2006年10月22日
『忍耐によって』 ルカ21:5-19
21:5 宮がすばらしい石や奉納物で飾ってあると話していた人々があった。するとイエスはこう言われた。
21:6 「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます。」
21:7 彼らは、イエスに質問して言った。「先生。それでは、これらのことは、いつ起こるのでしょう。これらのことが起こるときは、どんな前兆があるのでしょう。」
21:8 イエスは言われた。「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大ぜい現われ、『私がそれだ。』とか『時は近づいた。』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません。
21:9 戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません。」
21:10 それから、イエスは彼らに言われた。「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり、
21:11 大地震があり、方々に疫病やききんが起こり、恐ろしいことや天からのすさまじい前兆が現われます。
21:12 しかし、これらのすべてのことの前に、人々はあなたがたを捕えて迫害し、会堂や牢に引き渡し、わたしの名のために、あなたがたを王たちや総督たちの前に引き出すでしょう。
21:13 それはあなたがたのあかしをする機会となります。
21:14 それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。
21:15 どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます。
21:16 しかしあなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、
21:17 わたしの名のために、みなの者に憎まれます。
21:18 しかし、あなたがたの髪の毛一筋も失われることはありません。
21:19 あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます。
教会ではあまり否定的なことを話さないほうがよいということから、終末について聞く説教は少ないと思いますが、聖書的なクリスチャンは、個人に終末があるように、この世に終末があることを信じています。個人の終末というのは、死であります。人間ばかりでなく、生きているものが必ず死ぬということは、聖書を見るまでもなく(ヘブル9:27)大体誰もが信じています。つまり人間の終末は、死ぬという形でやってまいります。
最近ある方から勧められて読んだ本の中に、ガン患者が非常な苦しみの中で、モルヒネなどの痛み止めを使うことで体をぼろぼろにして死んで行くという説明を知って、前に私が「ガンはいい病気だ」と言ったことをもう一度考えました。その本を読んだ後、ちょっと恐れを感じましたが、やっぱりもし私は、病気で死ぬなら、脳溢血などで意識不明になって死ぬより、意識があってジワジワと終末に向かうガンのような病気の方がいいと思いました。そばにいる人たちには申し訳ないですが、やはり私はこういう終末を望みます。
昔読んだ本に、『わが涙よ、歌となれ』という肺ガン患者の闘病日記があります。原崎百子さんという当時三重県桑名市だったと思いますが、そこの教会の牧師婦人の本です。肺ガンの死ぬ前の苦しさは半端ではないそうですが、その本の中にも、それが記されていました。もう20年以上前に読んだ本ですが、勿論、絶命の前の描写は御主人が書かれたものですが、ベッドの上で声も出せず、涙も枯れ、のた打ち回るという壮絶さでした。彼女の場合は、モルヒネは使っていないと思います。その本が、『わが涙よ、歌となれ』なのです。
今回私は高知教会に参りましたが、そこの岡本先生の奥さま、純子先生のお母さんが召された時のことも思い出します。後藤さんと申しましたが、胃ガンでした。しかしモルヒネなどは使いませんでした。そしてこの純子先生をはじめ枕元にいる方々への最後の言葉が、「大丈夫よ、お母さんは勝利したからね」だったそうです。それで私がお葬式に行った時、御主人は私に、「イシハラ先生、家内は勝利しました」と申されたのが、今でもとても印象に残っています。
個人の終末でも、見た目には非常に苦しいように、この世の終末も、さまざまな困難があることを聖書は告げています。
この世の終わりの前には困難があります。しかし最後まで耐える者が勝利をするということを知ってください。
