2006年11月12日

「子供の信仰教育」
  

「胎教」などという言葉もありますから、子供がおなかの中にいる時から教育を始めると言う位、日本人は教育の大切さを知っている国民だと思います。アメリカに移民してきた日系の一世の人たちは、日本にいた時は、どちらかと言えば貧しい階層の人々だったようで、アメリカに来てもそう大した仕事はありませんでした。しかし彼らは子供の教育には相当力を入れたようで、二世には社会的にも非常に優れた人たちがたくさん輩出されるようになりました。しかし日本人の教育熱心さは、どうしてもアカデミックな面ばかりで、人間としての徳を磨く教育とか、信仰教育と言う点はでは、非常に寒いのが実情だと思います。最近も、多くの高校生が卒業に必要な単位不足で、日本中が大騒ぎになっていますが、あれは有名大学に入るために、そのため受験科目に必要ない科目はやらないというような、いびつな教育熱心がこういう問題を起こしているのです。

最高学府に学んでいても、婦女暴行で退学になったという情けない事件もしばしば聞きます。

スポーツとか、音楽とか、そういう習い事の教育も熱心です。そういうわけで、女子ゴルフでは高校生で気を吐く逸材が生まれたり、女子フィギュア・スケートでも金メダルをとるような人が生まれます。こういう人たちは、相当親がその子の教育のために時間と財を使っているはずです。よい教育には時間とか財とか、犠牲がかかります。

こうまで教育熱心な日本人ですが、クリスチャン家庭で、子供の信仰教育に対して、あまりにも無関心という人たちがいるようです。塾へ連れて行ったり、スポーツの練習に連れて行く熱心さはあるのですが、子供を日曜学校に連れてくる意義の大きさに気がついていない親がいるようです。

まず、覚えていただきたいのは、今日は子供達が自分達だけで日曜学校に行くという時代ではないのです。子供がひとりで外へ出るのは非常に危険だからです。学校の登下校ですら、保護してあげなければ交通事故の危険や、痴漢、誘拐犯の餌食になる可能性があります。多くの子供にとって日曜日は、ネテヨウ日ですから、クリスチャン家庭が、本気で子供を日曜学校に通わせようとするなら、これは親なり誰かが連れて行く以外にありません。ところが、子供の毎日がさまざまのアクティヴィティーで忙しいので、親は教会に行っても、子供はお休みというクリスチャン家庭があるようです。

「三つ子の魂百まで」と申しますが、「胎教」というなら、むしろ信仰教育を最優先すべきです。おなかの中の赤ちゃんには、親はおなかに手を置いて祈りましょう。生まれた子供には早い時期から、親は、子供に祈りを教えましょう。親がひざまづいて祈る姿を見せましょう。

昨年私たちの教会に一番上が小学3年生の、三人兄弟が来て、日曜学校が始まりました。8歳、4歳、3歳でしたが、「子供達に信仰教育を」という親の熱心な希望で始まったのです。牧師である私が教えております。 夏休みだったりで、毎週ではありませんが今週までに61の暗唱聖句を覚えました。私は、自分の子供達の聖書教育に際して、聖書を覚えさせるということが大切という、まったくの「聖書信仰」がありました。それは今、人様の子供に教える際にも同じです。また聖書の物語を教えるということです。それについては、何と言っても相手が子供ですから、毎週「お絵描き」をしています。すなわち聖書の話に対して、絵を描くのです。私の描く絵ですから、その程度はしれていますが、その絵を見せながら話す話はよく聞いてくれます。これまでに天地創造、イエス・キリストの生涯、族長の生涯、モーセと出エジプトなどを話し、現在はパウロの伝道旅行の話をしています。

現在5歳の女の子の場合、まだ字が読めないのですが、毎週きちんと暗唱聖句をしてきます。これは昨年から変りません。どうしてまだ字が読めない子に暗唱聖句ができるのか? 言うまでもなく、親が家庭で聖書を教えるからです。私たちの日曜学校の暗唱聖句は、日英両語です。私が作った聖句カードを毎週渡します。日本語が難しい時は、英語で覚えてきます。9歳のお兄ちゃんのほうは、毎週両語で覚えますが、5歳の妹のほうは、大体英語です。しかし最近は、両語で覚えることが多くなりました。

私たちの日曜学校は、生徒の数が少ないということもありまして、毎回子供達一人一人にお祈りをさせることが出来ます。お祈りが出来るようになるという訓練は大切だと考えるからです。5歳の女の子は、去年は殆ど英語でしか祈れませんでしたが、今は、日本語でも祈れます。実はこの下に3歳の男の子がおります。この三歳児も礼拝の時には集います。この子が行っているプリスクールがキリスト教系のプリスクールらしく、 Jesus loves me this I know  「主我を愛す」になると大喜びで歌います。また、「ペテロとアンデレ」という十二弟子の歌も、お兄ちゃん、お姉ちゃんと歌っていて覚えたみたいで、これも大声で歌います。ところがみんなの前でのお祈りは、今までなかなか出来ませんでしたが、先週初めて、「イエスさま」と「アーメン」を言いました。私は、教えていて、目頭が熱くなるのを覚えました。

子供の信仰教育には、犠牲が伴います。礼拝にしか出ない親は、子供のために日曜学校から出なくてはならないからです。しかしやがてその信仰という点では教育を受けた者と受けなかった者との差は歴然としてきます。この国で、高校ドロップ・アウトの人と、学位を持った人にはさまざまな面で、差があるのと同じです。信仰を受け継がせるには、信仰教育が必要です。「信仰がなくては、神に喜ばれることはできません(ヘブル11:6)」は、親にとっても、子供にとっても同じです。子供の信仰教育は、親にかかっています。親であるあなたが、信仰を奮い立たせましょう。イエス様は、「天の御国は、畑に隠された宝のようなものです。人はその宝を見つけると、それを隠しておいて、大喜びで帰り、持ち物を全部売り払ってその畑を買います。(マタイ13:44)」と言われました。信仰によって与えられる天の御国の価値が分からない人は、この世の朽ちゆく価値にばかり目を向ける傾向があります。そして子供の信仰教育にも、関心がうすいものです。

パウロのお弟子さんのテモテは、オバアチャンとお母さんの信仰教育がものを言って(2テモテ1:5)、若い時から、かなりしっかりした信仰を持っていたようです。聖書をみても、テモテが大きく曲がっていた人生から救われたということを裏付けるような箇所は見当たりません。アメリカのように長い信仰の歴史のある国では、生まれた時から、殆ど不信仰という経験を知らずに育つ人たちもおります。「いつ新生したのかはっきり分からない」という人たちがいることは事実です。散々横道にそれたり、あるいは放蕩の限りをつくしたあげく、イエス様のもとに来るという人もおりますが、それは主の憐れみであります。そういう人生が勧められるわけではありません。「子供さんびか」にもあるように、「右にも曲がらず、左にも逸れず、ただまっすぐ進むのだ、進むのだ」が子供にとって、一番、幸いな人生であります。

子供の信仰教育は、親の信仰にかかっています。「必ず、この子を信仰者として育て上げる」という信仰です。やがて子供に本当の信仰が分かれば、必ず彼らはそういう信仰で育ててくれた親に感謝し、親を尊敬し、その次の世代にも、信仰を継承したいと考えるでしょう。こうして恵は千代に及ぶのです。(出エジプト20:6)