなら、父なる神は、あなたを赦して子として受け入れてくださいます。
今ひとつ、霊が生きると言う意味が分からず、クリスチャンということにはなっているが、世の中の人と同じ価値観で生きている方がいるなら、もう一度、Return to the Lord です。Remember, once you loved Him. Remember, your
vow. Jesus stands before you. I think He’s waiting for you now. です。この下の息子のように、霊が生きるものとなる時、セレブレーションがあります。この譬は、この前の二つの譬、すなわち一匹の羊を見つけた羊飼い、一枚の銀貨を見つけた婦人の譬と同じで、ひとりが悔い改めることが、どれほど天では大きな喜びかを表しております。あなたが、父なる神の前に、イエス・キリストによって悔い改めて、父の元に帰還なさることを節に希望します。
祈りましょう。