2006年11月5日
『十字架による和解』 ルカ23:32-43
23:32 ほかにもふたりの犯罪人が、イエスとともに死刑にされるために、引かれて行った。
23:33 「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。
23:34 そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」彼らは、くじを引いて、イエスの着物を分けた。
23:35 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」
23:36 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、
23:37 「ユダヤ人の王なら、自分を救え。」と言った。
23:38 「これはユダヤ人の王。」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。
23:39 十字架にかけられていた犯罪人のひとりはイエスに悪口を言い、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え。」と言った。
23:40 ところが、もうひとりのほうが答えて、彼をたしなめて言った。「おまえは神をも恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。
23:41 われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」
23:42 そして言った。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」
23:43 イエスは、彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」
今週で、ルカの福音書からの、『イエスさまのパブリック・ミニストリー・シリーズ』はおしまいにします。イエス様は、多くを譬を使って教えられました。今回のシリーズ説教の中でも、私はいくつかの譬からお語りしました。「誰かが犠牲を払うことで、他の人が助かる」ということは、真理であります。今日、私たちが自由や平和を享受できるのも、誰かが犠牲を払ったから、あるいは払っているからです。
今回のシリーズ説教の最後は、譬ではなく,
実際に十字架で自らの命を犠牲にするという事実を通して教えられたことからです。それは和解であります。今朝の説教題は『十字架による和解』であります。
十字架は、人を赦し和解に導きます。ですから、あらゆる罪とか、不和については、十字架に行くべきであります。
実は、この提題は日本語としては少しおかしいですね。十字架というのは、普通木とか、ネックレスなら金属とか、あるいは陶器とかで作られたもので、それが人を赦すなどということは、論理的におかしいです。が、これは、もっと説明的に言うなら、「神は、十字架で死なれたイエス・キリストにおいて、人の罪をお赦しになるばかりではなく、人間間の問題も和解に導きます。ですから、あらゆる罪とか、不和の解決を求めるのなら、この十字架に架かられたイエス様の教えに向かうべきだ、という意味です。けれども、私は今朝、敢えて、「十字架は人を赦し、和解に導く」と、「十字架」を主語にしておきたいと思います。それほどイエス・キリストの教えの中で、この実物レッスンは、時代を超えて大きなインパクトを与え続けているからです。今日では、女の子達はネックレスにして首につけ、バリー・ボンズはピアスにして、耳につけています。彼らにどれほどの理解があるかは分かりませんが、『和解』とか、『赦し』という言葉を聞くと、キリスト教に縁のない人の中にも、心を開く人は、この世の中にかなり沢山いるはずです。
テキストは、御存知のようにイエス様が十字架にお架かりになったところです。これは本題とは、ちょっと逸れますが、以前『心と心の伝道』の勉強会をしたとき、その本の中で教えられていた、『十字架物語法』と呼ばれるものがありましたが、その時に用いられたのがこのルカの福音書です。四つの福音書全部に、十字架の話は出ておりますが、イエス様と一緒に十字架に架かった二人の強盗の最後についての詳細があるのはこのルカの福音書だけです。この二人の強盗の話がとても感動的、伝道的です。したがって、十字架の話を伝道的に使うには、まずこの話をしっかり覚えることがよいと思います。
尚、さらに付け加えますが、個人伝道にも様々な方法がありますが、聖書のあちこちから聖句を取り出して話を組み立てるのに比して、物語から教理を順序だてて話すことが出来る、この『十字架物語法』は優れた方法だと思います。これについては後で、個人的に私にお尋ねください。
