2006年12月3日
『赦しの福音』 ヨハネ8:1-11
8:1 イエスはオリーブ山に行かれた。
8:2 そして、朝早く、イエスはもう一度宮にはいられた。民衆はみな、みもとに寄って来た。イエスはすわって、彼らに教え始められた。
8:3 すると、律法学者とパリサイ人が、姦淫の場で捕えられたひとりの女を連れて来て、真中に置いてから、
8:4 イエスに言った。「先生。この女は姦淫の現場でつかまえられたのです。
8:5 モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか。」
8:6 彼らはイエスをためしてこう言ったのである。それは、イエスを告発する理由を得るためであった。しかし、イエスは身をかがめて、指で地面に書いておられた。
8:7 けれども、彼らが問い続けてやめなかったので、イエスは身を起こして言われた。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」
8:8 そしてイエスは、もう一度身をかがめて、地面に書かれた。
8:9 彼らはそれを聞くと、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された。女はそのままそこにいた。
8:10 イエスは身を起こして、その女に言われた。「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか。」
8:11 彼女は言った。「だれもいません。」そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」
今朝のお話は、姦淫の現場で捕らえられた女の話です。この話を今日に適用するには、いささか説明が必要です。と、申しますのは、今日の人々の多くは、姦淫という行為に対して、人々はそんなに罪悪感を持っていないからであります。姦淫というのは、聖書が認めていないあらゆる性的不道徳行為という風に捕らえてよいと思います。
まず正当な結婚関係の外で営まれるセックスは、すべてアウトだと言えます。ところが最近は、同性の結婚も認められる州があるようですが、あれは州の法律でありまして、州の法律と言うのは時々聖書より権威がありません。この世では合法的でも、聖書は否定しておりますから、それも正当な結婚ではありません。
「愛し合っていれば、よいではないか」とか、「お互いの合意の上でなら、よいではないか」という人たちが沢山おりますが、それはその人たちだけの、あるいはそういう社会の認識であって、聖書はあくまでノーといいます。
この問題が難しいのは、さらに私たちが住む世界では、プライヴァシーという考え方があるからです。「ほっといて下さい。私のプライヴァシーの問題ですから」ということです。アメリカでもこの種の罪で、教会員が誡規にかけられたケースがありますが、そういう問題がこじれてくるとこの世の裁判に持っていかれ、大体教会が負けます。それでアメリカの教会は、負けた時のために保険に入っていますが、まったくバカな話です。アメリカでは、教会の内部の問題に対して、外部(政府)の権力の方が強いのです。少なくともこの点では、まだ日本の方が、うーんと信教の自由と申しますか、国歌が宗教には入り込めないと言う点で、しっかりしていると思います。
この婦人は、何も公衆の面前でその行為の途中で捕らえられたのではないでしょう。今も昔もこういう行為は、人が見ているところではやらないと思います。「あやしいな」と思われて、踏み込まれたのでしょうか。これを今日、だれかがやったら、まず絶対踏み込んだほうが処罰されるでしょうね。完全にプライヴァシーの侵害だからです。絶対に不道徳行為が、このイエス様の時代のイスラエルのように、公の裁判の席で糾弾されることはないでしょう。仮にラブ・ホテルのようなところから二人で出てきたのを見られても、それは決定的な証拠にはならないでしょう。しかしそういう疑いをもたれるような行動をすべきではないことは言うまでもありません。ただ今日は、姦淫問題が、裁判の席で糾弾されることはないと申しましても、聖書からみて不道徳なことをすれば、人間と人間の間では問題が起こることが、普通ですね。
「たくの夫は、本当にいい男でございまして、とても親切で、なかなかお子様の出来なかった、よそ様の奥様に、子供をはらませてあげたんですのよ。私は、本当に他人にも親切な夫を持って、誇りに思っておりわ・・・・・・ホホホホ」 とか、「うちの娘は、今月もっともセックス・アクティヴィティーが活発だったというので、学校でオーナー・ロールをもらったのです」と自慢する親がいるとか、まあ、中には変わった人がおりますので、「絶対ない」とは申しませんが、こう言った考え方は、一般的には世の終わりまで決して承認されない考え方でしょう。聖書に反した行動をとれば悲しむ人がいるでしょうし、さまざまな問題を引き起こすでしょう。
このテキストの婦人は、姦淫の罪を犯したのです。すると当時のあの社会ではモーセの律法が基準でしたから、イエス様に敵対していた律法学者とパリサイ人たちは、「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか」と言いました。これは、レビ20:10とか、申命記22:22-23 などを根拠にしていると思います。そして主 がその時、「そう、石打が妥当である。石打にしなさい」と言われたら、民衆の支持を失ったでしょう。一方、「赦してやりなさい」と言えば、「モーセの律法を破る者」と糾弾されたでしょう。つまり、どうにも出来ないであろう、問いかけだったのです。
その時、主は「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われたのです。すると、聖書によれば、「年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された」のです。
