2006年10月29日
『誘惑に陥らないように祈れ』 ルカ22:39-46
22:39 それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ、弟子たちも従った。
22:40 いつもの場所に着いたとき、イエスは彼らに、「誘惑に陥らないように祈っていなさい。」と言われた。
22:41 そしてご自分は、弟子たちから石を投げて届くほどの所に離れて、ひざまずいて、こう祈られた。
22:42 「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。」
22:43 すると、御使いが天からイエスに現われて、イエスを力づけた。
22:44 イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。
22:45 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。
22:46 それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」
最近のよく知られた話ですが、以前早大大学院教授をやっていた植草一秀先生が、手鏡を持って女子高生のスカートの中をのぞいていて逮捕され、罰金刑を受けて、いっぺんに早大の職を失いました。これが2年前ですが、彼は東大経済学部を出て、京都大学で教え、スタンフォード大でもフェローとして教えたことがあるほどの実力もあったので、今年名古屋商科大が拾ってくれて、また教えていたのですが、今度は痴漢行為で逮捕されたというのです。植草先生はともかく、奥さまやお子様があるなら、彼らはもう外も歩けないのではないかと思います。約20年の植草教授の輝かしい業績は、ほぼパーになった感じがします。この方は、よくよく性に対する誘惑には弱い人なのでしょうね。
しかし植草先生の場合は、まだこれから、こういう経験を経て、イエス様に出会うということもありますので、絶望的ということではありません。むしろシリアスなのは、植草先生のように有名人でなくとも、クリスチャンで、ごくごく普通の人が遭遇する、人の目にはそんなに大したことはないように見えるに永遠の滅びに落ちる誘惑です。
人間を永遠の滅びに導く罪に陥るのは、サタンによる誘惑からやってまいります。しかしこのサタンは、人間よりかなり賢い。どんな有能な人材であろうと、普通の人であろうと、このサタンの誘惑に陥ると、人生が台無しになります。
そこで最初に覚えておきたいのは、人は誘惑に遭う、しかし誘惑に陥らないようにするために祈りをすべきである、ということです。
まず人間が誘惑に遭うということです。何も植草先生でなくても、人は様々な形のサタンの誘惑を受けた経験はあると思います。1ヨハネ2:16には、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」ということが記されておりますが、これらはよくサタンの使うの誘惑の手段のようです。ただ、信仰のない人たちは、それがサタンの手だとは分かりませんから、当惑してしまうと思うのですね。ただ、こういう誘惑に負けて、罪に陥りますと、それですっかり満足してしまって、人間にとってもっとも大切なものに目が行かなくなるということになるのです。これがサタンのねらいであります。そこには、何も植草先生のように、手鏡ハレンチとか、痴漢行為を働かなくても、いわゆる世の中的には、真面目な人でも、「イエスさまの元(教会)に行かなくても大丈夫よ」という手で、サタンは誘惑するのです。
お金は大切ですが、お金、お金と言う人は、暮らし向きを気にするのでしょう。あるいは、見た目を満足するために、肉の欲を満足させるために、お金、お金と、お金に目の色を変えるのでしょう。
銀座のバーのママさんとか、歌舞伎町で時分自身を売っている人たちのほうが、普通のサラリーマン諸氏よりはお金持ちでしょう。大学もやめて、マネーゲームを展開した、なんとかエモンという人も、お金はあるでしょう。しかし人間の目的は、神の栄光を現すことです。『伝道者の書』に出てくる、かつて王だった方も、「実に、神から離れて、だれが食べ、だれが楽しむことができようか(2:25)」と、天地万物をお造りになった神を忘れた人間の空しさを記してます。
イエス様が、「神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます(マタイ6:33)」と言われたように、「神の国とその義」を求めることが、人間にとっては第一であり、必須なのです。それほど大切なことなのですが、サタンが極めて上手に誘惑することで、人々は、そういういう大切なものに目をやることがまずありません。
人間の祖、アダムとエバも、誘惑に遭いました。彼らは、サタンの誘惑に負けて、取って食べてはいけないと言われた、園の中央にあった木から食べました。聖書は、「そこで女が見ると、その木は、まことに食べるのに良く、目に慕わしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。それで女はその実を取って食べ、いっしょにいた夫にも与えたので、夫も食べた(創世記3:6)」とあります。サタンの誘惑は、それを見させることを通して、そして人がそれを見ることを通して、人を罪に陥いらせたのでした。
