2006年12月3日

「神癒」

  アッセンブリーズ・オブ・ゴッドの、「基本的真理に関する宣言」には、神癒という一項目があります。神が病を癒して下さるということは、私たちの教派の中では広く信じられ、実際に神癒のために祈りもなされています。極めて単純に、オリーブ油を塗って祈るという行為も、いたるところで見られますが、実は不幸なことに、これを子供だましと受け取っている教派もあります。

   何年か前、日系二世の女性のクリスチャンが、一世の父親が末期ガンで祈ってほしい、と連絡してきたことがありました。その人の言うには、最初某日系キリスト教会に電話したのですが、「うちはそういうご利益のような癒しのための祈祷はしない」と言われて、私どもの教会に連絡してきたのです。38年もの間、ベテスダの池のふちで、水の動くのを待っていた病人に主は、「罪が赦されたいのか」とか、「永遠の命がほしいのか」と尋ねられたのではなく、「よくなりたいか(ヨハネ5:6)」と尋ねられました。病の人にとっては、病が癒されることは、本当に切実な思いであり、主はそのことを決して忘れてはおいでになりません。ですから、病の癒しのために祈る、あるいは祈ってあげるということはきわめて信仰的であります。けれども、今日神癒の信仰と言いましても、私たちの教派の中でも、このプラクティスにはばらつきがあるように思います。そして時として非聖書的な教えをする場合があって、他教派の人達は当惑することがあると思います。

   私たちは、「病人に手を置けば病人はいやされます(マルコ16:18)」「あなたがたのうちに病気の人がいますか。その人は教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリーブ油を塗って祈ってもらいなさい。信仰による祈りは、病む人を回復させます。主はその人を立たせてくださいます(ヤコブ5:14:15)」と言った聖句を引き合いに出して、神癒の信仰を教えます。けれども間違えてほしくないことは、いつも、だれでも、どこででも、病気の人に癒されると言う信仰があり、長老を招いて、オリーブ油を注いで祈ったら癒されるか、と申しますと、これは現実的にもとてもありえないことです。聖書は、普遍的、永遠的に、人間の側が願ったように癒しが行われるなどということは、約束していません。「約束していません」などという「否定的なことを言うのがすでに信仰がないのだ」と言われるかもしれません。しかし、主は「みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように(マタイ6:10)」と祈るように、勧めておられます。マルコ1:40では、一人のツァラアト*人が、「お心一つで、私はきよくしていただけます」と申しました。そして主は、このツァラアト*人を癒されました。主のみ心で癒されたのです。神癒は、基本的には主の御心でなるのです。主の御心は、しばしば人間の常識を超えていることは事実です。

   近年は平均寿命が随分長くなりました。しかし人は誰もいつかは死にます。みんながみんな平均寿命まで生きるのではありません。当然ですが、ある人達は百歳を超えても尚生き、ある人達は生まれて間もないベイビーのうちに死ぬこともあります。

   私は、アッセンブリース・オブ・ゴッドの牧師として、オリーブ油を塗って、病の人に手をおいて主に「御心ならば癒してくださるように」と祈ることは、極めて聖書的であると、信じておりますし、実際にそのように祈りもします。そしてみ心がなるときには、科学的にはまったく不可解なことでも、起き得ると信じます。

   今から15年位前、当時二十代のアメリカの青年のS君がシージャー(Seizure脳の血管が狭く、血流が詰まる病気)でした。お母さんが日本人で、よく私たちの教会にも来ていました。二回発作で倒れて救急で病院へ行きました。一度は礼拝に出ていた時だったので、会衆はびっくりしました。スタンフォード大の脳外科の先生の検査で、「これは手術しか根治はない。しかしその手術の成功率は60%」と言われたのです。両親は非常に悩みましたが、この青年が「60%にかける」と申しました。というのはこの青年は小さい時からの夢で、パイロットになりたかったので、どうしても完全にこのシージャーを治したかったのです。スタンフォードの先生の紹介で、その道のエキスパートのハーヴァード大の先生が紹介され、手術のためにお母さんが付き添ってボストンに行きました。私たちも皆、祈りました。ところが、手術前の最終検査で、なんと異常が完全に消えていたのです。東のハーヴァード、西のスタンフォードという超名門の病院での検査ですから、普通の常識では誤診などということは考えられません。ハーヴァード大の先生も、紹介者のスタンフォー大の先生も、頭をかかえて「いったい何が起こったのか分からない」でした。しかし彼らは、癒してくださった主を讃えながら、帰ってきたのです。私たちも主を崇めました。彼は勿論今も元気で、サンホゼに住んでいます。信仰のない人は、「偶然」とか、「何かの間違いだった」と言うでしょう。しかし、私たちは主が癒してくださったと信じるのです。

