2006年11月12日
『異教の習慣に対して』 使徒16:1-5
16:1 それからパウロはデルベに、次いでルステラに行った。そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ婦人の子で、ギリシヤ人を父としていたが、
16:2 ルステラとイコニオムとの兄弟たちの間で評判の良い人であった。
16:3 パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた。彼の父がギリシヤ人であることを、みなが知っていたからである。
16:4 さて、彼らは町々を巡回して、エルサレムの使徒たちと長老たちが決めた規定を守らせようと、人々にそれを伝えた。
16:5 こうして諸教会は、その信仰を強められ、日ごとに人数を増して行った。
日本の人たちのキリスト者を見る目で、彼らがキリスト教についてどうにも分からないと思われることの一つは、「キリスト教の人達は、どうしてそこまで他の宗教に対して寛容でないのか」ということだろうと思います。日本人の場合、お正月にお宮さんへ行って拍手を打って、お葬式、法事には、お寺さんで数珠をつけて「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」とやって、結婚式にはキリスト教式で「父と子と聖霊の名によって」夫婦となるということに、まったく違和感を持っていないように見えます。そればかりか、それでもたりないので、新興宗教をやったり、まさに「なんでもござれ」が案外普通の日本人の考え方のようです。
ところがキリスト者は、結婚式も葬式をキリスト教式でするのは当たり前ですが、他の神々の所へはいかない、あるいは他の宗教の習慣は拒否するという傾向があります。これが日本の人々には、躓きになっている場合が少なくありません。「付き合いが悪い」ということです。日本のいわゆる学者階級の人々はそれを、「ユダヤ教、キリスト教、イスラム教など、一神教の問題点」と言います。
「キリスト教はいいけど、家族は仏教なので、今後のお寺さんとの兼ね合いで、どうしたらいいかと悩んでいる」と言う人たちもいるでしょう。今朝は、ちょっと実際的なお話をしようと思います。
キリスト教の本質を押え、見失わないなら、キリスト者は異教の人々の習慣に合わせることはかなり可能です。ですから出来るだけ多くの人々を主に導くために、神は異教の習慣の中にある人たちに対して、キリスト者が出来るだけ譲るように配慮すべきだということです。
テキストは、パウロが第二伝道旅行に出たところです。パウロは、今回はバルナバではなく、シラスと一緒に旅にでています。
まず第一に、私たちの信仰者としての目標は何かを考えましょう。勿論、教会の内部にあっては、建徳、礼拝ということですが、外に対しては伝道、すなわちできるだけ多くの人々を、漁ることです。
第二伝道旅行は、「伝道」となっていますが、最初は15章36節に「先に主のことばを伝えたすべての町々の兄弟たちのところに、またたずねて行って、どうしているか見て来ようではありませんか」とあるように、どちらかと言うと、牧会的でした。つまりクリスチャンを励ましたり、困っているなら祈ったり、相談に乗るといった感じの旅のはずでした。しかし牧会はいつも伝道とセットですから、牧会はするが伝道はしないなどということはありません。ですからこの旅が伝道旅行と呼ばれても、なんら差し支えありません。実際彼らに対して聖霊さまは、アジアで語ることを許されず、ビテニヤ方面にも行かせず、幻でマケドニアに行くように示されました。こうしてこの第二伝道旅行を機に、福音がヨーロッパに渡りました。これは著しい福音宣教の拡大につながりました。
福音宣教ということは、いつの時代でも、どこにおいてでも、受け入れられるか、受け入れられないかのどちらかです。「どちらでもない」はありません。日本人は「まだ分かりません」という言い方をよくしますが、これはまだ受け入れられていないのです。そして受け入れられない場合は、無視されるか、そのまま忘れ去られるか、あるいは程度の差こそあれ、その拡がりに対して抵抗とか妨害、あるいは宣教者に対する迫害が考えられます。
いずれにせよ福音は多くの人々に伝えられていかねばなりません。より多くの人々にという意欲を失った教会、あるいはクリスチャン個人は、いのちを失っているといえましょう。しかしその際、いかに伝えていくかは、やはり知恵が必要です。そこで第二に覚えていただきたいのは、福音宣教のために、余計な対立は起こさないほうが利口だということです。聖書は、「パウロは、このテモテを連れて行きたかったので、その地方にいるユダヤ人の手前、彼に割礼を受けさせた」と言っています。実は、この個所は私にとって、何度も読んできたところですが、最近のデボーションで何故このことに気がつかなかったのだろうと思いました。
ここで言われている割礼の問題は、その前の15章ですでに問題になっており、パウロとバルナバが、使徒団と協議するためにエルサレムまで上ったのです。パウロと一緒にいたテトスでさえも、彼がギリシャ人でしたが、割礼を強いられませんでした(ガラテヤ2:16,
5:6)。実際エルサレム会議では、一番弟子のペテロが、「兄弟たち。ご存じのとおり、神は初めのころ、あなたがたの間で事をお決めになり、異邦人が私の口から福音のことばを聞いて信じるようにされたのです。そして、人の心の中を知っておられる神は、私たちに与えられたと同じように異邦人にも聖霊を与えて、彼らのためにあかしをし、
