2006年10月8日


『ザアカイの話』 ルカ19:1-10

19:1 それからイエスは、エリコにはいって、町をお通りになった。

19:2 ここには、ザアカイという人がいたが、彼は取税人のかしらで、金持ちであった。

19:3 彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった。

19:4 それで、イエスを見るために、前方に走り出て、いちじく桑の木に登った。ちょうどイエスがそこを通り過ぎようとしておられたからである。

19:5 イエスは、ちょうどそこに来られて、上を見上げて彼に言われた。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから。」

19:6 ザアカイは、急いで降りて来て、そして大喜びでイエスを迎えた。

19:7 これを見て、みなは、「あの方は罪人のところに行って客となられた。」と言ってつぶやいた。

19:8 ところがザアカイは立って、主に言った。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します。」

19:9 イエスは、彼に言われた。「きょう、救いがこの家に来ました。この人もアブラハムの子なのですから。

19:10 人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです。」

 

ルカによる福音書には、伝道説教としてはよく使われるテキストが二つあります。それは『放蕩息子の話』と、このテキストである『ザアカイの話』であります。非常になじみ深い話で、ここを説教する時は、「またあの話か」と思われることが多い感じがして、普通は私はこれらの話をすることは避けるのですね。けれども今日は、二つの理由で、この『ザアカイの話』をしようと思います。その第一の理由は、初心者の方には、初めて聞く話と思いますが、どの牧師先生も、会衆に「またあそこか」と思われるのを感知して、私のように案外やらない傾向があると思います。従って、よく知られた話の割には新鮮だろうと思うからです。二番目は、これは伝道説教、すなわち初心者向きのメッセージばかりでなく、クリスチャンにとっても大切なメッセージがあるからという理由です。

  実際、このテキストは初心者向きの伝道説教というパターンで語られることが多いのですが、信徒の方にも適用されるべき大切なメッセージが含まれています。ですから、すでクリスチャンと言う方も、是非注意してお聞きください。

  失われた者を探し出して救うというのが、イエス様の来られた目的です。ですからクリスチャンは、主に倣うべきだということを念頭にいれてください。 

  エリコという場所は、エルサレムから30キロもない所にありますが、エルサレムは標高が約800メートルあり、エリコは、数百メートルは海面下ですから、まさにエルサレムから下りますと、落ちるという感じの道路ですね。 しかしエリコはとても素敵なところで、現在でもパームツリーが一杯です。

  イエス様がここにおいでになった時に、ザアカイという取税人が出てまいります。ルカ伝のほかの個所、例えば3:12とか、レビ(マタイ)のことを記した5:27などは取税人となっていますが、この人は、その長であったのですから、相当なものだったのでしょう。当時の、パレスチナの主要収税所は、カイザリヤとカペナウムと、ここエリコにあったようです。エリコという町は、北のツロとかシドン、それにダマスカスに行くためにも、西のカイザリヤ、ヨッパに行くためにも、あるいは南のエジプトに行くにも、街道が通っておりまして交通の要所でありました。従って、通商のために人の行き来が多くて、つまり収税額も高かったようです。また当時の収税人は、現在の税務署員のようではなく、かなり不正な取立てをしていたようです。ザアカイは、テキストでも「もしだれかから不正な取立てをしていましたら」と「もし」を使って言っていますが、これは多分にそういう事実があったことを示しています。

   まず取税人ザアカイについて考えてみましょう。イエス様が、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」と言われたでのすから、このザアカイが「失われた人」だったのです。いったいどういうことでしょう。この「失われた人」を意味するアポルーミという原語は、「破壊されつくされている」を意味します。つまり「死んでいる」とか、「無い」ということです。しかし、このザアカイは、そこまで破壊されつくされていたでしょうか?

日本では『新3K』が、女性の結婚相手候補の男性の条件だということを聞きました。すなわち、高学歴、高収入、高身長らしいのです。私が家内と出会ったのは、中央聖書学校ですが、この時この法則があったら、私の場合、高身長だけは良かったが、金はない、高卒でしたし、あとは何もありませんでした。ザアカイの時代は、学歴はともかく、背は低かったようですが、「背が低かった」ことが、「失われた」という意味ではないでしょう。英語の聖書では、この個所は「lost」です。このlost と聞くと、あの奴隷商人だったジョン・ニュートンの作った「おどろくばかりの恵みなりき」の「アメイジング・グレイス」を思い出します。そこに、I once was lost but now am found, was blind but now I see. というフレーズがありますね。このロストは、生けるまことの神との交わりがあるかないかの問題です。無い者を「失われた人」と言うのです。その人が神を認めることが出来ない、従ってその心の内に神さまがおいでにならないならば、それはナッシング「失われた人」ということです。新聞カミや、はなカミではなく、生けるまことの、イエス・キリストの神であります。