   ただ問題は、癒しのみ業が拝される時はよいのですが、癒されなかった時のことです。ある神癒極端主義者達は、「彼らは神癒の信仰が足りなかったのだ」とか、「神癒の信仰がなかったのだ」と主張することがあります。これは非常に心無い言い方です。彼らはまた「断食が足りなかった」「徹夜で祈るべきだった」「毎朝四時間は祈るべきだった」と、祈りの質や、祈祷時間の長さに言及してくることもあります。しかし、もしそうならそういう人達の間では、必ずいつも、癒しがなされているのかと問えば明らかです。癒しの集会に行って、癒されなかった人に、「あなたは信仰が足りなったのだ」などという心無い言い方が出来るでしょうか。神癒の祈りというのは非常に目立つプラクティスです。私は、ある神癒で知られた伝道者から聞いたことがあります。彼が言うには、「癒された時のことは評判になる。祈っても癒されなかったこともある。しかし癒されなかった人のことは、そう評判にはならない」でした。

    人間が一度死ぬことは、聖書によらずとも、この世の理でありますし、それがたとえ平均寿命よりも随分若くて死ぬことも、中にはあるのが現実です。イエス様の全能の力が働けば、癒しがなされるのですから、ステパノやヤコブ、その他聖書に記されていないのですが、殉教したと伝えられるペテロやパウロさえも、その力で守られたでしょう。しかし、主は彼らが若くて死ぬことを許されたのです。今日でもそうです。若くて死ぬクリスチャンもおります。彼らの信仰は疑問なのでしょうか。私は、決してそういう思慮のない教えはいたしません。

   癒されて神の栄光が拝されることもしばしばありますが、若くて死ぬことで神の栄光が拝されることも沢山あります。 現実として、私たちの教派でも、癒しのみ業が非常に顕著な教会も、そうでない教会もあるでしょう。顕著な教会には、私たちもまた、ただ主を崇めればよいのです。時々残念なことに「癒しがない教会は、祝福されていな教会だ」というような声を聞くことがありますが、こういうナイーブな態度が、神癒を信じる私たちの教派について、他の人たちを誤解させるのです。癒されると信じて祈ることは大切です。しかしその結果、癒されても、癒されなくても、主が御心をなしてくださったと、信じ受け入れる人は信仰者であり、十全です。癒されたら、「主は癒し主」と感謝をすればよいですし、仮に病がすぐに癒されなかったとしても、祈り続けることで主が癒し主であるという信仰を持ち続けていくなら、すぐにではなくても時が来て癒されることもあるでしょう。あるいは召されるということで「完全な癒し」を拝するかも知れません。それもまた神に栄光を帰することです。この世において病気が癒されたかどうかでもって、信仰のあるなしをはかるなどということは、ナンセンスです。

主は癒して下さるという、「聖書の言葉」を信じる信仰を持ちたいものです。

 

*   以前は「らい病」という語があてられていたこの病気について、最近の日本語訳聖書は、「重い皮膚病」とか、原語の「ツァラアト」とそのまま使っています。英語は、私の知る限りでは依然、Leprosy が使われていますが、ヘブル語の本来の意味は、今日で言うLeprosy とか Leper、つまり ハンセン病に限らないようです。私は、以前に「癩病」といういい方は、「キャンサー」に対する「癌」と同じで、差別用語ではないという持論を持っていました。このスタンスは今でも変わりませんが、しかし「癩病」は多くの場合、差別・不快用語のようですから、ハンセン病(煩染病あるいは煩洗病という当て字も考えました。)にしたら、どうかとも思っていました。しかし、その後、さらに色々考えまして、かりに差別用語でないとしても、この病に苦しむ人には不快用語なのでしょうから、へブル語原語も、必ずしもハンセン病に限らないということもありまして、やはり新改訳で使われている原語の「ツァラアト」とか、共同訳の「重い皮膚病」の方が適切かと思っています。