イエス様もまた、マタイ4章ではサタンの誘惑に遭われてます。創世記3章のアダムとエバのケースと言い、このマタイ4章のイエス様のケースといい、明らかなことは、サタンの最も狡猾で、人間にとっての最も悲惨な誘惑の目的は、今日の人々にしても昔のアダムにしても、彼らを父なる神から引き離すということであります。アダムの場合は、「あなたがたは決して死にません。あなたがたがそれを食べるその時、あなたがたの目が開け、あなたがたが神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです(3:4-5)」というサタンの囁きによって、躓きました。ことに「神のようになり」は、人が神と対等になれるかもしれないわけですから、これは父なる神を離れての自立を意味します。パウロは、ローマ9:20
で「ああ人よ。あなたは、神に言い逆らうとは、いったい、何者なのか。造られたものが造った者に向かって、『なぜ、わたしをこのように造ったのか』と言うことがあろうか」と、創造者と被造物のはっきりした立場の違いを教えています。私ども人間は、神によって造られたものであります。私どもが、神になることは決してありませんし、そういう試みをすること自体が、神への違背なのです。
イエス様が誘惑に遭われた時はどうだったでしょう。サタンは、「石をパンにしてみろ」とか、「そこから飛び降りてみろ」とか、地上の栄華を見せて、「私を拝め、これをやる」とか申しました。これらの誘惑は、みなイエス様が、父なる神と一緒であるために、それを引き離す試みなわけであります。しかし、この時イエス様の対処法は、すべて聖書の御言葉によって、サタンに勝たれました。そしてイエス様が、父なる神と一体であることを、もう一度明らかになさっているのです。
今日、ごくごく普通のクリスチャンにやってくる誘惑で、シリアスな誘惑とは、クリスチャンをイエス様から離そうとするサタンの働きです。
私は昔一時期、保険のセールスをしていたことがありますから、ちょっと知っていますが、死亡保険金というのは、個人によって違うのですね。ホフマン方式と言ったと思いますが、私と同じ年の人でも、今の時点で稼いでいる額が違えば、あるいはその人が目指そうとしている仕事の種類によって、つまり保険金は、その人が生きている間に稼げるであろう金額で計算されますから、牧師である私が死んだらほんの微々たるものでしょう。しかし天の父なる神にとっては、植草教授の方が、一般人より大切ということはありません。どちらも同じです。けれども、植草教授は、まだイエス様を知らない肉の人、あなたはイエス様を知った霊の人です。植草教授は、今でもしっかりサタンの縄目に捕らえられているので、この場合、サタンにとって、狙うべきターゲットは、同じ重さのあなたなのです。そして、どういう風に狙うかというと、あなたをイエス様から離そうと試みるのです。そのために様々な誘惑をしかけてきます。
例えば、あなたが教会に行こうとしているのに、行かせないような働きは、誘惑でしょう。しかし、自分の「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」のために、教会に行かないようになるのは、サタンの誘惑に陥ってしまったのです。
「教会へ行くと、献金しなくちゃならないから」と言う人がおりました。献金は強制ではありませんが、教会に献金する額を損だと思うほど、大切なものは何でしょう? 「礼拝に行くときに、スーパーの大売出しを見た」と言って、礼拝に来なかった人がおりました(苦笑)。 こうして、教会を軽んじ、礼拝を軽んじ、献金や祈りを軽んじ、イエス様を軽んじ、もっともっと、「肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」の方の比重を大きくしていきます。お付き合いする人々も、世の中の人ばかり、付き合い方も、まるで世の中の標準、そしてついに信仰などどこかへ行ってしまします。先週のコラムにも書きましたが、OUTREACH(外に向けての伝道) などと言うことになりますと、もう全く力は出ません。サタンは、「してやったり」とほくそえんでいます。
サタンの誘惑は、クリスチャンでない人たちには、なるべくイエス様には近づけさせないように働き、クリスチャンたちには、何とかイエス様から離そうと働きます。つまりいつも神からの分離を目標にしています。全能の神と、あなたが一体では困るのです。
テキストでは、オリーブ山のふもとゲッセマネです。そこで、イエス様は、「父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈られました。この「この杯」というのは、十字架であり、死ぬということでしょう。人間としてのイエス様の思いは、こうやって死にたくはない、しかし彼は「わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください」と祈られたのです。御心がなるということは、神の子が死ぬとういうことでありました。イエス様は、決して父なる神か羅離れることをなさいませんでした。そして弟子達に「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われました。イエス様が、死なれることは、弟子達にとって、誘惑であったでしょう。サタンは、「ホラ見たことか。結局あの方も、ローマの前では、何も出来なかったではないか」と声をかけるでしょう。実際、彼らはイエス様が、十字架に架かって死なれた時、「いや、あの方は必ずよみがえられる。そう言っておられたから」と信じていた者はなかったのです。要するに信仰がなかったのです。