この終末の記述は、マタイ伝では24章に、マルコ伝では13章にあります。まず主は、「あなたがたの見ているこれらの物について言えば、石がくずされずに積まれたまま残ることのない日がやって来ます」と言われます。これはどういうことでしょう。今回東京でもう一度、皇居の周りを通りました、熊本でも熊本城の周りの石垣をみました。私の出身の岐阜県にはいま、容積量日本一の徳山ダムがほぼ完成し、水を溜めにかかりました。あのダムはロックフィル式と言って、石を積み上げ粘土などで固めたダムです。これが崩れると、下流は大洪水になるでしょう。主は、恐ろしい日がやって来ることを予告しておられます。
最近、北朝鮮が核爆弾のテストをやったということで国連の非難決議がなされ、今北朝鮮は、国際包囲網の中で、厳しい生活を強いられています。それにしても北朝鮮は、すでに核を持っている米、英、露、仏、中国、インド、パキスタンについで、(イスラエルは持っているかも) 八番目の核保有国であることを宣言しました。
終末の前兆の一つとして、「戦争や暴動のことを聞いても、こわがってはいけません。それは、初めに必ず起こることです。だが、終わりは、すぐには来ません」とありますし、その結果、「石がくずされずに積まれたまま残ることのない」のですから、これはもしかしたら核戦争かもしれません。アメリカにはそれこそ、全人類を繰り返し、繰り返し殺戮するほどの核があるそうですし、ロシアもかなりあるでしょう。私がまだ中学生の頃、旧ソ連が、50メガトンの核実験をやりました。今でこそ、コンピューターの時代ですから、メガなどという単位はごくごく普通に使われており、むしろ更にその1000倍のギガの時代ですが、あの当時、メガなどという単位は殆ど聞いたこともありませんでした。そしてキロの千倍と知ってびっくりしました。つまり広島に落とされた原爆が、20キロトンですから、なんとその2,500倍なのです。資料によれば、この爆弾が落とされると、半径60キロくらいの中にいる人は、必ず死ぬそうです。日本にも風に流されて黒い雨が降ってきました。
どういう形で終末になるのか、確実に予測は出来ませんが、核というのは、確かにその候補にはなるでしょう。
テキストは、「民族は民族に、国は国に敵対して立ち上がり」と告げます。 マタイでは、はっきりと「戦争のことや、戦争のうわさを聞くでしょう(24:6)」と言っています。
あの戦い以後、日本は60年以上も戦争に巻き込まれませんでしたが、将来にもわたってこの平和が続くかは、疑問です。現に日本は、憲法を改正して自衛隊を、はっきりとした国軍と位置づけ、集団的自衛権を憲法に盛り込む方向で動いてます。また麻生外務大臣は、日本の核武装化も論議されてよいと、踏み込んだ発言をしています。
戦時下の困難さは、若い人たちは、オジイチャンかオバアチャンに伺ってください。そうでなくとも、北朝鮮は戦時下と言えます。国費の大半が、彼らの言う国防費に使われ、民には必要な物資が届きません。多くの人々が、餓死しているそうです。今年は不作で、この冬は、ことに食べ物がなくて、多くの餓死者が出ることが予想されるそうです。アフガニスタン、イラクもまだ、安定していません。
こういう世界的なことは、私たち個人ではコントロール出来ませんね。しかし、こういう終末的な時代に、個人はどうでしょう。
テキストでは、こういう週末の時代には、「惑わされないように気をつけなさい。わたしの名を名乗る者が大ぜい現われ、『私がそれだ。』とか『時は近づいた。』とか言います。そんな人々のあとについて行ってはなりません」と言います。
このイエス様の言われた言葉を、そのまま「イエスさま」という風に理解しても、この世には、さまざまなキリスト教の異端がありますね。「私が再臨のキリストだ」などとうそぶく異端もあります。「イエス様の名」を、「権威ある名」と理解するなら、(事実イエス様の名には権威があるからです)これは、もう信じられないほどの権威者がおります。私は高校時代に、「石原、カール・マルクスの名前だけは覚えておけ」と勧めてくださった先生がおりました。あの頃、あの先生も若気のいたりで、そう言われたのでしょうが、私がこの年になっても覚えているのですから、聖書は、「多くの者が教師になってはいけません。ご承知のように、私たち教師は、格別きびしいさばきを受けるのです(ヤコブ3:1)」と教えます。教師は人の生涯を左右することを教えるわけですから、いい加減なことを教えてはいけませんね。
最近は極めてキリスト教的異端もあります。彼らはイエス様を信じていますから、正統的キリスと教に思えますが、聖書に従っていないですから、しばしば聖書の原則から逸脱した行動が実践されることがあります。こういう教会に属すると、気の毒です。生涯の大切な時間が無駄になるばかりか、その後の人生にトラウマになったりするからです。
