2006年10月1日

「国語力の問題」
  

数学者の藤原正彦氏の書かれた、『国家の品格』と言う本が、200万部を越すベストセラーで、この方、最近文春の『日本の顔』にも紹介されました。日本人は英語ではなく、日本語をもっとやれと主張しておられます。そういう傾向からか、最近、「英語ではなく日本語を!」と言う風潮が非常に幅をきかせるようになりました。東京都知事の石原氏、さらに今度文部大臣になった伊吹文明氏も、「小学校から英語を必須にする必要はない、もっと国語を」、などと言っておられます。私は、田舎のミニコミ紙にもずっと書いていますが、そこで私は、「藤原氏は、自ら 『私は高校の頃、英語に圧倒的な自信があって、各種模擬試験でもしばしば一番とか二番をとっていました』と言われる位ですから、英語の出来ない者の、英語が出来るようになりたいという、ささやかな願望が理解できないのではないかと思います。彼は確か東京の某国立大付属高校という受験校に通い、高校時代から予備校に通っていたというくらい教育熱心な家庭で育ちました。氏と同じ昭和18年生まれの、当時の大多数の庶民で、そこまで勉強させてもらった人がどれだけいるでしょう。第一当時の田舎の人々は予備校という存在すら知らなかったと思います。そういう恵まれた環境で勉強し、今自分が英語が出来ることでこれまで受けてきた恩恵をどうやって説明するのでしょう」と書きました。壷井栄の短編に、「ピアノ」というのがありますが、(『寅さん』映画にも明らかに、これをモチーフにしたのがあった。) 庶民はピアノをもつことが出来ないのでしょうか? 庶民はピアノを弾いてはいけないのでしょうか? 大体、こういう論理を振り回す人は、藤原正彦氏のような、作家新田次郎・藤原てい氏の子息で、自由に勉強させてもらった人とか、伊吹氏のような繊維問屋のご子息でお金持ちで、学ぶことには苦労したことのない方々なのでしょう。東京都知事の石原氏もしかり。これが田中角栄氏だったら、こうは言わないでしょう。彼は越後の土建屋あがりの政治家でしたし、成績優秀だったが家庭の事情で高等小学校しか出ていません。学歴のなさの悲哀を肌で知っています。ですから娘の田中真紀子さんには教育をつけ、早稲田大のみならず米国留学までさせています。こういう、私らから考えるなら上流階級の人たちが、「お前らは英語なぞ考えずに、もっと国語をやれ」などと言われると、ムッとするのです。彼らは既得権を脅かされるとでも考えるのでしょうか? この節、英語の出来る人は、ゴマンといます。もはや国際語の観のする英語が出来るようになるために、小学生の頃から英語を始めてどこが悪いのでしょう。私の神学校の友人に、インドから来た青年がいました。彼もまた小学校の3年くらいから、アルファベットくらいから英語を始めたと言っていました。その程度の英語を、小学校から始めて何が問題でしょう。いずれにしても、やる人はやりますし、やらない人はやらないのです。これは国語でも同じでしょう。

しかし、今日のポイントはむしろ、国語にあります。最近の賛美は、殆どが口語ですが、讃美歌とか聖歌は、文語の詞になっています。最近よく聞くのは、この文語の詞の意味が分からないならともかく、「いずくまでも行かん」を「いかない」と間違って理解している若い人が随分いるという理由で、聖歌、讃美歌は歌わないと言う教会があるということです。驚きました。そういう訳で、こんな駄文を認めているのです。 今時の若い人は、歌詞をみたらそれが文語か口語かの区別がつかないほど、日本語が出来なくなってしまったのでしょうか?「きよしこのよる」を、「きよし君の歌」と思った人がいたそうです。おそらく私は、小学校の三年くらいの時の音楽の本にこの歌が出ていたと記憶していますが、その時ですら、「きよしこのよる」を正確に、その意味を捉えていました。自分で知ったのか、先生が教えてくれたのかは覚えがありませんが、これを「きよし君の歌」と思ったことは決してありません。私は57歳ですが、戦後生まれで、戦後の教育を受けたので、文語の世代ではありません。それでも、それが文語か口語かの区別はつきますし、「我十字架をとらん」とあれば、随分若い頃から、絶対「私は、十字架はとらない」だととは思いませんでした。

少なくとも、教会に来ている若い人たちは、もし教会で讃美歌・聖歌を歌って意味が分からない場合は、お年寄りの尋ねてください。それが一番手っ取り早い。それがいやなら、古語辞典で意味を調べてください。日本に行って、列車に乗ってみても分かるけど、あれだけ携帯でメールを打つ、くだらぬ時間があったら、そういう時間はとれるはずです。大体、メールにしても、おおかたが「今日、何食べた」「来週の日曜、何する」的な、箸にも棒にもかからぬバカなメール打ちに明け暮れているのが、最近の若者でしょう。ですから、お年寄りから、「もっと国語をやれ」などと、お叱りを受けるのです。

リズムはどうしても、若い人たちの場合、ビートのきいたリズムの賛美が好きでしょうから、そういうリズムでもいいですが、若い人たちでも歌詞は進んで文語で作るくらいの気風があってよいと思います。私は、日本人ですから、そういう人たちの、「日本語をもっとやれ」という意見に、やみくもに反対している訳ではありません。しかし、そういう意見が出てくる背景には、確かに若い人たちの日本語が弱くなっているからだと思います。せめて、讃美歌や聖歌の歌詞くらい、正しく理解してほしいと思います。私に言わせれば、ワーシップ・ソングだのプレイズ・ソングの歌詞のみすぼらしいこと、みすぼらしいこと。楽器のテクニックと、音響装置の高性能さで、誤魔化していると言う感じ。歌詞の豊かさは、何といっても、まだ讃美歌・聖歌のほうが上でしょう。国語が出来るようになると、それも分かってきます。