2006年10月22日

Outreach 聖霊様の力によって
  

 こうして、キリストご自身が、ある人を使徒、ある人を預言者、ある人を伝道者、ある人を牧師また教師として、お立てになったのです。それは、聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ、キリストのからだを建て上げるためであり、ついに、私たちがみな、信仰の一致と神の御子に関する知識の一致とに達し、完全におとなになって、キリストの満ち満ちた身たけにまで達するためです。(エペソ4:11-13)

    最近は、将来伝道者になる予定の神学生の中にも、「外での伝道はしたくないね」と言う人がいるそうです。つまり礼拝で、説教だけはするから、外へ向かっての働きはしたくないということのようです。そしてそういう人達は、「牧師は羊飼いです。羊飼いは羊を飼うのです。羊を生むのは羊です」と言います。確かにそうかもしれませんが、大体の場合、「そう言うのは十年、あるいは二十年早い」と思います。アーサー・ホランドという伝道者は、新宿の西口で、真っ白なブレザーを着てガードレールに乗っかって、人々にイエス様のことを語りかけたといいます。口の悪い、クリスチャンたちは「バカなことをやっている」と言ったそうです。そういう人は、十人でも人を救いに導いてから、そう言ったらいいでしょう。外に向かって伝道する勇気もない人たちが多いのです。私の思いでは、聖霊のバプテスマを受けて、聖霊に満たされないと、なかなかああいう勇気は、わいてきませんね。私は、かつては自分の田舎でなら、自分がクリスチャンであることすら言うのを恥ずかしがるような弱い者でした。しかし、私は「アーサーと張り合って、新宿で出来るか」と問われるなら、「勿論」と答えます。彼のように白いブレザーを着こなせるほどスマートではありませんが、紋付袴でなら、彼にたちうちできると思います。

   以前、どこかでも書きましたが、東京のある閑静な住宅街に、日本でも有名なある人が、毎朝犬と散歩して教会の前を通るのだそうです。その時、その教会の牧師さんの話したことが、ペンテコステ派の私にすれば、なんとも情けない話なのです。その牧師さんは、その有名な人を見て、「ああいう人が、うちの教会に来てくれたらいいなあ」と思ったそうです。私はその先生に、「先生、その方を教会に誘ったのですか」と問うと、テレ笑いして、「いあー、ああいう有名人は、なかなか私たちのような小さな教会には来ないから…」と、つまり誘っていないのです。

   ある人々は、「日々の生活の中で、クリスチャンとして生きることが伝道になる」という人たちがおります。日曜に礼拝に行き、聖書を読み、祈りをするという生活…・人々にクリスチャンとしての品性を見せる。愛を示す、親切を示す、不品行、不道徳を行わず、清潔に歩む…・・それは悪くないでしょう。しかし、これは聖書の教えている、伝道でしょうか? 外に向かって伝道する勇気がないものですから、こういういい訳をする場合が多いのではありませんか。OUTREACHという言葉は、「度が過ぎる」「行き過ぎる」という意味もありますが、「手などを差し伸べる」という意味があります。新約聖書の、例えば冒頭のエペソ書を書いた、パウロを思い出す時、どこに、じっと留まっていて、「日々の生活の中で、クリスチャンとして生きることが伝道になる」という雰囲気が感じられるでしょう。外にむかって手を差し伸べることが、OUTREACH(伝道)なのです。

   今度の北カリフォルニア日系教会リトリートに来られた天野先生も、池袋のサンシャインビル界隈でトラムと配布をした時の様子を話してくださいました。今日日本では、確かにトラクトで救われる人は少ないようです。こういうパターンで伝道すれば、虚しさがわいてくるかもしれません。しかし、アーサー・ホランド先生にしても、天野先生にしても、あるいは私にも言えますが、外へ向かっての伝道を、してまいりましたし、しているのです。主はそれをあなたにも求めておいでになりますし、そうしなければ救われる人は、極めて少ないのです。確かに路傍伝道とか、トラクト配布といった伝道方法は、今あまり効果的ではないかも知れません。しかしなんらかの意志を持っての外への働きかけをすることは、主が私たちに望んでおられることでしょう。そうでなければ、聖霊さまからは、「一体お前は何をしているのだ」と言われるでしょう。