まず知っていただきたいのは、世の中には、ごくごく普通の市民でも赦しが必要な人がいるということです。テキストで、イエス様は「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」と祈っておられます。これはローマの兵隊の行為について、イエス様が祈っておられるのですが、人間の罪深さは、自分がやっていることは罪だなどとは、つゆだに思わないというほど盲目だということです。
このローマの兵隊は、命令に従って自分の仕事をしただけです。これは、つまり普通にこの世では何も問題ないことです。会社では上役の命令に従って仕事をする、軍隊では司令官の命令に従って作戦行動する、・・・何も問題があるように思えません。つまり、こういう何も問題があるようには思えない一般市民でも、赦されなくてはならない人たちがいるということを現しています。「私は何も、キリスト教のお世話になる必要性を覚えない」と言う方、「何も後ろ指刺されるようなことはしていない」と言う普通の市民の方々も、考えてください、何故イエスさまが、あの時そう言われたかを。これは決して、実際にイエス様を十字架に釘打っているローマの兵隊達だけのことではないでしょう。イエス様がお生まれになってから、ずっとこの時にいたるまで、イエス様に対抗してきたすべての人たちを含んでいるでしょう。そして今日の、イエス様に背を向けている人たちも含むでしょう。人々は、神との和解が出来ないでいるのです。パウロは、ローマ5:10で、「敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられた」と言います。イエス様のことは、知らないと言う人は、気がついていないのですが、「神を敵として」歩んでいるのです。しかし、御子イエス様の十字架の死によって、和解の道が開けたのです。
「あなたを殺そうとしていた人々を赦しますか?」と尋ねたら、あなたは何と答えますか? あるいは「殺す」などという激しい言葉でなくとも、「あなたにひどい仕打ちをした者を、赦せますか?」と尋ねたら、どう答えますか?イエス様は、この自分を十字架に架けている兵士達を憎んだりせず、むしろ赦しを願っておられます。
和解には、犠牲が必要です。昨年106人もの犠牲者をだしたJR宝塚線の事故を覚えていますか?今回の日本の旅で、そこを通りました。うめきが聞こえてくるようでした。あの場合、JR西日本と遺族との間は、社長がペコンと遺族に頭を下げて、「ごめんなさい」と言えば、和解が成立するでしょうか?とても和解にならないでしょう。この世の場合、妥当とは言えないかもしれませんが、お金で和解することが、普通です。JR西日本が補償金を渡して和解を図ることは、現状回復になるという意味ではありません。いくら補償金を貰っても赦す側は、我慢しなければなりません。昨年の宝塚線の事故の遺族は、犠牲者一人あたりどれ位になるのか分かりません。たとえば三億円もらったら現状が回復するでしょうか?妻を、母を、夫を、父を、子供達を失った人たちは、三億円で、「ああ前と同じ価値になってホッとした」と言えるでしょうか?これは、建前としては「三億円もらったので、不本意ですがJR西日本には、もう何も言いません」と言うことですね。この場合、助かるのは、JR西日本です。
「罪から来る報酬は死です(ローマ6:23)」とありますから、神から離れてしまって、罪人の道を歩んでいた者の受ける報いは、死が普通だったのです。しかし、罪のないイエス様が、十字架で身代わりになってくださって、神との和解の道を開いてくださいました。惨めな状態からの、回復への道ですから、これは人間サイドにはまったくの恵です。しかもそれは神の側が、人を愛してそうなさっているのです。
イエス様の来られたのは、人間の神との和解という目的がありました。パウロは、「キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました(エペソ2:14-16)」と教えています。
こんなにも私たちを愛して下さる神との和解が出来ない人は、人とも和解できないことが多いですね。今回、家内が日本から戻って来ていうには、「どこにもかしこにも問題を持った人が多かったわ」でした。赦せない人、自虐的になる人、絶望感にさいなまれている人、そういう人たちが沢山います。勿論イエス様の来られたのは、「失われた人を捜して救うため(ルカ19:10)」ですから、そういう方々が、教会に来るのは正しい方向です。