そういう「失われた人」の特徴はと申しますと、普通人が喜ぶようなものを持っていても、満足できないのですね。ザアカイは「金持ちであった」のです。金持ちになることを人生の目標とする人は、今日でも沢山おります。しかし程度の差こそあれ、お金を目標にすることは、空しく感じるでしょうね。お金を儲けるより、むしろいかに使うかの方が大切でしょう。世界一のお金持ちは、マイクロソフトのビル・ゲイツ氏はともかく、二番目が、ちょっと下がって投資家のウォーレン・バフェットしで、両方とも6兆円以上です。一万円札を積み上げると、百万円で大体1センチになり、一億で1メートルになり、一兆ですと、1万メートル、エヴェレストより高いのです。彼らは一人で、1万円札を6万メートル積み上げた位のお金を持っているのです。まだ50歳のゲイツ氏はともかく、歳をとって残りが少ないと感じたのかバフェット氏は最近、その資産の殆どを、ビル・ゲイツ氏の、ビル・ゲイツ基金に寄付することを決めたそうです。どれだけ持っても使いきれるはずがないのですよ。どうせそうなるなら、もっと前から教会に献金しておけば、もっとイエス様が喜ばれただろうにと思います。人間の生きる目的は、イエス様を喜ぶことなのです。おそらくこの富豪たちは、それを御存知ないのでしょう。可哀相なことです。お金の使い方を、御存知ない、私はそう思います。

ですからどういう仕事をするかの選択は、パウロのように、2テモテ4:7 で「わたしは戦いをりっぱに戦いぬき、走るべき行程を走りつくし、信仰を守りとおした」と言うためには、非常に大切ですね。

私は若い頃、俳優になりたかったのですが、農家の長男が東京で俳優修行だなんて、私たちの時代では、ちょっと難しかったのです。それで家業の農業をやることになりましたが、少し修行したほうがいいだろうということで、愛知県の豊橋に来たのです。そして私はそこでイエス様によって救われたのです。救われる前というのは、最悪でした。私は背も高いし、今よりもっとふさふさのビートルズのような長髪で、今のように腹も出ていませんでしたし、おそらくかなりカッコも良かったと思います、お金はなかったけど。私は、当時まだクリスチャンではなかったけれども、お金が人生の目標ではないとは感じていました。しかし、結局やっていることは、いかにしてお金持ちになるか、いかにしてクラウンのスーパー・デラックスに乗るかと言うようなことばかりだと知って、本当に虚しかったですね。

その頃、フォーク・クルセダーズの、「悲しくてやりきれない」という歌が流行っていました。サトー・ハチローさんの詩ですが、「悲しくって悲しくて、とてもやりきれない。この限りない虚しさの救いはないだろうか」は、まさに私のことのように感じました。そんな頃、私は車の中から見た十字架を見て、教会に導かれたのです。

ザアカイは金持ちでしたが、おそらく人生が虚しかったと思います。そればかりではありません。彼は孤独だったと思います。テキストは、「これを見て、みなは、『あの方は罪人のところに行って客となられた。』 と言ってつぶやいた」と言います。つまり同じユダヤ人でありながら、同胞の「みな」が、イエス様がこの人の家に入られた時、いい顔をしなかったのです。つまり「みな」から嫌われていたのでしょう。聖書では、当時の取税人は罪人と同義語でした。

時々「僕は孤独を愛しています」なんちゃって、カッコつけて言う人がいますが、冗談ではない、孤独など愛せるわけがない。人間は一人では生きて行けないのです。ザアカイには、もしかしたらお金で近づいてくる人がいたかもしれませんが、お金の切れ目が縁の切れ目ということを、この人自身が知っていたのでしょう。結局、信頼できる友がいないのですね。気の毒な方です。

お金では幸せになれないということは、そんなにも明らかなのに、今日でも、お金に執着する人の多いこと、多いこと。ヘブル6:10には、「金銭を愛することが、あらゆる悪の根」と書いてあるではありませんか。お金は、あなたを幸せにすることを、絶対に保証しません。もしそうなら、私のような者は決して幸せにはなれないでしょう。ところが昨年20周年記念誌にも書きましたが、私たちの家族は、世の中の標準から言うなら、貧しかったのです。けれども私は、自分の家族も、これまで自分してきたことをも、主にあって誇ります。二人の子供達は、大学にも行きましたし、信仰を受け継いでもくれました。私と妻は貧しくとも、今でもラブラブ・カップルです。小さくとも、サンホゼで、全米最初の会堂を持つ日系人アッセンブリーを開拓させていただきました。私はお金がうなるほどあったら、こうは行かなかっただろうと思います。