信仰を持ったり、またその信仰を保ったり、あるいはその信仰のレベルを高めたりするためには、祈ることが大切です。しかし、これだけ教会があるアメリカの教会も、かなりサタンに支配されていますから、まず徹夜祈祷は出来ません。早天祈祷も出来ません。私たちの教会の使用許可は、朝7時以前、夜10時以降に教会を開けて人を集めてはいけないというきまりになっています。この点、日本の方が、うんと信教の自由が保障されていますね。ですから、アメリカの、特に街中の教会で、早天祈祷会だの、徹夜祈祷会などやっているところは知りません。法的に出来ないのです。
祈りについて総じて言えるのは、例えばアッセンブリー教団でも、日米を考えるなら、断然日本のほうがよく祈るでしょう。韓国の教会と比べるなら、それはもう月とスッポンです。ですから信じる人はいますが、誘惑に負けて信仰がガタガタになる人も多い、来ている人も、誘惑には非常に弱い感じがします。
まず、主は「それからイエスは出て、いつものようにオリーブ山に行かれ」とありますが、これはイエス様が、ここに行かれるのが習慣になっていたことを示しています。日本などですと、仕事が終ると行きつけの店で、一杯やるという習慣の人もいるでしょう。いい習慣はいいですが、悪い習慣は、直したいものです。それにしても、日曜に礼拝に行くという習慣はともかく、朝おきたら聖書を開いて、デボーションをして祈る習慣とか、・・・・・・なかなか、そういう人は少ないと思います。
イエス様は弟子達に、「誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われました。何故祈ると、誘惑に陥らないのでしょうか? イエス様がちょっと離れたところで、しばらく祈っておられましたが、それから弟子達の所に来られると、彼らは眠りこけておりました。それでイエス様は、また、「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい」と言われました。
何故誘惑に陥ることがないか、・・・・・・そういう議論より、むしろ祈ってみることです。何か聖書の御心にそぐわないことをしているとき、あるいは明らかにイエス様からはなれる方向にある時、(教会に行かなくなったり、聖書を読まなくなったり、献金をしなくなったりなど、あなたにも分かる形で現れるので、これは分かります。) 具体的に祈ってみることです。 「天のお父様、これからディープインパクトの競馬に行きますので、礼拝を休みます。儲かったら、献金しますので、どうぞお見逃しください」と祈って、主が「それはいいことだ、当って祝福されるよう」という答えがあるかどうか。お金の誘惑も大きいですね。「主よ、新車を買いたいので、(家を買いたいので、ヴァケーションでお金がかかるので)、貯金しますから、今月から、什一献金は控えさせてもらいます。ご容赦ください」と給料を貰うたびに、祈ってごらんなさい。主が、「ハイ、あなたの好きにしていいですよ」と言われるかどうか。その時だけでなく、「絶えず祈れ(1テサロニケ5:17)」とありますから、ふだん教会で教えられているようなことを・・・・これは聖書の教えですし、皆さんが、しっかりイエス様にくっついていられるように教えているのですが・・・・・自分がしないようになる時、主の名によって、祈ってみてください。勿論その中には、「祈りましょう」という教えもありますから、これはもう、あなたに信仰があるかどうかの、決断の問題ですが。「パスター・エイブは、聖書の暗唱をしましょうと言いますが、私は興味がないので、いたしません。主よ、ご容赦ください」と祈ってごらんなさい。主が、何と言われるか。
聖書には、「主の御名を、みだりに唱えてはならない(出エジプト20:7)」とあります。主の名を使って、御心にそぐわない祈りをするなら、そしてその人が、本当に主に触れた経験があるなら、必ず主に打たれる経験をするでしょう。つまりそういう祈りは、出来ないのです。ですから、主との交わりのある祈りから離れるのです。むしろ、「主よ、ディープインパクトに行きたい気持ちがやってまいります。これは私を主から離そうとする誘惑です。イエス様の名により、サタンよ、去れ」と祈ることの方が、御心にかなっています。
伝道でも、その方法を話し合うより、実際にやるときに、人々が救われてくるように、祈ることも、信仰を持ってする時に、誘惑に陥らなくなるものです。
このイエス様の大切な時に、弟子達は祈ることをせず、眠ってしまいました。あなたに霊の居眠りが来ていませんか? それはあなたをイエス様から離そうとする、サタンの策略でしょう。目を覚まして、誘惑に陥らないように、祈りましょう。習慣というものでも、最初があるのです。まず、普段より少し早めに起きて、聖書を読んで祈る習慣をつけることです。これはあなたが、サタンの巧妙なトリックに引っかかって、信仰からはなれ、イエス様から離れてしまうよりも、むしろあなたをしっかりとイエス様につけるための、大切な習慣になるでしょう。
祈りましょう。