もし罪のない人が、石を投げられるのでしたら、イエス様だけが、この女に石を投げる資格があったのです。何故ならイエス様は罪がないお方だからです。ところが、イエス様は、この女に石を投げましたか? 投げませんでした。
覚えていただきたいことは、イエス様がこの世においでになったのは、罪を赦すためでした。これは割引も割増もありません。バプテスマのヨハネが、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊(ヨハネ1:29)」と言ったのは、まさにその通りです。
考えてみれば、人間というものは、愚かな存在でありまして、ダメだと分かっていても、ついこの種の過ちを犯してしまいます。私と同年の実力派の歌手に細川たかしさんという方がおります。彼のデビュー曲は、なかにし礼さん作詞の『心のこり』ですが、それは「私バカよね、おバカさんよね」と歌いだします。そして「後ろ指、後ろ指さされても」ですから、おそらく不倫とか、不道徳の恋愛だったのでしょう、「あなた一人に命をかけて、耐えてきたのよ、今日まで」と、ダメと知りつつ関係を持っていたようでしたが、「秋風が吹く、港の町を、船が出て行くように、私も旅に出るわ、明日の朝あやく」ですから、禁断の恋は破綻したのか、駆け落ちでしょうか?いずれにしても、不当な関係です。
人間は、こういう関係が好きですね。お昼下がりのメロドラマは、おば様たちに人気があります。アメリカでもソープオペラと呼ばれるこの種の番組は、いつもお昼下がりにやっています。しなしば、お芝居や歌にもなって、涙すら流す人がおります。こういうちょっとまゆをしかめるような問題ではなくても、「だめだなあ」と思いつつも、ズルズルと罪の縄目にからまって後悔することがあると思います。言葉や態度で人を傷つけることもあります。あるいは本当に取り返しのつかないことをしてしまったという人もいるかもしれません。そういう場合、もうおしまいでしょうか?もう絶対立ち直るチャンスはないのでしょうか?
ここが大切なところです。イエス様のところに来るなら、どんな罪の重荷のある人でも、解決の道があります。何故ならイエス様は、赦すためにこの世に来られたからです。
この女は何時石が飛んでくるだろうと、オドオドしていたと思います。ところが、イエス様は、「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」と言われました。そうしたら、「年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された」のです。つまりイエス様以外は誰もいなくなったのです。イエス様は、神様ですから、この時、この女が自分のやったことについて、その非を認めて、悔いていたことを御存知でした。そうでなければ、「わたしもあなたを罪に定めない」とは言われなかったでしょう。
この女が、心の中で、「だれでもやってるじゃないか。今日捕まったのは不運だった。何とかこの窮地から逃れる方法はないかなあ・・・」などと考えていたのだったら、何と言われたのか分かりませんが、少なくともイエス様には、別の答え方があったでしょう。
ただ単純にイエス様のところに来れば、赦されるというのではなく、悔いた砕かれた心で来ることです。ダビデは、詩篇34:18 で、「主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ、たましいの砕か れた者を救われる」と言いました。その心に、悔いた思いがあるか、砕かれているかということは、心の内を見ることが出来る主は御存知です。
考えてみれば、神は、パリサイ人とか律法学者を用いて、この婦人がイエス様のもとに来ることが出来るように、計画なさいました。どういうかたちであれ、イエス様に身を避けることが出来るようにされました。これは幸いでした。
今日でも、多くの人々は絶望的な状況から、イエス様のもとにやって参ります。これは深い神さまの配慮ですね。この女が、そういう不道徳な人生を送っていたことは不幸なことであったように、今日の人々でも、イエス様のもとに来る以前の生活は悲しいことが常ですが、それでもイエス様のもとに来られたことはよかったのです。
イエス様は、「もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです(マタイ18:8)」と言われました。
私の妻の一番上の兄は、言ってみれば本当に『放蕩息子』でした。なかなかイエス様を信じませんでしたが、十年位前に脳梗塞になり、半身が麻痺してどうにもならなくなった時、イエス様に目を向け、救われたのです。彼はその後、2001年にガンで召されましたが、人生の最後の数年は、本当に輝いておりました。失ったものは多かったですね。家庭を失い、親や兄弟の信頼を失い、仕事を失い、健康を失い、最後には命も失いました。しかし彼は、イエス様を得ました、永遠の命の希望を得ました。
罪を、赦されることが大切です。イエス様は、砕けた心で来るものに対して、裁いたり、罰したり、非難したりはなさいません。それは赦すという目的で来られているからです。あなたのこれまでの人生が、どれだけ罪にまみれていたとしても、イエス様は赦すことがおできになります。
人殺しとか、泥棒などは、この世の法律でも処罰されますから、犯罪と認定されやすいですが、姦淫の問題は、現代社会では、その罪の認定は非常に弱いものです。しかし確かに、「石打ち」に相当する罪であります。
イエス様は、「婦人よ。あの人たちは今どこにいますか。あなたを罪に定める者はなかったのですか」とお尋ねになりました。すると、この女は、「だれもいません」と答えました。イエス様は、「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません」と言われました。罪のない、石を投げる資格のあるイエスさまが、「わたしもあなたを罪に定めない」と言われたのです。
罪を認めて悔いた心をもちましょう。イエス様のもとに身を避けましょう。必ずあなたは神であるイエス様に赦され、本当に平安に満ちた歩みが出来ます。
祈ります。