テキストには、イエス様と一緒に十字架に架けられた二人の強盗の話が出ています。仮にAとBとしておきましょう。人間の裁判というのは、誤審ということもあるでそう。しかしこの二人が十字架に架かったのは、誤審ではないようですし、そのうちの一人Bは、「自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ」と言って、自分達が死刑になることの妥当性を受け入れています。ところがAは、一緒に十字架に架けられているイエス様に、「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」と言うのです。この意味は、「霊を救え」の意味ではなく、要するにこの十字架で死に行く状態からの救いでしょう。自分が助かるのなら、何でもいいという、身勝手さです。死刑になるのですから、強盗殺人を働いたのでしょうか?犠牲者の遺族も、その刑を見ていたかもしれません。第一、仮にイエス様が十字架から降りることが出来たとしても、周りにはローマの兵隊がおりますから、そういう強盗を捕まえようとするでしょう。ローマ兵を蹴散らしてでも逃げるつもりでしょうか?どこまでも自分勝手です。以前に、ショーン・ペンが演じた『デッドマン・ウォーキング』という映画がありました。収監されている時は、決して罪を悔いるというタイプの人ではありませんでしたが、カトリックの女性教誨師の懸命の指導で、刑執行の最後に彼が言ったのは、「私が死ぬことで、遺族の皆さんのいささかでも慰めになればと思います」という趣旨の言葉でした。
Bは、「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ」といい、「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」とイエス様に、赦しを願いました。するとイエス様は、「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」と言われたのです。これは、罪が赦されたことの意味です。パラダイス(天国)というのは、イエス様によって、罪が赦された者達だけが入るところだからです。罪が赦されなくては、聖い義なる神との和解は出来ません。イエス様は、十字架で素晴らしいことをしてくださったのです。
イエス様が十字架にかかってくださったことで、あなたの罪のための補償金は支払われているのです。あなたの罪の代償は、神の御子イエス・キリストの十字架での身代わりの死です。神は、もしそれを信じるなら、もうあなたの罪のことは問わないと言われるのです。これがあなたと神が和解をするために、私たちに示された条件です。
この強盗の話を、私には関係ない他人事として聞かないほうがいいですね。彼らはこの時、十字架という死刑になりましたが、遅かれ早かれ人間はだれもが、死刑判決を受けているようなものです。しかしこのテキストを読んではっきりしているのは、強盗Aは、最後まで自分の罪に気がつかず、従って悔い改めもせず、何とか生き延びる道はないかと、わめきたてております。それに比して強盗Bは、自分の罪を認め、イエス様にすがったということです。結果は、聖書によれば強盗Bは、パラダイス(天国)に行き、強盗Bのことは何も書いてありませんが、「悔い改めないなら、みな同じように滅びます(ルカ13:5)とありますし、黙示録を見ても分かりますが、悔い改めず、赦されなかった人たちは、強盗Bの行った天国とは反対の地獄でしょう。ですから、この強盗AとBは、今日の世の中の人々全体を、表していると言ってもいいでしょう。あなたは、Aになりたいですか? Bになりたいですか?
神は私たちを赦してくださいました。赦すことは、主の御心にかなっています。イエス様は、「人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。(マタイ6:15)」と言われました。私たちも赦されたのですから、人間の間の問題も和解するために、具体的な行動をはじめましょう。この強盗Bは、イエス様に「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください」と呼びかけ、すがっています。まずあなた自身が、イエス様にそういう風にすがってください。そしてこの世での問題は、「和解したいのです」「赦してくれませんか」とたすきを相手に投げてごらんなさい。「赦してください」と乞われたら、かなりの重い気持ちであっても、イエス様にあって「赦します」と言い切ってごらんなさい。私たちも赦されたのですから、赦すべきです。
「出来ない」ですって? 十字架は、自分で自分が死刑に相当すると分かっている人ですら、赦すのです。このことが分かっているなら、あなたも赦せるはずです。
あなたはこのテキストにある「パラダイス」と聞いて、どういうところを連想しますか?私は知っていますが、お金持ちで立派なお屋敷に贅沢に暮らしているのですが、夫婦の間はガタガタ、親子はズタズタ、心の中はボロボロという人がおります。それは、彼らの内に主の赦しが主がないからです。神との和解ができていないからです。彼らは、慎ましやかでも、もっと夫婦が愛し合い、仲良く平和で、子供達との間も良い関係な家庭がいいと、申します。
十字架にすがれば、絶対修復不可能という人間関係はありません。多くの人々の、悩みや悲しみは、人間関係ですが、その解決の第一歩は、人ではなくあなたと神との関係を、十字架によって修復し、いつまでも父なる神に反抗しているのではなく、和解をすることです。あなたが和解に向けて、具体的な行動にうつされるように期待します。
祈りましょう。