聖書は、「それで、どう弁明するかは、あらかじめ考えないことに、心を定めておきなさい。どんな反対者も、反論もできず、反証もできないようなことばと知恵を、わたしがあなたがたに与えます」と言います。私は、自信を持って 「イエス様の名前だけはは覚えておきなさい」と教えます。彼らは笑うかもしれませんが、それはあなたを笑っているのではなく、イエス様をわらっているのであって、その報いは彼らに返ってくるのです。
家族はどうでしょう? テキストは、「あなたがたは、両親、兄弟、親族、友人たちにまで裏切られます。中には殺される者もあり、わたしの名のために、みなの者に憎まれます」とあります。クリスチャンにとって家族とか、近親者に反対されると非常にもろいですね。ご夫婦の場合、一方が信仰者でない場合は、あなた自身がしっかりと主について、信仰を維持して、あなたのサイドに相手を引き入れるようにしましょう。決して向こうのサイドになびかないようにしましょう。
何度も話していますが、私は高校を卒業して俳優になるために上京しようとしました。しかしこれはうまく行きませんでした。母が泣いたからです。私の場合、母が泣いたらもう動けないのですね。けれども、召されて伝道者になろうとした時には、母が泣いても決して私は動かされませんでした。ここにあるように「裏切られ」るという感じではありませんが、反対はされました。テキストは、「殺される」とも記されています。
雑誌『ハーザー』で、沖縄の田中菊太郎先生の、『キリシタン殉教の道を辿る』という連載が始まってもう五年目です。一級の読み物であり、素晴らしい資料だと思います。今月号(11月)に、「美濃尾張はキリシタンにとり、大変恵まれた保護環境にあったと言えましょう。しかし、この事が大迫害の時、美濃尾張が、日本で一番多くの殉教者を出す原因となったということも見逃せません」とあります。私は自分の出身県で殉教があったことは、田中先生の記述にもあった資料館にも行ったことがありますので知っていましたが、「日本で一番」と言われるほどの殉教者が我が岐阜県から出たことは知りませんでした。そして今、それを確認して、誇らしいと思うのと同時に、現在どうして岐阜の伝道は低調なのか何となく分かります。それだけキリシタンが殺されると、人々は何も言わなくても「ヤソには近づかない方がいい」という思いが、世代を超えて刷り込まれてしまっているのでしょう。
今回、ルークの住む兵庫県三田にフトンを送ったとき、母がフトン袋を出してくれました。それは紛れもない、今から36年前、私が田舎の国鉄の駅からチッキで田舎を出た時に使ったフトン袋でした。母はあの時、私が乗って遠ざかっていくヂーゼルカーを、涙を流して何時までも何時までも見送っていました。しかし覚えていただきたいのは、本当の平和のためには、破られなければならない、ニセの平和があります。それは霊の戦いです。母は、二年前、ついにイエス様を信じてクリスチャンになったのです。
忍耐です。この「忍耐」という資質ほど、今日問われている資質はないと思います。若い人は切れやすい。我慢できない。ただ皆さん方の戦いの場合は、しばしば試練ではないことがあります。試練前試練です。信仰のために命を賭して忍耐するかなどとは、とおく及ばずだと思います。如何でしょう。ことにアメリカにおいては、礼拝をまもったり、聖書を読んだり、祈ったりする信仰のプラクティスは、誰からも妨げられることはないと思います。これで信仰が維持できないのでは、迫害などになったらもつはずがありません。仮に日本に帰っただけでも、すぐに試練はやってきます。しかしせいぜい、「xxちゃん、日曜におばさんの家にいこうよ」という程度の試練でしょう。あるいは、レベルがすこしきつくなると「日曜は会社の野球大会に出てください」と言ったようなものですが。とても「信仰から離れないと殺す」というような厳しいものはないでしょう。しかし油断してはなりません。パウロは、2テモテ3:1で「終わりの日には困難な時代がやって来ることをよく承知しておきなさい」と言ったあと、「確かに、キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます」と言います。
試練というのは、信仰の試練です。テキストは、「あなたがたは、忍耐によって、自分のいのちを勝ち取ることができます」と言います。イエス様に固くくっついてはなれないで下さい。離そうという試練には忍耐を持って耐えて下さい。ガンになった時、モルヒネを使うことは負けだとは思いませんが、イエス様に固くくっつくということのためには、簡単な方法はありません。耐えなければならない時があります。
聖書は、「わたしの名のために、あなたがたはすべての人々に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ者は救われます(マタイ10:22)」と言います。
祈ります。