誤解のないように、世の中にはお金を儲けるタラントのある方がいますし、そういう風に召されている人もいるでしょう。そういう人は、主の栄光のために沢山儲けてください。ザアカイのように、不正で儲けてはいけませんが、事業をするとか、とにかく何をするにしても儲かったら、このザアカイのように半分くらい献げると、平和で素晴らしい家庭になるでしょう。考えてみて下さい。一億収入のある人は、5千万献げても、残りの5千万で生活できないでしょうか?貯金すら出来ると思いますよ。一千万で生活すれば、九千万は献げられます。投資家という人も、私は可能だと思います。だって、キリスト教会は、お金が必要ですから。儲けるタラントのある人は、じゃんじゃん儲けて、じゃんじゃん献げたらいいのです。

イエス様は、ザアカイに「あなたの家に泊まることにしてあるから」と言われました。何が起こったでしょう?彼は、「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」と申しました。ザアカイにとっては、もはやお金など、問題ではないのです。どうしてこうも変わったのか? それは、イエス様が来てくださったことによるのです。この場合、ただ彼の家に来てくださったということではありません。ザアカイの心の内にまで入ってくださったのです。イエス様が来てくださって、すっかり考え方が変わりました。「お金が人生の目的ではないんだ」と分かったのですね。「こんな不正をやって、同胞を裏切ってはダメなんだ」と分かったのですね。この聖書を読むだけでも、そういうことが分かってザアカイがいかに喜びに満ち溢れているかが分かりますね。その結果、彼は「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」と言ったのです。

「お金は人生の目的にはならない」と分かっているのに、今日でも、どうにもお金儲けが人生の目的のような考えの人がおります。お金を儲けるタラントのある人は、イエス様の栄光のために、儲けると言ってください。このあたりが分からない人がおります。これはもう頭がいいとか、悪いの問題ではありませんね。信仰の問題です。お金儲けのための、お金儲けはきっと虚しさを感じるようになります。感じない人は、不幸ですね。

さて、今日はどうしたらイエス様に来ていただいて、ザアカイのように輝けるようになれるのでしょうか? 簡単です。使徒2:21 には「主の名を呼ぶ者は、みな救われる」とあります。ですから、「イエスさま、おいでください」と呼ぶことです。そしてパウロという方が、言っています、「人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである」と。ですから、信じて告白することです。必ず、イエス様は来てくださって、あなたを変えてくださいます。

さて、ここまではどちらかと言うと初心者の方達のためですが、この後は、すでに信じているクリスチャンに対するメッセージです。

このザアカイは、渇いていて真理を求めておりイエス様を見たいと思っていたと、ザアカイにもクレジットを与えがちですが、実はそうではないのです。テキストは、「人の子は、失われた人を捜して救うために来たのです」と言います。この「人の子」というのは、イエス様のことですね。イエス様は、エリコに来てから、「失われた人」を捜し始められたのでしょうか?そうではなく、人の形をとって来られた神なるイエス様は、最初から失われた人を捜しておられたのです。ザアカイが「失われた人」でした。彼は、「いちじく桑の木に登った」ようです。この木は葉っぱが大きく、隠れてイエス様を見るには都合のいい木でした。しかもしばしば枝が地面まで垂れている木で、背の低いザアカイでも簡単に登れたようです。イエス様のまわりには人々が沢山おりました。しかしこの時の「失われた人」はザアカイでした。この失われた人を捜す熱心さ、クリスチャンの皆さんおありでしょうか?

最近私たちの教会のSさんが飛行機の中で、Kさんのお母さんに出会い、その時に教会の話をしました。まったく初めて会った人です。Sさんは「この方、イエス様を必要となさってるな」と感じたそうです。いつも捜している人は、そういう感じも与えられるのですね。もしSさんがKさんに教会の話をしなかったら、今日その娘さんのTさんは教会に来ていなかったでしょう。それはSさんの頭の中に、誰かに福音を伝えようという捜す思いがあったので、主が出会わせてくださったのです。

主はザアカイに会う前にも、沢山の人々に会っておられます。私たちも多くの人々に会います。しかし主が救われるのは多くの中の選ばれた人ですね。その選ばれた人に出会うためには、多くの人に出会って、捜す必要があります。

あなたは、先に救われた者として、そして主に倣う者として、「失われた人」を捜していますか? 御言葉を持って捜しましょう。これがクリスチャンに対するメッセージです。Tさんにとって、もはやSさんは決して忘れることの出来ない人になりました。あなたによって、捜し出される人がいるはずです。捜しましょう。

祈ります。