私たちと彼らとに何の差別もつけず、彼らの心を信仰によってきよめてくださったのです。それなのに、なぜ、今あなたがたは、私たちの先祖も私たちも負いきれなかったくびきを、あの弟子たちの首に掛けて、神を試みようとするのです。
私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです(v.7-11)」と叫んで、「クリスチャンになるために割礼は必要ない」ということになったのです。
ところがここ16章では、すでにクリスチャンであるテモテに割礼をしているのです。なぜか? それは「その地方にいるユダヤ人の手前」であります。パウロの方針は、1コリント9:19-22よれば、「私はだれに対しても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。律法の下にある人々には、私自身は律法の下にはいませんが、律法の下にある者のようになりました。それは律法の下にある人々を獲得するためです。律法を持たない人々に対しては、・・私は神の律法の外にある者ではなく、キリストの律法を守る者ですが、・・律法を持たない者のようになりました。それは律法を持たない人々を獲得するためです。
弱い人々には、弱い者になりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人に、すべてのものとなりました。それは、何とかして、幾人かでも救うため」なのです。
実は、私の場合、聖書の教えに対して、これまで余りにもストレートであったのではないか、それが教会へ来る人が少ない原因ではないかと思うのです。「クリスチャンはこうでなければならない」という、ある一定の枠に入れて考えるやり方ですね。大体、アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの教会間でも若干違いがありますから、他の教派の教会やクリスチャンとでは考え方が違うのは当たり前です。しかし違うからというので、お交わりをしないというのでは、随分せまい教会生活になりはしないかということです。それはより多くの人々を漁るという目標から、外れるでしょう。もっとも「いのちに至る門は小さく、その道は狭く、それを見いだす者はまれです(マタイ7:14)」とありますから、救われる人々が少ないのは仕方がない、というのも一理ありますが、それにしても、果たしてこの救われる人の少なさは妥当かと考えてみる必要があると思います。
ここでは、具体的な話をしましょう。日本のお葬式は、大体仏教でしょう。お葬式にはどうするかですが、「仏教など異教の葬式には絶対行かない」という人達もおります。まあ遠い親戚とかの場合は、エクスキューズも出来ますが、近親者の場合は出ないわけにはいかないでしょう。それでも「絶対、異教の葬儀には出ない」という人もおります。その考え方は間違いだと断定しているのではありません。しかし私は、どちらかと言うとそういうやり方には賛成できかねます。日本の場合は、大体、そういう態度は、ひんしゅくをかうことが多いでしょうし、福音に対して余計な反感を抱かせます。第一、仏教の葬儀に出て何が問題なのでしょう。ことに近親者の場合なら、彼らは慰めが必要です。かと言って数珠を持っていく必要はありません。誰かが「ないなら貸してあげましょう」と親切に言ってくださったら、丁寧に「私はキリスト教ですから、キリストの神にご遺族の慰めを祈りますので・・・」とか言えばよいのです。彼らは「ホー、キリストさんにも祈ってもらって、この仏さんは幸せものだ」と考えるでしょう。どう思われても仕方がありません。彼らはまだ分からないのですから。日本の人たちは、参列しているなら礼をつくしてくれていると考えるでしょう。誰も、「あの人は、ちゃんと数珠を持って焼香したか」
ということをチェックなどしていません。異教の葬儀に出ることを、そう怖がる必要はありません。
パウロは、ここでユダヤ人に躓きを与えないために、テモテに割礼を受けさせました。ここの、「その地方にいるユダヤ人の手前」というのは、未信者のユダヤ人のことです。割礼というのは、当時のユダヤ教のしきたりです。しかし、それをしたからと言って、偶像にひざをかがめたことになるのでしょうか?もしそれが偶像にひざをかがめることでしたら、パウロがテモテにやらせるはずがありません。
昭和天皇が亡くなったとき、ブッシュ(シニア)大統領も葬儀に参列しました。エリザベス女王がおいでになった時、伊勢神宮に行かれました。これに対してキリスト教関係者は、非難しましたが、果たして彼らのこういう行為は偶像にひざをかがめたことになるのでしょうか?国葬とか国賓としての訪問の場合、その立場の人たちは、相手国に礼をつくさねばならないのは当然です。日本では、色々は公式な場で『君が代』を歌わないキリスト者がいるそうです。これは私の考えですが、それはあんまりかしこいやり方ではないと。確かに歴史的には、『君が代』というのは、天皇陛下の世の意味でしょう。しかし、日本という国は現実的には天皇陛下を中心にした国なのです。それが日本なのです。おそらく今国民投票をしたら、日本国民の圧倒的多数が皇室を支持するでしょう。そういう国で、国歌『君が代』を歌わないなどというのは反感を買うことが多いでしょう。しかし、『君が代』は歌わないという姿勢で、伝道をしていくという姿勢の人達がいることも事実として認めなければなりません。
