2006年11月19日
『種まきの譬』 マルコ4:1-9
(今週は、ゲスト・スピーカーでしたので、1986年6月8日の説教を掲載します。今から20年も前の説教だということをご承知おきください。)
4:1イエスはまた湖のほとりで教え始められた。おびただしい数の群衆がみもとに集まった。それでイエスは湖の上の舟に乗り、そこに腰をおろされ、群衆はみな岸べの陸地にいた。
4:2 イエスはたとえによって多くのことを教えられた。その教えの中でこ言われた。
4:3 「よく聞きなさい。種を蒔く人が種蒔きに出かけた。
4:4 蒔いているとき、種が道ばたに落ちた。すると、鳥が来て食べてしまった。
4:5 また、別の種が土の薄い岩地に落ちた。土が深くなかったので、すぐに芽を出した。
4:6 しかし日が上ると、焼けて、根がないために枯れてしまった。
4:7 また、別の種がいばらの中に落ちた。ところが、いばらが伸びて、それをふさいでしまったので、実を結ばなかった。
4:8 また、別の種が良い地に落ちた。すると芽ばえ、育って、実を結び、三十倍、六十倍、百倍になった。」
4:9 そしてイエスは言われた。「聞く耳のある者は聞きなさい。」
:10 さて、イエスだけになったとき、いつもつき従っている人たちが、十二弟子とともに、これらのたとえのことを尋ねた。
4:11 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです。
4:12 それは、『彼らは確かに見るには見るがわからず、聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため。』です。」
4:13 そして彼らにこう言われた。「このたとえがわからないのですか。そんなことで、いったいどうしてたとえの理解ができましょう。
4:14 種蒔く人は、みことばを蒔くのです。
4:15 みことばが道ばたに蒔かれるとは、こういう人たちのことです・・みことばを聞くと、すぐサタンが来て、彼らに蒔かれたみことばを持ち去ってしまうのです。
4:16 同じように、岩地に蒔かれるとは、こういう人たちのことです・・みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、
4:17 根を張らないで、ただしばらく続くだけです。それで、みことばのために困難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまいます。
4:18 もう一つの、いばらの中に種を蒔かれるとは、こういう人たちのことです。・・みことばを聞いてはいるが、
4:19 世の心づかいや、富の惑わし、その他いろいろな欲望がはいり込んで、みことばをふさぐので、実を結びません。
4:20 良い地に蒔かれるとは、みことばを聞いて受け入れ、三十倍、六十倍、百倍の実を結ぶ人たちです。」
イエス様の譬話を聞くことは、クリスチャンでない人たちにとっても興味深いことではないかと思います。イエス様は、しばしば譬話をなさいました。クリスチャンでない人たちの中には、難しそうなキリスト教教理のことや、理解し難い異国の文化や歴史を聞くより、肩がこらなくていいという方々があろうかと思います。けれどもいくら肩がこらないと申しましても、私たちクリスチャンは、このマルコの福音書から説教を聞くとき、この書の鍵句である、「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい(1:15)」を忘れてはけないと思います。お話の興味に誘われて、イエス様が本当に知って欲しいと願っておられることを、忘れないようにしましょう。
さて、今日のテキストの『種まきの譬』も興味あるお話です。教会では、日曜学校のクラスでは、よく話される話です。ここで忘れてはいけないのは『神の国』の価値であります。このマルコ伝によるイエス様の生涯シリーズ説教の初めのほうでも話ましたが、『神の国』とは、アメリカとか日本と言った国家のことではなく、むしろ神の支配とか、神の統治と言ったほうがいいと思います。イエスさまが、「神の国は、実にあなた方のただ中にあるのだ(ルカ17:21)」と言われたように、イエス様は信じる者のうちにおられるのです。つまり神であるイエス様が、私たちのうちにおいでになるなら、神の支配は私たちのうちにあって、神の国がそこにあるのです。ですから、悔い改めてイエス様を信じることが大切なのです。
今日のテキストでのイエス様の講壇は船の上です。人々は湖岸でイエス様のお話を聞きました。イエス様は四種類の地についてお語りになりました。道ばた、土の薄い岩地、いばらの中、そしてよい地です。この四種類の地に落ちた種が何を意味するかをイエス様はお語りになったのです。弟子達は尋ねました(V.10)。それに対して、イエス様は、「あなたがたには、神の国の奥義が知らされているが、ほかの人たちには、すべてがたとえで言われるのです(V.11)」と言われました。
ここの「あなたがた」と「ほかの人たち」の間には、大きな差があるのです。今日でもそうですが、クリスチャンと、ノンクリスチャンの間には、決定的な差があるのです。クリスチャンには永遠の命が約束されておりますが、ノンクリスチャンには滅びしかありません。パウロが言っておりますように、つまり「十字架のことばは、滅びに至る人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です(1コリント1:18)」なのです。彼らは、ストレートに話してもなかなか福音の真理が分からないのです。かえって「彼らはそれらを足で踏みつけ、向きなおってあなたがたにかみついてくるであろう(マタイ7:6)」なのです。またパウロは、「キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう(2コリント6:15)」とも言っています。ですから、御言葉を受け入れ、信じることがいつも奨励されます。
