2006年11月5日
「時間の管理」
福音主義陣営での神学的な支えの一人で、一時代を築いた榊原康夫先生の、少し古い本ですが、『知恵ある生活』という本があります(1970初版・小峰書店 おそらくこの書店はもうないのではないかと思います)。クリスチャン・スチュワードシップに関する本で、榊原先生は、それについて「クリスチャン・ライフそのものではありません。むしろ、生活の管理技術とその原理です」と教えています。この本がまだ、どこかで版を代えて売られているなら、是非お求めになるとよいと思います。(日本の友人の皆さん、どなたか買えるかどうか教えてください。)
その「時の管理」の章の最初に、榊原先生の属している日本キリスト改革派教会の、『創立20周年記念宣言』があります。その最初は、「教会の生命は、礼拝にある。キリストにおいて神ひとりと共に住みたもう天国の型として存する教会は、主の日の礼拝の厳守において端的にその姿を現す。わが教会の神中心的、礼拝的人生観は、主の日の礼拝の厳守において、最もあざやかに告白される。神は、礼拝における御言葉の朗読と説教およびそれへの聴従において、霊的にその民のうちに臨在したもう」であります。
「天国の型として存する教会」ということは、私が繰り返して教えていることですが、どうにも分からない人たちがいて、カリフォルニアばかりでなく、最近は日本でも「イエス様を信じていれば、教会に属さなくてもいい」と考える人たちはかなりいるようです。その結果、「教会生活」がなおざりにされがちです。しかしそういう人たちの、時間の管理を見ておりますと、当然ですが礼拝を中心とした時間の組み立てをしていないことに気がつきます。それでは、その時間を、何に使っているかと考えますと、箸にも棒にもかからないことに使うばかりか、時として主が決して喜ばれない、いわば罪のために使っていることすらあります。
私たちが住んでいるサンフランシスコ湾岸地域は、世界各国の人々が集まってきており、それこそ世界各国のレストランがあります。そして日本と比べるなら、この地域の人々が、いかにレストランに行く人が多いかということです。またあらゆるエンターテイナーは、アメリカでは大体ニューヨーク、シカゴ、ロスアンゼルス、サンフランシスコの四地域に参りますから、それらを楽しむことが出来ます。イチロー、松井、井口、田口、それに来年は九分九厘松坂もきますし、アメリカン・リーグ(オークランド・アスレチックス)もナショナル・リーグ(サンフランシスコ・ジャイアンツ)もありますから、日本のプロ野球をミスすることもありません。24時間日本語テレビもみられ、大相撲も含め日本の主だったイヴェントはほとんど同時にエンジョイできます。海も遠くないですし、4時間も走ればスキー場もあります。ちょっと走れば山もあれば砂漠もある。夏は涼しく、冬は暖かい。住みたい人が多いので、住宅が高いのが悩みですが、一旦ここサンフランシスコ湾岸地域に住んだ人は、かなりの人たちがずっとここに住みたいと考えるでしょう。そして、成功して、この世的な意味での良い暮らしをするチャンスがいっぱいあるのです。
そういう環境で、どこにどういう風に時間を費やすかは、まさにその人の信仰にかかっています。この改革派教会の宣言文に、「主の日の礼拝の厳守」とありますが、ある人たちには、この「厳守」という言葉が、教会の指導的な立場の人たちからの、つまり「上」からのいわば強制力をもった言葉と感じて、嫌悪する人もいると思います。しかしそうではなく、自らの意志で主の日の礼拝を厳しく守る人が、信仰の上でも実生活の上でも祝福を受けるのです。
榊原先生は、神による「時は、時計で長短をはかる無色透明なものではなく、あることをするのは今がチャンスだというような、色どりと性質を持っています」と言い、更に「富は人により、貧富の差があり、才能も人により千差万別ですが、時だけは万人に公平です。・・・・・ただ同じ時をどう使うかが、人の礼拝生活に差異をもたらすだけです」と告げます。そして箴言19:21を引用します。「人の心には多くの計画がある、しかしただ主の、み旨だけが堅く立つ(口語訳)」 そして、「この神による色づけに逆らう『ふしあわせ』な人生は、百三十歳でも『わずか』であり(創世記47:9)、それに従う『一日』は、『よそにいる千日にもまさる』のです(詩篇84:10)。物理的時計でなく、こういう時計で時をはかることを知る者だけが、『主を恐れることは人の命の日を多くする、悪しき者の年は縮められる』と告白できるのでしょう(箴言10:27)。時の長さ、豊かさは、用いかたで決まるのです」といわれます。まったく「アーメン」です。
「疲れたから、礼拝に出られない?」 どうして疲れたか考えてみてください。前の晩に、大騒ぎのパーティーで飲み過ぎて二日酔い? 「寝坊しちゃったから?」 前の晩に、深夜ならいざ知らず、明け方までビデオ映画を観ていたのでは、そういう言い訳は主に対して出来ないでしょう。いくら忙しい、疲れている、時間がない、という人でも、自分が好きなこと、自分にとって大切なことのためには、無さそうな時間もひねり出しますし、定められた時間に遅れても行きません。つまり、礼拝よりも、イエスさまよりも、そちらのほうが大切なのです。そういう時間の管理のしかたは、やがて主の前でも申し開きをせねばならないでしょうが、この地上でも、結果が現れることが多いのです。あなたが、祈りつつ、時間の使い方について、もう一度考えてくださるきっかけになれば、幸いです。