近親の方々の葬儀などの場合も礼をつくしたほうが、問題が少ないですね。そうしないと、大体は福音の伝達が困難になるでしょう。あなたがその葬儀の後、イエス様のことを話しても、彼らは心を閉ざすことが多くなるでしょう。ただ私は、「絶対出ない」という人々が間違っているとは申しません。
私たちの卒業した中央聖書神学校の隣に、妙義神社という小さなお宮がありました。駒込駅から学校に行く時、そこの境内を通ると近道でした。しかしあの当時、「絶対そこは通らない。何故なら鳥居をくぐりたくないから」という学生がおりました。それはちょっと、考えすぎだと思いましたが、そういう人もいるのです。
エルサレム会議では、「偶像に供えて汚れた物と不品行と絞め殺した物と血とを避けるように(使徒15:20)」と決まったようで、パウロは、「エルサレムの使徒たちと長老たちが決めた規定を守らせようと、人々にそれを伝えた」のですから、一応使徒団と決めたことを守っております。しかし、この取り決めとて、絶対ではなく、その後のパウロの教えでは、少しずつ変わってきています。つまり本質から考えるなら、大した問題ではないのです。例えば1コリント8章では、「偶像にささげた肉を食べることについてですが、私たちは、世の偶像の神は実際にはないものであること、また、唯一の神以外には神は存在しないことを知っています」と言っています。またローマ14:2-3
では、「何でも食べてよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜よりほかには食べません。食べる人は食べない人を侮ってはいけないし、食べない人も食べる人をさばいてはいけません。神がその人を受け入れてくださったからです」と言います。つまり、そういうことは、「絶対これだ」という、本質ではないということです。
ですから、最後に覚えてもらいたいことは、譲れるところは譲っても、本質はしっかりと押さえておけということです。その本質というのは、テキスト5節の「信仰を強められ」るということです。これは何に対する信仰かと申しますと、言うまでもなく、エルサレム会議でも「私たちが主イエスの恵みによって救われたことを私たちは信じますが、あの人たちもそうなのです(使徒15:11)」と言われているように、主イエスさまに対する信仰です。
避けられない、あるいは避けないほうがよいと考え、未信者の手前で譲ったことが原因で、例えば、「お寺の葬儀はよかったなあ。私もクリスチャンになったけど、やっぱり自分の葬儀はお寺でやってもらいたい」と言うのでは、本質が押さえられえていませんね。しかし本来キリスと者はそういうことはないはずです。ただ家族がクリスチャンでないと、葬式を仏教式でやられてしまうケースが案外あります。そういうことを考えてみると、私の場合は若い頃から、かなりしっかり本質を押さえていたと思います。勿論、若かったですから財産はありませんでしたが、万が一死んだ時のために、読んでもらう聖書の個所と、歌ってもらう聖歌の番号を含めて、「必ずキリスト教式でやること」という遺言を書いて、それをいつも聖書にはさんでおきました。結婚して、その必要はなくなりました。もしあなたが死んだ時、仏教式で葬儀を出される恐れのあるときは、遺言をするなり、はっきり「葬儀はキリスト教式で」と近親の人たちに伝えておいたほうがいいですね。何故ならキリスト者の葬儀は、最高の伝道会にすることが出来るチャンスだからです。式に参列する人々は皆、死という現実に直面させられています。実際、クリスチャンのキリスト教式の葬儀に出て救われたという人は沢山います。未信者の人たちでも「結婚式でも葬式でも、キリスト教式は、何をしているのかが良くわかるからいい」と言う人が沢山います。キリスト教の結婚式がこうも流行になってきたのですから、葬式もそういうブームになればよいと思います。
「終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。
朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、『死は勝利にのまれた。』 としるされている、みことばが実現します。
『死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。』 死のとげは罪であり、罪の力は律法です。 しかし、神に感謝すべきです。神は、私たちの主イエス・キリストによって、私たちに勝利を与えてくださいました。ですから、私の愛する兄弟たちよ。堅く立って、動かされることなく、いつも主のわざに励みなさい。あなたがたは自分たちの労苦が、主にあってむだでないことを知っているのですから(1 コリント15:52-58)」などが読まれ、「死んでも私たちは、復活し勝利するのです」というメッセージが語られると、死んだら三途の川を渡っていくのか、何処へ行くのか分からないと考えている人たちには、非常なチャレンジになるでしょう。
異教の習慣に対して、恐れる必要はありません。あなたのうちに真理があるのです。私たちキリスト者の目標の一つは、より多くの人々に、イエス・キリストの福音を伝えることです。より多くの人々を主に導くために、神は異教の習慣の中にある人たちに対して、出来るだけ譲ることを願われます。あなたは、本質を見失わないようにして、異教の習慣の人達にも、彼らを救いに導くために、譲れるところは譲ると言う配慮をして、彼らを漁りましょう。 祈ります。