この譬は、『種まきの譬』と呼ばれていますが、種を蒔く人より、蒔かれる地のほうに強調点がおかれています。「種を蒔く人」は、イエス様自身です(マタイ13:37)。今日では牧師、伝道者、あるいは宣教師といった人たちに限定されがちですが、そうではなく、この御言葉という種を蒔く人はすべて、「種を蒔く人」です。
さて、それではその蒔かれる地について考えてみましょう。最初の道端は何を示しているでしょうか?イエス様自身の解説にもあるように、サタンにすぐに取られてしまう人のことです。あまりにも丸裸で、防御が出来ていないのですね。日本人のように、八百万の神々の霊が取り巻いてますと、そういう霊にすぐに見つかって、なかなか芽を出すことも、成長することも出来ません。伝統、習慣、そして経験などを通して、サタンは人々の霊をがんじがらめにするのです。
私は日曜学校の先生をしたことがあります。小さい子供は実に素直です。小学校4年生くらいまでの生徒は、私が「イエス様を信じて、永遠の命が欲しい人」と叫びますと、ほぼ100%手を挙げたものです。これが5−6年生くらいになると、そうはいかなくなります。だんだん手の上がり方が少なくなり、中学生になると、もう来る人が少なくなります。さまざまな霊によって、丁度道端に落ちた種のように、簡単にサタンの餌食になってしまいます。あるいは道ですから、歩く人や車で踏み固められてしまうということも言えましょう。ですから年齢が、高くなればなるほど、信じることが難しくなります。しかし、皆さんの周りにお年寄りがいても、諦めてはいけません。神には、何でも出来ないことはないのですから。
日本でよく知られた大衆伝道者、滝元明先生のお母さんは、長い間イエス様を信じなかったばかりか、滝元先生のイエス様に対する信仰と、東京から連れてきた年上の奥さまに対して、散々悪口を言われたそうです。「明、お前は田舎者で、東京から来たあの年増の嫁にだまされているんだ」とか、言われたそうです。けれども、このお母さんが、80歳を過ぎてからイエス様を信じてクリスチャンになりました。コロサイ3:14には、「愛は結びの帯として完全なものです」とありますが、キリストの愛は憎しみを克服するのです。
第二に、土の薄い岩地に落ちた種とは、どういうことでしょう。これは無責任と言いますか、あるいは熱しやすく冷めやすい人のことをさしています。こういう人歯、ある時は非常に熱心です。信仰の喜びで満たされています。しかし根がついていません。土の薄い岩地だからです。信仰は、「昔はよく教会に通ったものです」と言った一時的なものではありません。一生もち続けるものです。私たちは、一度は信仰はおったけど、バックスライドした人が、天国へ行けるということを信じません。信仰は、持ったら持ち続けることが大切です。土の薄い岩地でも、岩は取り除け、土壌を入れ替えれば畑になるでしょう。御言葉を根付かせることが大切です。
三番目の、いばらの中に落ちた種というのは、どういうことでしょう。これはつまり、この世の財産とか、地位とか名誉と言ったものに囚われている人をさします。彼らは本当は、素晴らしい人たちです。けれども、この世の誘惑と言ういばらが邪魔して、成長できないのです。その地は悪くはないのです。ただいばらが、クリスチャンとしての成長を阻むのです。いばらを取り除けなさい。「それがなかなか難しいのです」と、ある方は言われるでしょう。確かに私たちは、この世の誘惑の大きな時代に生きています。けれども役に立たないいばらは、個人の終末(死)の時には、水泡と帰すのです。イエス様の再臨の時には、(イエス様は、再びこの地上においでになると聖書は約束している) 信仰深く生きたかどうかだけが問われるのであって、どれだけ財産を持ったか、地位や、名誉があったかなどは、一切関係ないのです。イエス様は、ですから、「自分のため、虫も食わず、さびもつかず、また、盗人らが押し入って盗み出すこともない天に、宝をたくわえなさい(マタイ6:20)」と言われますし、「富んでいる者が神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通る方が、もっとやさしい(マタイ19:24)」とも言われました。『神の国』の尊さを考えれば、あなたはどちらをとるべきか、すぐ分かると思います。私たちにとって、神の国は、永遠の命の約束であり、人間にとって何としても手にいれなくてはならないものです。
私の家は農家でした。私も子供の頃からよく農作業を手伝いました。本当にいばらのあるところもあるのです。小さな子供には、そういうところで仕事を手伝うのは苦手でした。ところが両親が鎌や鍬でいばらを取り払ってくれると、よい黒い土が出てきました。いばらを取り払うことです。聖歌521は、「キリストには代えられません。世の宝もまた富も、このお方が私に代わって死んだゆえです。世の楽しみよされ、世の誉れよゆけ。キリストには代えられません。世の何物も」と歌います。いばらは、すっかり取り払いましょう。
さて、最後はよい地に落ちた種です。これは御言葉を疑いなく、受け入れ信じるひとです。あるいは「そうかなあ」と思いつつも、その御言葉を信頼して、飛び込む人のことです。神の御言葉に信頼するところに、愛、喜び、解決、癒しといった実が、30倍、60倍、100倍と結ばれるのです。
神の御言葉のうちに生きましょう。神の御言葉によって生きましょう。神の御言葉のために生きましょう。我らの心の内をいつも、良い地に保っていましょう。そしてたくさんの御言葉を成長させましょう。聖書を読むことは大切です。聖書は言います、「すべてのことを、つぶやかず、疑わずに行ないなさい。それは、あなたがたが、非難されるところのない純真な者となり、また、曲がった邪悪な世代の中にあって傷のない神の子どもとなり、いのちのことばをしっかり握って、彼らの間で世の光として輝くためです(ピリピ2:14-16)」 と。御言葉を素直に受け入れてください。そして信じてください。神の国があなたのうちにひろがります。