  まるっきり知らない人に伝道する時と、知っている人に伝道する時、どちらの場合も困難な時も、比較的楽な時もあります。まず知らない人の場合、難しいのはコンタクトすることが難しいですね。しかし楽なのは、相手は知らない人ですから、いったん語り出せれば、余計な心配なしに話せます。これが知っている人だと、コンタクトするのは簡単です。時には、向こうから、「あら、xxさんじゃない?何してるの? え、これなーに?」と、トラクトを進んで見ようとするかも知れません。しかし知っている人だと、そういう自分の姿は知っている人には隠しておきたいと考えます。学校、会社、あるいは親戚などの間では、出来そうでなかなか伝道できません。自分がキリスト者であることすら、知られたくないと思ってしまいます。伝道するつもりで行っても、四方山話で一時間も二時間も過ごして、「さようなら」して帰ってくることもあるでしょう。

   教会の業としてのOUTREACHですと、テレビを使ったり、伝道会をしたり、何か人をひきつけるイヴェントをしたり大掛かりなことを考えるかも知れませんが、OUTREACH は、単純に福音をもって、まだ福音を知らない人々に、すでに知っている人が意識的に、手を差し伸べることと理解したらいいでしょう。「意識的」ですから、クリスチャンの日常の生活を通してなどというものは、付加的なものであっても、OUTREACHには入れません。

  サタンにとって、多少クリスチャンの数が増えることは、「まあ、仕方がないだろう」という程度です。そしてクリスチャンたちが、外に向かって伝道するという意欲を持たないようにコントロールしておけば、サタンは安泰なわけです。しかし、サタンが恐れるのは、クリスチャンたちが、外に向かって意識を持ってOUTREACHにかかることです。 彼らは「イエス様の名」を使います。イエス様の名には力があります。人々が救われ始めるからです。

  パウロのように東奔西走しないで、日々の生活をしている人であっても、必ず人間には人とのコンタクトがあるはずです。例えばご用聞きに来た八百屋さんがあなたの家にやって来た場合でも、これはあなたが出て行っているのではありませんが、この時あなたが意識してイエス様を伝えるなら、いいえ、難しい教理を話さなくとも、「ねえ、八百屋さん、私、クリスチャンで教会に行ってるの。こん度、私たちの教会の礼拝に来てみませんか?」でも、立派なOUTREACHです。故田中政男先生を救いに導いたのは、仕事場の社長の奥さまの「政男君、100円あげるから教会へ行かない?」という誘いでした。昔、三浦綾子さんの講演を聞きました。病気で入院していた人が、病室の窓から、外を通っている人達に笑顔を振りまいたということです。外を歩いていたあるひとが、ある時、その病室を訪ね、「あなたは、どうして入院していて、そんなに笑顔がふりまけるのですか?」と尋ねたそうです。そこで、その病気の人は、イエス様を紹介したという話でした。誰にでもOUTREACHの可能性はあると思います

   この節は、電話は言うに及ばず、インターネットとか、チャットとか、ブログとか、さまざまな媒体があります。面と面と向かってのOUTREACHに、尚、こわさを覚えるなら、こういう媒体ででも、OUTREACHは出来るでしょう。

  しかし、現状は、まだまだイエス様を知らない、教会の外の人たちに、なかなかこのイエスさまを伝えるという、OUTREACHが出来ていないのですね。「聖徒たちを整えて奉仕の働きをさせ」る、すなわち主の証人としての働きをすることは、すべてのクリスチャンに求められていることです。

  聖霊のバプテスマを受けることが勧められます。使徒2章を読むと、あれほどおどおどしていた弟子たちが、外に向かっての伝道に対して、実に大胆になっているのです。あなたがクリスチャンになっただけではなく、主の証人として、遠くの人でなくとも、あなたの回りの人で、まだ福音を知らない人に、福音を携えて行く人になって欲しいのです。「私どもの教会は、アメリカにある教会だから、数が少ないのはあたりまえ」という弁解は、やめましょう。不特定多数の日本語を話す人が、日本と比べて少ないとしても、まだまだ福音に触れていない日本人は、いるはずです。そしてそういう人たちと、あなたは必ず接点があるはずです。

  聖霊さまが、あなたの心を揺り動かされることを期待します。